クロストーク的読書記録―リチャード・ローティ×東畑開人『コミュニケーションとしての哲学・ケアとしてのコミュニケーション』―
この記事は、私が読んだ書籍
100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』/朱喜哲
冨田恭彦『ローティ 連帯と自己超克の思想』
東畑開人『ふつうの相談』
東畑開人『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』
などをもとに、クロストークさせつつ読書記録を書いたものになっています。記事の最後にそれぞれの本のAmazonリンクを貼っておきます。
1.コミュニケーションとしての哲学(リチャード・ローティについて)
リチャード・ローティ(1931-2007)は、アメリカの哲学者です。彼は、それまでの伝統的な西洋哲学者が永遠不変の真理を求めてきたこと・言わば「自然の鏡」であろうとしてきたことを指摘し、それを否定します。そして、これからの哲学は「文化政治」として残るであろうとしました。
そして、その文化政治を実践するにあたって大事なのが、想像力であるとしています。想像力こそが、理性を拡張し連帯につながるものだと。
2.ケアとしてのコミュニケーション(東畑開人さんについて)
東畑開人さんは、『ふつうの相談』や『雨の日の心理学』にてアーサー・クラインマンの提唱したヘルス・ケア・システム理論を紹介しています。
ヘルス・ケア・システムは、人々が心身の不調に対応し、健康を追求するための仕組みのことです。そしてクラインマンは、それは3つのセクター、すなわち専門職セクター・民族セクター・民間セクターに大別することができ、それぞれ異なるケアを提供しているとしています。
専門職セクターでは医者や看護師など、パブリックな職業によってケアが行われる。ケアをする人が、社会的な影響力を持っていることが強み。
民俗セクターには占い師やスピリチュアルヒーラーなど、オルタナティブで「怪しげな」専門家によるケアが行われる。彼らの担う物語が、ケアに役立つこともある。
民間セクターでは、家族、友人、同僚、あるいは自分自身など身近な人によってケアが行われる。一番行われる頻度の高いケア。
そして東畑さんは3つのセクターの中でもっとも大きな民間セクターでのケアにスポットを当てて、そのあり方について『ふつうの相談』を始め『雨の日の心理学』『聞く技術 聞いてもらう技術』など様々な著書で語られています。
そこでだんだん気付いてきたのは、日常生活における何でもないコミュニケーションが、実はケアの一環として捉えられるのだ、ということです。
同僚に挨拶をしたり、友達のおしゃれな所を褒めたり、家族の誕生日にプレゼントをあげたり。
今挙げた例は「晴れの日」のケアと言えますが、「雨の日」であれば例えば、後輩の進路相談にのってあげるとか、同僚の上司に対する愚痴を聞くとか、そういうケアのあり方もあるでしょう。
そういう意味で、徐々に様々なコミュニケーションがケアとして(あるいはケアの失敗として)感じられるようになりました。
3.分断を超えるコミュニケーションのあり方
私は、リチャード・ローティの考える文化政治や連帯のあり方が、まさに東畑開人さんの実践している民間セクターにおけるケアとしてのコミュニケーションの先にあるものなのではないかと考えるようになりました。
分断が起こっている時、そこには必ず傷ついている心があるはずで、それはまさしく「雨の日」におけるコミュニケーションが求められているはずです。そこでは、リチャード・ローティの言うように文学から得られる想像力を介した知識が求められているかもしれない。あるいはそれだけではなく、各々の個人に対する知識を得ることも必要であるし、社会に対する世間知も必要とされるかもしれない。そうした知識は、永遠不変のものだと考えるのではなく、偶然性を持つ歴史的な言語ゲームとして捉えられるものになるはずです。
あるいは、会話を継続すること。「真理」を突き付けて終わりにするのではなく、また話そうと約束すること。時間をかけて処方して、つながりを切らさずに連帯すること。
そうしたケアしあう関係としての連帯のあり方が、読書のクロストークを通して見えた気がしています。
この記事がまた一つの文化政治として、日常でのケアを大事にする社会につながりますように。
4.参考文献
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