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令和6年能登半島地震・その惨状、我がまち新潟も

前回の記事冒頭でも少し触れましたが、2024年1月1日(月)・元旦、石川県能登半島を震源とする地震が発生。

衝撃的な年明けとなってしまいました。

多くの倒壊家屋、そしてそれが激しく炎を上げ燃え盛る様。

まるで根本からポキッと折れたかのような形で横倒しとなった、輪島市の7階建てビル。

瓦礫の山と化し、かつての姿も思い浮かばぬ程の観光名所。

映像を通して伝わって来る、思わず目を覆いたくなるような惨状に震え上がる思いでした。




「令和6年能登半島地震」発生


マグニチュード7.6、震度7という想像を絶する規模のこの大地震の恐ろしさをまざまざと見せ付けられました。

そしてこの大地震により、我がまち新潟も大変な揺れに見舞われ、そしてそれが地割れ、道路の陥没、液状化、家屋の半倒壊などの大きな被害へと繋がりました。

私の住む地域は震度5弱で、家具が倒れるような事は無かったものの箪笥や食器棚の引き出しが開く、高所から多くの物が落下するという、一歩間違えば自身の大怪我にも繋がりかねないような状況でした。

当初、周囲では目立った被害は報告されていませんでしたが、最初の大きな揺れが収まった後も断続的な余震で、一時はどうなるやらと不安でたまりませんでした。


また、大きな地震ともなると先ずライフラインの途絶という問題に直結する事にもなります。

少なくとも私の地域は停電とはなりませんでしたが、先ず、ガスの供給が一時停止。
これは後に安全装置の作動によるものと確認。

では水道はといえば、揺れが収まった直後、手を洗おうと水栓(レバー)を上げると異様に水圧が低く、水がチョロチョロとしか出ない。
これは、水道管からの漏水に伴う排水量の急増で、断水、減水、濁水が発生している為との事でした(一部地域では今現在も断水が継続中とあり、市内数ヶ所で給水所が設けられています)。




当日を振り返る


そんな元旦の夕刻となってしまいましたが、地震が起こる数時間前、私自身の当日を振り返ってみると……。


午前10時過ぎ。
仕事で東北方面に向かう主人を送り出した後、私は自宅にひとり。

大量に作り置きしていた正月料理を小分けパッキングしたり、前日の食事でそのままになっていたテーブルを片付ける傍ら、1階のリビングで2箇所から届く事になっていた飲料水の配送を待っていました。

いずれも午前中の時間指定で定期配送されるものだったのですが、1箇所目は早くに到着したものの、年末年始の影響でか、正午を過ぎても2箇所目からの配送が来なかった為、2階の自室で読書をしながら待つ事にしたのでした。


午後2時過ぎ。
指定の時間から大幅に遅れ、2箇所目からの飲料水が到着。
今回はたまたま自宅に居たので、配送の遅延も特に問題にはなりませんでした。


午後3時半頃。
自室を出て再び1階のリビングへ。
軽くコーヒーを飲んだ後、流しに浸け置きしてあった、昼食で使った食器と鍋を洗って片付けて。

1日の家事も全て終えたので、どうせなら早めにお風呂に入ってゆっくり夕食を取ろうかと、バスルームに向かおうとしたその時でした。

突然に鳴り響く緊急地震速報。


何事かと、慌ててテレビの前に駆け寄ると「能登半島で地震」の文字。
そこには新潟も該当区域である事が示されていました。


少し経てば揺れも収まるだろうと、とりあえずその場(リビング)に留まり様子をうかがっていたところ……。

段々と揺れの強さは増し、室内の至る場所(高所)から次々と物が落下。

長らく続く大きな揺れに、食器棚の引き出しは大きく開き、もうこれは倒れ込んで来るのも時間の問題かと覚悟し、しゃがみ込んでただただその時が過ぎるのを待つだけでした。


そして間もなくテレビの画面には津波警報
を告げる文字、避難を強く呼び掛けるアナウンサーの声。

揺れが収まった後も、それは暫く続きました。


あぁ、またしても大変な事が起こってしまった……と、13年前の東日本大震災の記憶が蘇るようでもありました。


しかし私自身、この時はまだ、震源地となった能登半島も新潟県内も、どのような様子でどのような被害が出たのかまでは把握出来ずにいたのでした。


時を追うごとに


やがて時間を追うごとに次々とその状況を映像によって知る事となり、改めてその凄まじさが浮き彫りに。


私が人生の約半分の時を過ごし、一時帰郷の際もなお生活拠点のひとつとしていた新潟市西区、それも自身のかつての居住地周辺に大きな被害が広がっているという事実を突き付けられ、言葉も出ませんでした。


そして地震から2日後の1月3日(水)、正月三が日最終日。

午後から新潟市西区の義実家(主人の実家)へ。

新潟市西区といえば、県内でもかなり大規模な被害に見舞われた地域という事もあり、義家族の安否が頭をよぎったのですが。

これに関しては地震当日、すぐに全員無事で居る事を確認。

2日置き、改めて新年の挨拶を兼ね訪問となったのでした。


震度5強という、激しい揺れを体感した義家族が暮らす自宅は築3年半。

義弟曰く「酷い揺れで家がひっくり返るかと思った」と述べてはいたものの、元々地盤が安定している事もあってか、何と、何ひとつ落下物も無ければ物自体も動かなかったとの事でした。


しかし……。

そこから僅か百数十メートル圏内の義妹の自宅は、倒壊とは全く無縁ながらも家中の物という物が散乱し、片付けに大変な労力を要したとの事でした。


また義実家のすぐ近所、川沿いに立ち並ぶ家々の多くは傾き、建物によっては半壊しているという状況。

比較的まだ新しい賃貸住宅などの敷地にも、激しく地割れが生じており……。


建物の新旧に関わらずこのような様で、ニュースの映像からは充分に得られなかった情報が、次から次へと伝わっても来るようでした。


不幸中の幸いと言えば良いのか、現在も他に人的被害は報告されていませんが、それにしても、いざその惨状を実際に目にしてしまうと、如何にして自然災害が恐ろしいものかと身が縮まる思いです。


私自身が長らく暮らし、終の住み処はこの地以外には考えられないと強く思い、願い、そして今なお愛する新潟市西区。

ここに住まわれる皆さまに。

そして、先に述べた能登地域の皆さまに。

同様に、被害が発生したと報告されている6県1府(石川、富山、福井、岐阜、大阪、兵庫、新潟)の皆さまに。

どうか平穏な毎日が戻るようにと願わずには居られません。



皆さまへ


この記事をお読み下さっている皆さま。

「災害は忘れた頃にやってくる」とはよく言いますが、まさしく不意を突く形で新年の幕開け、それも元旦という日に発生した今回の大地震。

天候にもより、土砂崩れや半壊の状態にある家屋が全壊へと向かうなど、これから二次的に起こりうる被害が懸念されます。

また私自身、他にも色々と思う事はありますが、くれぐれも対岸の火事と捉える事なく「万が一に備える」「災害に学ぶ」は勿論、「(政治的な意味も含め)その先を見る」事に目を向けて頂けたら幸いに思います。


また、これは触れるべき話かと迷いましたが、今回の地震は人工地震だと声高に述べる様子も散見されます。

また地震の話から逸れますが、翌日に発生した羽田空港での航空機衝突事故に関しても、何かと不可解な部分があると指摘されています。

また更に、それらを陰謀論だ何だと騒ぎ、論争する様も見て取れます。


私自身、今回のそれが人工地震か否かまでは知る由もありませんが、人工地震そのものは存在するという考えではありますし、航空機事故に関しても、何処かきな臭い匂いは感じます。


しかし、自然発生の地震であれ人工地震であれ、偶然の事故であれ何らかの力によって巻き起こった事故であれ、そこには多くの悲しみ苦しみ、恐怖、絶望など、あらゆる負の感情が伴っていたであろう現実があります。

新年を迎え、本来ならばお祝いムードに包まれ、今頃大切な人達と明るく楽しい時間を過ごしていたかも知れぬ方々の未来(命)が、希望が、一瞬の出来事によって奪われたのです。


被災者でもない部外者が、そうした「人の心の痛み」を余所に不毛な争いを繰り広げるくらいならば、初めからそのような事を口にして欲しくはないとの思いがあります。


勿論、私自身もまた被災者ではありませんから、余計な一言を発するべきではないのでしょう。

しかしながら、何時なんどき、何が起こっても不思議は無いこの時代。

これからをどのように生きるか、誰の身にも大きな課題として与えられている気がするのです。


本題から少し逸れてしまった部分もありますが、今回もここまでお読み頂き誠にありがとうございます。


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