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【詩】十八の猫

 何を考え好み、嫌い欲していたのか、猫の額を思い浮かべた。昼の霧に記憶はひどく胡乱で、残る視界に明瞭な像は結べない。輪郭で捉えても目の隅を滑り、全体が上手く腑に落ちない。白い顔の笑窪に焦点が浮かび、膨らんだ唇に黒子は切れる。夕焼けのチークに頬が火照る。明るい役者の落ち着きに、大ぶりのあざとい演技はない。粒立ったメロドラマの切なさが、映画越しに今の風を紊乱している。育ちの良い見識が弁を回し、話を広げる相槌はそれ以上に上手だ。選んだ言葉に暖かさが伝って、皮肉の僕を十八歳で包んでくれた。


 粒餡か漉餡かの議題から死生観に至るあらゆる話をした。湿っぽい身の上話になった。気が付けば二人とも感情的に、身の荒んだ心を投げ合った。センチメンタルになった猫の小言に、幼女の化身は涙ぐんだ。静かに斜め下を俯く。独りに喋りかけて言い聞かせる。閉口した言葉がシャッター街の夜更けを鎮める。僕は遠い遊園地で沈黙の迷子になり、雪の世界で呆然と寂しい表情に戻る。猫は白く無音な立方体で体育座りし、全てを知覚できない世界へ埋没する。僕の座った前にコーヒーが茹立ち、ドビュッシーが旋律を導こうと。水に湿った心に耳をそば立てたら、呻き声はモスキート音で聞こえない。


 僕は猫を最も深く理解する人間の一人だった。作りが堅固の弱い動物は、使えばあっさり歪んで壊れる。孤独に死んだ二人の同棲は、脆い感情と脆い感情の狭間を生きた。的外れの矜持が激情的に遮り、思考の硝子を荒く暴力的にさせた。結局、僕は猫やそれ以上に気の弱い人間だった。育った環境と趣味嗜好は違う、地位と対人関係は違う。でも、二人は囚われた身の根底で通じ合っていた。平行に辿る矢印が、交わる程度に社会と逆へ。羽の付いたマジョリティが飛び立ち、僕たちは背中を揃えて指で押さえる。その感覚の共通性を確かめ合う。


 交わった遡行しない矢印の分離を歩き出した。永遠は存在しない。生は出逢って袂別し袂別する残酷な両義性に過ぎない。


 額の形状と色調に、合わせる服は何か。動機付ける行いは何か。見返せば世界現象のいかなる解釈も可能だ。揮発した僕の若さに残る砂利が、潮に晒されて細かく割れた。そして悟った(が遅かった)。目に焼いて永遠を忘れた猫はどこまでも無益だった。


 一握の砂は八年経ち、十年経てば掌に埋まる。永遠の端を瓶に詰めて海へ流す。砂が浜を超えた島を小蟹が達観する。僕の島のオリジナル。森の諸相を知って泡を吐いた、不確かな未来に嘆いて。意識を奪って悪へ向かい、やがて受け入れるために。


(秕目)



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