見出し画像

岡山芸術交流2019 《IF THE SNAKE/もし蛇が》

はじめに-示された蛇の頭-

岡山芸術交流2019が開催された。第2回を迎える本芸術交流は3年毎の開催を目標とする現代アートの国際展であり、世界的な現代アーティストの作品が展示される。会場となる岡山市内には岡山城や後楽園といった歴史文化施設のほかにも、屋外常設作品A&Cや建築家とアーティストによる共同設計の宿泊施設A&Aが点在する。
 2016年に開催された第一回岡山芸術交流は、リレーショナル・アートの第一人者として知られるリアム・ギリックがアーティスティック・ディレクターを務めた。彼に代表される「社会との関わり」に重点を置くアーティストたちは、芸術と非芸術の間に存在するハードルを取り払うことでアーティストと鑑賞者という覆しづらいヒエラルキーを解消しようとしてきた。
 歴史文化施設とアート作品が併置されていること、ギリックが初年度のディレクターを務めたことからは、岡山芸術交流というアートイベントは、歴史文化と芸術文化、内部(岡山市の居住者)と外部(多国籍なアーティストや鑑賞者)といった様々な対立項の「交流」を目指していることが類推される。
 ここで、本年度のアーティスティック・ディレクターを務めるピエール・ユイグが設けた「IF THE SNAKE/もし蛇が」というタイトルに注目したい。[1]  蛇は古今東西の神話や民話、伝説に生死、吉凶、善悪といったアンビバレントな性格を持ち、その時々に姿を変えて登場する。
 また通常、文章の成立には主語と述語の二つが必要とされる。しかし「もし蛇が」には主語に続くはずの述語の姿はない。尻切れとなったこの文章は、文末で閉じることなく我々にその後を委ねる。
 対概念を内包する蛇というモチーフは対立項の交流の象徴とも捉えられ、途切れた文章は未来への可能性が開かれているとも言える。

本テキストでは、現代において様々に設定される対立項がどのように交流するかを作品のレビューを通して観察するとともに、ギリックからバトンを受け取ったユイグが提示した蛇の尾の探索を試みる。


非生命の生

エティエンヌ・シャンボーは展示空間の柱に「体温」を与える。実際の病気の発熱パターンからモデル化され、生成された《熱》は展示空間の建築物に伝達し、スクリーン上に表示される。
 体温を持った空間に身を投じた鑑賞者は、巨大なクジラの胃の中に飲み込まれてしまったピノキオのようだ。ピノキオのそれとは違い、消化されることもなければ出入りも自由な奇妙な胃と我々は互いに不可侵な関係を築く。

画像2

画像3

《熱》 / エティエンヌ・シャンボー

イアン・チェンの《BOB(信念の容れ物)》はキメラ蛇のように枝分かれした身体を持った人工生命体である。鑑賞者は端末にダウンロードした専用アプリケーションからBOBに供物(刺激パターン)を「奉納」することができるが、刺激を受けたBOBの反応は会場のスクリーンを見ることでしか確認できない。
 会期が終わった今でもふと思い出したように供物を与えてみるが、BOBがいまどうしているかは私の預かり知らぬところだ。

画像4

画像5

《BOB(信念の容れ物)》/ イアン・チェン

上記2点の作品に私は生命を重ねたが、人工と自然という区分はそのまま生命と非生命を分かつのか。ここでもう一つ作品を紹介したい。

パメラ・ローゼンクランツの 《癒すもの(水域)》は旧内山下小学校の校庭に設置された土俵の上をロボットの蛇が動き回る。
 蛇の動作はランダムに設定され、蛇は鑑賞者の都合に合わせて動いてはくれない。コミュニケーション不能な蛇はまるで「本物」の蛇のように体をくねらせる。コミュニケーションの可否に照準を移せば、人工的につくられながらもアンコントロールに振る舞うロボット蛇と、本能で動く野生の蛇を分かつラインは不透明になる。

画像6

《癒すもの(水域)》 / パメラ・ローゼンクランツ

人々は古来より人間に甚大な被害を与える災害に神や物の怪といった姿を与えることで、自然とのコミュニケーションを図ってきた。コミュニケーションをとること、それはすなわち対象を理解可能なものへとつくり変え、同時に自らの支配下に置こうとする試みである。人間は自らの手が加わったものが全てコントロール可能だと信じてきた。地下をうねる水脈が時に蛇にたとえられ、治水を行う為政者の姿が蛇を殺す英雄と重ねられるのも、自然を理解可能な階層に引き下げることで支配を目論む人間の欲求とリンクする。
 コミュニケーション不能な人工物によって、生命/非生命のラインはその身をくねらせ、私たちを混乱させる。


不在への問い

大小様々な小山が盛られた旧内山下小学校の校庭にはロダンの彫刻作品「考える人」から人の部分が剥ぎ取られた台座が展示されている。
 《微積分/石》と題されたエティエンヌ・シャンボーのこの作品は、目の前に存在する台座よりも、そこから立ち去った「人」の不在へ目が向けられる。

画像7

《微積分/石》 / エティエンヌ・シャンボー

ファビアン・ジローとラファエル・シボーニは小学校の校舎全体を使用したインスタレーションと映像作品を発表する。
 教室の壁や床に穿たれた穴から出た細いチューブが空間をつなぎ、パフォーマンスに使用された小道具が作品として設置される。3000年後の崩壊した地球、人類最後の生き残りなどディストピア的テーマを有する映像は、ディープ・フェイクによって演者不在でも常に物語のアップデートがなされる。

画像8

画像9

《非ずの形式(幼年期)、無人、シーズン3》
/ ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニ

画像10

《反転資本(1971年〜4936年)、無人、シーズン2、エピソード2》
/ ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニ

タレク・アトウィが展開するのは、アトウィがこれまで世界各地で制作してきた様々な楽器による演奏である。楽器は奏者を必要とせず、たとえ鑑賞者がいなくてもそれぞれがそれぞれに音を発する。

画像11

画像12

画像13

《ワイルドなシンセ》 / タレク・アトウィ

これらの作品に共通して見られる不在というテーマからは、2017年に愛知県の豊田市美術館で開催された「切断してみる−二人の耕平」展[2]における「私のいない世界、人類のいない世界を考える」というセクションが思い出される。出展作家の小林耕平と髙橋耕平は同セクションに沿った作品[3]を制作するが、それらはどれも曖昧で作者本人からも明確な説明は得られない。人のいない世界では、見る/見られる、伝える/伝わるといった行為自体が失われ、無意識に作品と鑑賞者の間に内包される「伝達」の方向性は見失われる。
 人が考えることをやめ立ち去った後も座した場所は残り、人類が死滅しても楽器は静かに音を鳴らす。この章で扱った作品たちもまた、不在を媒介としながら作品と鑑賞者との間に生まれる関係構築を巧妙にかわす。


空き家の冒険

1999年、とある少女のキャラクターはピエール・ユイグとフィリップ・パレーノに著作権を購入されたことで、キャラクターの消費という「死」から掬い上げられ、新たな「生」を与えられた。「アン・リー」と名付けられた少女は2002年の“No Ghost Just a Shell”展において複数のアーティストによって作品化され、展覧会期終了後に自身の著作権を獲得したことで、彼女の存在を彼女だけのものにした。[4]
 今回、ユイグとティノ・セーガルは彼女の故郷である日本で「アン・リー」の新作をそれぞれ発表した。ユイグの《2分、時を離れて》は美術館のガラスケースに女性の姿をしたキャラクターが投影される。

画像1

《2分、時を離れて》 / ピエール・ユイグ

がらんどうのガラスケースに映し出されたキャラクターは自分の出自や、存在について語り出す。

「わかるでしょ、あなたの娯楽のためにわたしがここにいるんじゃない…わたしのためにあなたがいる!」

その後音声が切り替わり別の少女となった彼女は、とある絵画を見たときの衝撃を語る。
 映像が終わると、一人の少女がゆっくりと展示室内に入ってくる。少女はゆっくりと語り始め、ときどき観客に質問を投げかけていく。

「忙しすぎるのと、忙しくなさすぎるのと、どっちを選ぶ?」
「記号と憂鬱の関係は?」

観客が返答してもしなくても、ティノ・セーガルによる“アン・リー”のパフォーマンスは進んでいく。聞けばこのパフォーマンスには複数の演者が用意され、鑑賞のタイミングによって少女や若い女性などに姿を変える。[5]
 自分の存在について語った彼女も、絵画の感動を話した彼女も、少女や女性に姿を変えて私の目の前に立った彼女も、全員が「アン・リー」であり、このキャラクターに多様な生が付加されているように感じられる。しかしこれらはアーティストが「アン・リー」という記号を運用することで成立する形態に過ぎず、彼女の生はアーティストの存在を必要とする。
 20年前にキャラクタービジネスのシステムから抜け出し、自己を獲得したはずの彼女は今ではアートのサイクルに組み込まれてしまった。2016年の“Carte Blanche(白紙委任状)”[6]で解禁された「アン・リー」の新作たちは、存在するという一点においてのみ肯定されるべき彼女の生が、アーティストの存在によって担保されてしまう状況を生み出している。

ライヘンバッハの滝で死にきれなかったホームズのように、「アン・リー」は延命し続ける。


干渉する鑑賞

展示会場が徒歩圏内に集約された岡山芸術交流2019では、ある作品について思案をしているうちに次の作品が飛び込んでくる。
 ある会場ではジョン・ジェラードの巨大なモニターに映った無重力を漂うカエルの映像がパメラ・ローゼンクランツのピンク色のプールの水面に映り込み、遠くの方からティノ・セーガルのパフォーマンスに参加する男女の歌声が聴こえてくる。全ての会場では、シーン・ラスペットと郑胜平がつくり出した新種の人口香料が漂い、独立した鑑賞体験に割り込んでくる。

画像14

《皮膜のプール(オロモム)》 / パメラ・ローゼンクランツ

画像15

《アフリカツメガエル(宇宙実験室)》 / ジョン・ジェラード

作品が他の作品の影響を受けて変化をし、またそれが他の作品に変化をもたらす......。つまり「変化のサイクル」のようなものを考えています。展示はひとつの生命体であり、超個体なのです。 [7]

ユイグが示した「超個体(スーパーオーガニズム)」という方向性を体現するように、作品どうしは渾然一体となりひとつの生命体の様相を呈していた。


最後に-見つからなかった蛇の尾-

岡山芸術交流2019では様々な対立項の再設定が目論まれていた。
 コミュニケーション不能な人工物は、生命と非生命のラインを歪ませる。人間がいなくなっても存在を続ける作品は、作品と鑑賞者という対応関係を取り払う。そして作品どうしは呼応し、超個体として生まれ変わる。
 作品たちは人工と自然、生命と非生命、在と不在、作品と鑑賞者、作品と作品といった二項対立の設定それ自体を疑い、領域の融解を促す。
 その中でアーティストと作品の主従関係が顕在化したことは、展覧会のディレクションの精度を落とす結果となった。
 しかし岡山芸術交流が一度きりのイベントでないことは、不問にされがちな関係を継続的に問うていく可能性が開かれていると捉えることもできる。

掴みかけた蛇の尾は、すんでのところで手から逃れ、そのまま行方をくらました。掌に残った感触を頼りに、蛇の尾を探さなければならない。



[1] タイトルについては、ウェブ版「美術手帖」に掲載されたピエール・ユイグへのインタビュー(聞き手=星野太)に詳しい。

[2]「切断してみる−二人の耕平」は、2017年に愛知県の豊田市美術館で開催された小林耕平と髙橋耕平による二人展である。同じ名前を持つ「二人の耕平」による展覧会は「言葉を切断する」、「時間を切断する」、「私を切り刻む」、「生と死」そして「私のいない世界、人類のいない世界を考える」という5つのセクションから構成された。

[3] 小林と髙橋は同セクションに取り組むにあたり、「人類がいなくなった時まで作品が残るとして、どのような作品を残したいか?」、「再生機を作る」、「人間ではないものを鑑賞者として作品を作る」という3つの課題を設定した。最終的に展示室には二人がそれぞれの課題に対して制作した計6つの作品と、それらについて二人が解説問答をする記録映像が並んだ。これについては、はがみちこ氏による芸術評論「『二人の耕平』における愛」に詳しい。

[4]「アン・リー」はピエール・ユイグとフィリップ・パレーノによるアートプロジェクトである。1999年に日本のアニメキャラクター関連企業からとある少女のキャラクターの版権を購入したユイグとパレーノは、そのキャラクターを「アン・リー」と名付けた。
2002年にチューリッヒ・クンストハレなどで開催された“No Ghost Just a Shell”では複数のアーティストが「アン・リー」をモチーフに作品を発表し、会期終了とともに「彼女」の著作権は彼女のためだけに存在する『アン・リー協会』に譲渡された。契約書には、以降アーティストたちが「アン・リー」をデジタル・モデルとして使った作品を制作できないことが明記されている。

[5] ティノ・セーガルは記録を残さないことが大きなコンセプトとなるアーティストであり、今作も写真や映像による記録は一切許可されていないため、この情報も会場スタッフの方からの「口伝」による。

[6]「Carte Blanche(白紙委任状)」は2016年にフランスのPalais de Tokyoで開催されたティノ・セーガルの展覧会。この展覧会でセーガルはピエール・ユイグとフィリップ・パレーノとの合意の上、「アン・リー」が少女と少年の二人にわかれて登場するという新作を発表した。この事柄から「アン・リー」の使用に関する契約は、関係するアーティストたちの意思と合意のもと破棄されている、あるいは少なくとも妥協案の可能性を許している、と類推される。

[7] ウェブ版美術手帖に掲載された、ピエール・ユイグへの岡山芸術交流2019開幕前インタビューより引用。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?