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天国に旅立った祖父から教わった、スーパーポジティブマインド

久しぶりのnote更新になります。

ここのところ、中国に知り合いが遊びにきたり、祖父の訃報で緊急帰国したりと、バタバタ過ごしていました。

祖父との別れはもちろん悲しくもあるけれど、97歳を目前にしての大往生。ここまでよく頑張ったね、と祝福する気持ちが大きいです。

今日は、超前向きだった祖父とのエピソードを書きたいと思います。



最期まで弱音を吐かなかった祖父

心臓と腎臓が悪く、3年前から心臓にペースメーカーを入れていた祖父。

「余命はあと2年」と医者から告げられたとき。
やった!あと2年も生きられる!』と喜んだといいます。

それからも自宅で、家族や介護ヘルパーさんの助けもありながらなんとか暮らしていたのだが。

もっと生きるんだ』という強い意志がある一方で、足腰はどんどん弱くなり、今年に入ってからは家の中でも歩行補助用カートが必要に。週3で通っていた健康体操やリハビリにも行けなくなりました。でも、家の中では少しでも筋力維持のため、筋トレやスクワットを欠かさなかったそう。

そして今年の春先には、悪性リンパ腫も確認。
上顎・鼻、そして胃。貧血も進み、輸血が始まりました。

このとき、余命は月単位、早ければ2-3ヶ月と宣告。
祖父の身体状況を鑑みて、抗がん剤治療はせず、自宅で訪問診療しながらゆったり過ごす方向になりました。

祖父はこの余命宣告に始めこそ悲しんだそうですが、
この歳まで生かしてもらえて感謝している
たくさん迷惑をかけてきたからね。やっと迎えがきたか

そう言って、ガハハ、と陽気に笑ったそう。

ちょっと驚いたのが、『がんが死に連れていってくれるのか。がんよ、ありがとう。今の私はがんがいるから生きてられる。』などとも言っていたそうです。
(※祖父は決して早く死にたいわけではなかった。ただ身の回りのすべての物事に感謝していたそうです。私にはまだこのマインドが理解できないが…。ありがとうと口にしてみると、心持ちも変わるのだろうか。)


先月末、自宅介護が難しくなり、緩和ケア病院に入院。
貧血がひどくなり、自宅で何度も転倒していました。

入院してからは少し持ち直した様子で、新聞を読んだり、ふらつく文字で書き物をしたりしながら過ごしていた祖父。

入院から5日後にお見舞いに行った際には、常にナースコールを握りしめ、『何かあればすぐに呼ぶんだ!』と明るく言っていた祖父でしたが、3日後には日中眠っている時間が伸びていき、更に2日後には、自分でナースコールを探せない状態に。

「何かあればナースコールするのよ」と母が手に持たせるも、そこまでの気力はなかったといいます。

ただ、その日の食事は珍しく完食。積極的な延命治療はしていないので、祖父自身の精神力にかかっていたものの、もう少し持ってくれるかも、と誰もが期待を寄せた日。しかし、私とのテレビ電話は、この日が最後となってしまいました。


亡くなる2日前まで、大好きな歌を口ずさんだり、共有スペースで日光浴をしたりと明るく過ごしていた祖父。前日は、食事はおろか、一言も発することはなかったそう。

そして明け方、1人静かに息を引き取りました。入院からわずか2週間での出来事でした。駆けつけたときには、まだ温かかったそう。

最期まで、人前では落ち込む様子を見せず、明るく振る舞っていた祖父。常に周囲への気遣いを忘れない、タフな精神を持った祖父らしいなと思います。

がんが自然の眠りで、死につれて行ってくれると、主治医の先生は言っていたそうです。
ピンピンコロリで逝くことを望んでいた祖父。
最期は苦しんでいない、と思いたいです。


長年連れ添った人が葬式に立ち会えない現実

祖母は、要介護レベルが進み、最後の数年は別居状態でした。

祖父の死を理解することはないかもしれません。悲しい現実ではありますが、長寿ゆえに起こりうることなのだと思います。

祖父は、定期的に祖母に会いに行っていました。

これまでは面会しても、誰なのか分かっていないようだったのですが、今となっては最後の面会となってしまった5月末のこと。

祖父を見て、祖母は「パパ」と呼んだのです。

思いがけない出来事に、涙して喜ぶ祖父。
そして共に車椅子に乗りながら、手を握りしめ合う夫婦。
きっと何か通じるものがあったのだと思います。


大きな夢を見せてくれた祖父

祖父のことはこれまでもnoteで何度か言及しているのですが↓


小さい頃から、いつも私の視座をひと段階上げてくれる存在でした。今の私がいるのは、紛れもなく祖父のおかげです。

命日の21日後は、祖父の97歳の誕生日でした。
その日は帰国をしてひ孫(我が子)と対面し、一緒に誕生日を祝おうと思っていました。
なんとなく、これまでの祖父の言動から、97歳を迎えてくれるような予感がしていたのです。
それに祖父も、97歳まで生きるのが夢だった。祖父の母(私の曽祖母)がその歳まで生きたので、自分も97歳までは生きると、毎日カウントダウンして過ごしていたそうです。
ただの期待で終わってしまった今、どうしてもっと早く帰国しなかったのだろう、と悔いています。

我が子を見せながら、何度もテレビ電話はしました。
それだけで十分だよと、涙を流してくれた祖父。
十分なおじいちゃん孝行ができたのかは分かりませんが、祖父が遺してくれた前向きな言葉の数々は、確実に私の中で生きています。

私なんぞ祖父の足元にも到底及びませんが、「きっと祖父ならこう言っただろうな」なんてポジティブな言葉を自分に与えながら、これからの日々を過ごしていこうと思います。

おじいちゃん、これまで本当によく頑張ったね。
今はただ安らかに休めていますように。



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