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解説 純粋4コマ主義


(※こちら美術紫水さん運営メディア『ひとのきもち』で2023年12月5日に掲載させていただいた記事の加筆・修正したものになります)



4つのコマが、ただそこに描かれている



これは、果たして4コマ漫画でしょうか?




「純粋4コマ主義」と名付けられたこのイラストは、漫画家であり概念創作者であるいとととが描いた現代4コマの中のいち作品です。


純粋4コマ主義とは、現代4コマで起こった運動の一つ。いとととが最初に提唱したとされる。

4コマの枠内に何も描かれていない純粋な空間だけを見せることで、視覚的な空間の演出を極限まで追求する運動。
枠内に何も描かれていない状態の4コマだけが真の4コマであり、それ以外は純粋な美しさを持たないとされる。
また、純粋4コマ主義では、4つのコマが縦に並んだオーソドックスな形式の4コマのみを4コマと認めている。

現代4コマWiki「純粋4コマ主義」から引用


初めて純粋4コマ主義という作品を見た時の自分の感情はもう思い出せません。
もはやそれは、“風景“そのもの だったからです。


いとととという表現者は常にこういった脱表現行為それ自体を作品とし、その悪ふざけ的なノリをそのままに画面越しの名も無き無数の視聴者たちと楽しげに共鳴することで、妙な勢いと親和性、瞬間芸術みを帯びたグルーヴを生み出して、いつのまにか概念化してしまうという運動を行い続けてきたと、いち名も無き視聴者の端くれとしてそれを強く感じます。

もっと言ってしまえば、いとととという概念創作者自身も名も無き視聴者の一人であることは揺るがぬ事実であり、逆説的にその位置から作品を生み出しながらも同時にフォロワーたちによる枝葉的な二次創作が繰り広げられ「現代4コマ」というムーブメントを気付いたら誕生させていたのだと思います。その最小単位での伝統継承が幾重にも積み上がり、結果それら作品群をネットの海に大量に漂流させている現象に集合知芸術と呼べてしまえるような所業を覚えずにいられません。




もはや説明は不要かと思われますが、彼が作り出した「現代4コマ」という創作概念は、「現代アート」と「4コマ漫画」の融合から始まったものです。



「is this 4 frames?」

「カニ食べている時」「カニカマ食べている時」

「運命を思いついた瞬間」

プーさん

「藤岡弘、の4コマ」


あたりが代表作になりますでしょうか。
いわば、これらは既存の4コマ漫画という概念、表現規律などを前提の上にそれをズラしてゆくことで辿り着いている面白みだと思います。
そのズラし自体は特にギャグ漫画家であれば誰しもが試みる作業工程であり、それは主にストーリー、キャラ、シチュエーション、フレーズ、テンポ、などに持ち込まれている成分であると読者も含め理解は広く波及されています。

ここで、そのズラしの主題を ”枠(フレーム)” に絞ったところにまず画期性があります。

それはつまり、“ズラし”そのものをズラしているという転換だからです。

なおかつ、それを全体の流れの中でのギャグのひとつとして描くだけでなく、それをパターンの提示としてルール設定にまで突き刺し、そのままパッケージングしていくつかの“枠ズラし作品“としてそれらを並べていってしまったのです。
端的に言えば大喜利化なのですが、これはタイトルそのものが大喜利性を伴っている4コマ漫画という形態自体の大喜利化なので、もっと前提知識を伴いながら根幹を覆していることになります。


厳密に言えば

“「こんな大喜利は嫌だ。どんな大喜利?」という問題化”

みたいな感じだと思います。

むちゃくちゃハイコンテクスト。
そして、なのにそれをそう感じさせていない、というところに凄みがあると思う。



また、正直こういった作品昇華それ自体は真新しいものでもないともサブカルチャー的視点では感じるところではあります。
かつて、若手芸人のライヴ単位であればバカリズムがモノボケ大喜利コーナーで並べられている小道具全体を指差し「フリーマーケット」と回答をしていたと、当時のライヴレポを歴史的資料としてを振り返れば記録が残っていることが確認されています。
こういった脱構築的な面白みそのものは、むしろ太古から数えきられない程に繰り返されてきたコンセプチュアルアート的な俯瞰思考回路なのだと、なんとなくの皮膚感覚としても覚えるものがあるわけです。

ただ、それを踏まえてみるのであれば、現代4コマという表現はあまりにも“ジャンル化“されすぎている、と思います。

上記の無数の二次創作が語らずともそれを物語っていると。
大喜利の回答のひとつであるだけでなく、循環的に大喜利の問題に領域的到達を成しているのです。

これはアート、カルチャー、コンテンツ、であると同時にフォーマットであり、さらに言及してしまえば、「メディア」であると解釈しています。機能的には情報伝達とその拡張を担っているのです。


「純粋4コマ主義」という作品は、
それの最たる例として、ひとつの到達点では無いでしょうか。


果たしてこれを“4コマ漫画”だと捉えていいのか?



いや、4コマであることは確かだが…
むしろ4コマでしかない、というか…

そうか、“純粋“ 4コマか…

たしかに純粋な4コマと言われれば、何よりも純粋に4コマだけを表していると言えるのかもしれないが…

でも、ただそれだけとしか…


う〜ん、いやでも“ただ、それだけ”だから純粋4コマであることは覆りようがないのか…だとしたら他のどの4コマ漫画よりも4コマ漫画だということになるのか…

いや、でも…




と、こういうような懐疑と納得の螺旋階段からゴロゴロと転げ落ちてゆくような面白さに見るものを陥いらせてゆくのです。悪ふざけが過ぎる。


そして、これこそが「メディア」そのものである事の証明にも繋がっていると思います。

“枠“そのものを主体とする事で、そこに情報伝達が乗っかっている

通常の4コマ漫画が “コマ“ によってその内外を区切ることで、そこにストーリーやキャラクターを注入し場として機能させ表現を行っている…のならば、コマはあくまで漫画という表現形態に付随する道具であり、それを内包しているメディア形態は「漫画」が主体であることが把握できます。

しかし、純粋4コマ主義から分かるように、現代4コマはコマそのものが作品自我に直結しているために、漫画というツールを経由していません。なんなら漫画という要素はフォーマットにおける前提知識として、いわゆる“ネタフリ“に使われてしまっています。漫画(というルール構造)の方が現代4コマにとっては道具的機能扱いですらあります。

コマがメディア的機能を有しそれに伴って作品性が立脚している

受け手が抱く懐疑と納得という面白みは、
コマを主軸に「純粋4コマ主義」という大喜利の回答を知覚することで発祥している事が体感的にも間違いありません。

これが現代4コマのメディア的機能、もといメディアそのものである事の証明です。




ここで思い出す芸術作品があります。

ロシアの画家 カジミール・マレーヴィチの「黒の正方形」です。


彼は絶対主義を意味するシュプレマティスムを提唱し、1915年にぺトグラードで開かれた「0、10展」で真っ黒い四角形だけを描いた作品を発表しました。


この絵画作品には「もの」が描かれていない。中央の正方形は単に描かれたカンバスの枠が折り返されたものである。マレーヴィチは自身を「無対象」を手法とする画家と位置づけているが、これは20世紀の大きな潮流のひとつである抽象だといえる。対象を精確に再現するという「リアリズム」を捉え直し、手法そのものを露出させる芸術意識のもと、マレーヴィチは「もの」を描くことをやめた。つまり何かを再現するときに求められる「約束事」を放棄したのである。シュプレマティズム(あるいは『黒の正方形』)は厳密にいえば、ある「もの」を抽象しているのですらない。そのかわりに絵画の本質とみなされたものこそ「色彩」であり、彼はそれを単なる「対象」の彩りではなく色彩のエネルギーとして自立させようとしたのである。

「新しい絵画のリアリズムはまさしく絵画のものである。なぜならそこには山のリアリズムも、空のリアリズムも、水のリアリズムもないからである。
これまで、物のリアリズムはあった。しかし、絵画の、色彩の諸単位のリアリズムはなかった。そうした単位は形態にも、色彩にも、相互の位置関係にも左右されないように構成されている。」

Wikipedia「黒の正方形」から引用


極限まで廃された絵画様式とそれによってそこにただ置かれた本質という概念は、
極限まで廃された漫画表現とそれによってそこにただ置かれたコマという悪ノリ、
と寸分狂わずピタリと一致していると感じて止みません。

無対象を掲げ、絵画そのものを描くという表現は「絵画」という形態の概念化、と同時にそれを前提共有しネタフリとして利用することで作品提示してみせるその一連の意識体系自体が絵画そのもののメディア的機能利用、概念創作という芸術行為に他なりません。

いとととの現代4コマは漫画表現という出発ながら、領域的にはそういった抽象地点に達しているのです。





改めて、「純粋4コマ主義」を眺めてみましょう。



4つのコマが、ただそこに描かれている


これは、果たして4コマ漫画でしょうか?


純粋な4コマという枠そのものだけ置かれた概念でしょうか?


コマというメディア形態を経由し表現されたシュプレマティスム?




きっと、ここまでで様々な思いを巡らせてみて結局は何がなんだかわからなくなってきた という読者の方も多いでしょう。
もしかすると、これは本当はただの手抜きの漫画原稿を作品だと言い張っているだけの可能性にも思えてきた。
見れば見るほど解釈の深みにハマってゆく…なんなんだろう…なんなんだろう、これは…これは、一体、なんなんだろう、か…?






そこで、ふと 感じるかもしれません。



形態にも、色彩にも、相互の位置関係にも左右されない 4コマ という風景そのものを。








それが、

「純粋4コマ主義」   それなのです。



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