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「暇と退屈の倫理学」を読み終わった今思うこと


この本を読みながら、退屈とはなんなのか、ずっと自分なりに考えてきた。

そして何より、どうすれば退屈せずに毎日を生きられるのか、その答えを探してきた。

そして今本書の結論まで読んで、なるほどまずハイデッガーのいう退屈の第二形式にいることが人間としての幸せの形なのかもしれないと思った。

そして、その第二形式は楽しむためのコツがいる。(ハイデッガーがパーティーを楽しみきれないように、第二形式は常に退屈と楽しさが混ざり合った感情となりがちである)
そのコツが、ラッセルが言う「楽しむ能力を訓練する教育」なのだ。

この結論が私には非常にしっくりきた。腑に落ちた。

習慣と退屈と変化と平穏が混ざり合った中でしか生きられない人類に必要なのは「楽しむ力」なのだ。

私的な話になるが、先日大雨の中、息子を幼稚園に迎えに行ったら、「すごい雨だー!」と息子はキラキラと目を輝かせ、満面の笑みで雨を見ていた。

そんな息子を見て私自身、なんだかとても楽しくなって、大雨でびしょ濡れになりながらも非常に楽しい気持ちで帰宅した。

あの帰り道は私にとって「とても楽しかった大雨の日」として記憶に残り続けるだろう。

退屈がない人生に憧れていた。
しかし自分は何か大きな見間違いをしていたように今は思う。

退屈から解放されるために必要なのは、「決断」でも「行動」でも「変化」でもきっとないのだ。

ただ必要なのは「楽しむこと」。

そしてそれが本書でいう「物を受け取ること」なのだろう。

消費社会が当たり前のように居座る中、退屈という存在がふわふわ浮かぶ日々の中、「楽しむ力」が今一番必要なのだと本書を読んで気づくことができた。

どうやら私以上に楽しむ力が高い息子を師とし、物を受け取り、楽しんで生きていこう。
(子どもの方が本書でいう「物を受け取る」のが上手いのかもしれない。物をそのものとして受け取るのが非常に上手いように思う。この点はまた今後より考えてみたい。)

そんな風に思えるようになったきっかけをくれたこの本と著者に深く深く感謝する。

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