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昔、甲子園球場には慶應ボーイの立派な銅像が飾られていた

慶應高校野球部107年ぶりの優勝、おめでとうございます。現役の慶應生の方々はもちろん、三田会の皆様もさぞお喜びのことと思います。
実はお伝えしたいことがございます。

実は甲子園と慶應ボーイは切っても切れない関係にあるということです。

甲子園球場の正式名称は阪神甲子園球場。阪神というのは、大阪と神戸を結ぶ鉄道会社である阪神電気鉄道を意味します。実際、今現在も阪神電気鉄道が甲子園を所有・管理しています。

さて、では阪神電気鉄道はどうして球場を作ったのでしょうか。
もちろん阪神タイガースがあるから・・・と思いがちですが、実は違います。

阪神電気鉄道が読売新聞社社主、正力松太郎の誘いで阪神タイガースを発足させたのは1935年、甲子園が建設されたのは1924年。実は甲子園は、高校野球大会のために作られた球場なのです。

阪神電気鉄道の初代社長は外山脩造とやましゅうぞう。幼名を寅太といいます。この、外山脩造という人物、実は長岡藩士で戊辰戦争最大の戦闘となった北越戦争に参加しています。脩造(寅太)は奥羽越列藩同盟の総大将であった河井継之助が絶命する寸前に、福沢諭吉に当てた推薦状を持って慶應義塾に入学するのです。

その後、大蔵省に入省すると、河井の遺言の通り大阪へ渡り、渋沢栄一のもとで日本銀行大阪支店の初代支店長となり、大阪麦酒(現・アサヒビール)を設立し、ニューヨーク中央公園で電気鉄道の模型を見たことをきっかけに、私鉄経営を発送し、阪神電気鉄道を設立。初代社長となりました。

戦前は甲子園球場には外山脩造の銅像が飾られていたといいます。
甲子園球場が脩造の死後20年を経過して作られたことを考えると、当時の阪神電鉄の中で脩造が大切にされていたことがわかります。

その後、1935年に大阪タイガースができたとき、その名前は社員からの公募で決められたという。興味深いのは、「タイガース」という言葉が何人もの社員から提案されたことだ。大阪と同様に工業都市であるアメリカのデトロイトを拠点とする「デトロイト・タイガース」を参考にしたともいわれるが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」という名前を押した社員も多数いたといわれています。

慶應ボーイである脩造の幼名に因んだのかどうかは今となってはわかりませんが、その説を強く推す人もいます。

修造のすごく立派な銅像の写真もあります↓

http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/toyama03.htm

ただ、残念ながら脩造の像は第二次大戦時に銅が不足したときに溶かされてしまいました。

今その場所には、やはり脩造ゆかりのアサヒビールが虎の像が置かれています。

というわけで、甲子園と慶應(とついでに長岡)のささやかな縁のお話でした。