見出し画像

死者のため=生者のため

お墓って何のためにあるのだろう。仏壇って何の為にあるのだろう。死んだ人はもう既に死んでいるのだから、自分がどこに埋葬されようと、仏壇がなくて手を合わせられることがなくても気にしていないのではないだろうか。そんなことを随分と昔からずっと考えている。

この前、父方の祖母の葬式があった。10何年会っていなかったので近しい親族の葬式なのに、他人の葬式に参列している感覚だった。

式場を見る時間と心の余裕があったので式場を見て回った。物珍しいものがたくさんあった。中央に箸が突き立てられたご飯が綺麗に山によそられていて、このご飯はこの1回のためにわざわざ炊いたのだろうか、こんなに綺麗に盛るにはコツがあるのか、型があるのか。ご飯って他の葬儀と使いまわしてもバレなさそうだよなとか(失礼すぎる)。

葬式の最中、全然関係ないことをずっと考えていた。木魚の音が、ひいおばあちゃんの何回忌とかと同じ音だったので、もしかして木魚ってお坊さんのmy木魚なのかもしれない。
「今日はよろしくお願いします」とお坊さんに挨拶したときにお坊さんは下駄を履いていたのに、葬儀場に入ってきたらスリッパだったので、お坊さんがお経をあげる赤い絨毯の上は土足厳禁なのかも。
葬儀場の大理石調の床に四角い模様が2個デザインとして埋め込まれていて、なんであんなところに四角い模様を付けたんだろう、何か意味があるのか、単に装飾なのか。装飾だとしたら葬儀場を飾る必要性ってなんだろう。
戒名料って高いんだな。遺族がいれば戒名をつけられるけど、遺族のいないホームレスの人が亡くなった場合、戒名は誰がつけるんだろう。戒名をつけないといけない理由は分かるけどそれって本当にどんな場合でも必ずつけないといけないんだろうか。戒名をつけるお金が無い人はどうするんだろう。仏になったときの呼び名って誰に呼ばれるためのものなんだろうとか。母方の祖母のときは棺の中に刀や六文銭(お金は入れられないので絵を印刷した紙切れ)を入れたのに今回の葬儀は入れないんだな、宗教の違いって面白いなとか。

そんなことを考えて葬儀が終わって、火葬場に行く際に、葬儀場の出入口に「天国へのポスト」か設置されていた。故人への手紙を書くと届けてくれるらしい。お焚き上げでもするのだろうか。

お墓も天国へのポストも、死者のためにあるように見えてその実、生者のためにあるのだと私は思う。
故人にいつでも手を合わせられて、その墓石の下に骨があるからまるでそこに故人がいると思える墓。
故人に言いたかったことや伝えたかったことを書いて手紙を届けてくれるらしい天国へのポスト。
生者はまだ生きているから故人との思い出に自分だけ取り残されてしんどくなる。懐かしいねって笑い合える故人はもういないのに自分だけ覚えていて、日常のそこかしこに故人との思い出があるからしんどくなる。そんなときに手を合わせる墓や、天国へのポストが必要になるんだろう。

自分がいつ死ぬのかは分からない。明日かもしれない。数秒後かもしれない。いつ死ぬか分からないからやりたいことをやって楽しく生きていきたい。
棺の中で白やピンクや赤や紫などのカラフルな花に埋もれて、自分が死んだことを誰かに泣かれて、そうやって人生を閉じられたらいいなと思った。