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梅田、カルチェ・ラタンの恋

梅田駅地下街は、いつも迷路だ。何度出張に来ても毎回必ず迷う。そう、ここは人呼んで「梅田ダンジョン」
わたしは、今回もこのダンジョンを攻略できそうにない。
仕方ない、地上に出よう。そろそろホテルの近くにいるだろう。

狭い階段を、スーツケースを持ち上げて体を斜めにしながら上り、やっとの思いで地上に出た。大きな通りだ。通りの名前を探す、御堂筋か。

あたりを見回すと、ホテルの看板が少し先に見えた。なんだ、もう少し地下を歩いていたらホテルの下に出られたのかも。ダンジョン攻略まであと一歩だったか。さぁ、早くホテルについてこの窮屈なスーツを脱ごう、パンプスもだ。そしてフロントでおすすめの店を教えてもらって夕飯を食べにいこう。
 
女一人、一人出張で、一人飯。おっさんっぽいと言われようと、出張の楽しみはこれくらいしかない。ただ、自分でも、ややおっさん度が増している気はする。一人でお好み焼き屋にも、串カツ屋にも入れるんだもの。
 
ビジネスホテルのフロントには、近隣のおすすめ飲食店を地図に印刷したものが置いてある。正直、置いていないホテルは少しがっかりしてしまう。今回もそれを入手すると、部屋に急いだ。食事をするには少し早いので、どこか近くをぶらぶらしてからお店に行こう。地図には観光名所も併記されている。

「露 天神社(お初天神)」と言う文字が目に留まった。こんな繁華街に神社か、面白そう。
スーツケースからジーンズとシャツを引っ張り出し、靴も楽なものに変える。ハンドバックにお財布とスマホと折りたたんだ地図を移し、部屋のカードキーを壁から抜いた。
電気が落ちると、窓の外の賑やかな雰囲気が部屋の中に伝わってきた。
 
露 天神社は唐突に現れた。ビルとビルの間に埋もれるように見えたが、覗き込むと、提灯の灯りが幻想的に光って、わたしを呼んでいるみたいだ。
鳥居をくぐって少し歩くと、大都会の真ん中とは思えないような、凛とした空気が張り詰めていた。お参りを済ませ、境内を見回す。

銅像があったので近づいてみると、「曽根崎心中ゆかりの地」と書いてある。そうか、二人が心中したのはここだったか。昔、文学を勉強していた頃、近松についても学んだ記憶がある。詳しくは覚えていない。
ただただ、報われない恋、不条理な運命、死んでしまった二人。
でも、若い自分はその完璧な恋に羨望の思いを抱いた。わたしは昔から恋愛をしていても、甘い言葉を聞いても、どこか冷めた目で自分を俯瞰していたから。

銅像になった二人を見つめながら、そんなことを考えていると、お腹が空いて来た。食事に行くかぁと体の向きを変えた時、肩が人にぶつかってしまった。

わたしの「ごめんなさい」とその人の「パルドン」は同時だった。観光客のような外国人男性だ。
わたしはもう一度、「すいませんでした」と言い、頭を下げると、その場を離れようとした。

「あの、すいません、チカマツは好きでか?」
「え?」
「あ、ごめんなさい、突然。ずいぶん長い時間見ていたので」
「あぁ」と、あまりに流暢な日本語に戸惑いながら返事をした。
「私はベルナールといいます。チカマツが好きなんです」
手には分厚い本を持っていて、メガネをかけた奥の茶色い目は優しい。濃い茶色の髪はカールしているのか寝癖なのか、古き良き時代のカルチェ・ラタンの苦学生のようだ。

「そんなに好きではないんです、ただ、少し勉強していたことがあって…」
「そうですか」ベルナールは少し残念そうに言ってから、「でも、よければ少しお話ししませんか?カフェでもいかがですか?」と聞いてきた。

(こ、これは新手のナンパか?)純朴そうな外国人を装ってるのか?と考えたのが顔に出てしまったらしい。ベルナールは慌てた様子で
「あ、変なことは考えていません。観光で来てます。食事もまだだし、人と、できたらチカマツの話ができたら嬉しい」照れくさそうに言った。悪い人ではなさそうだ。
「あぁ…そうですか。わたしも食事がまだなんです。食事、行きますか?」
一人で食べるよりも面白いかもしれないと思い、そう返事をした。

ビジネスホテルで調べておいた串カツ屋に入った。店内は地元のビジネスマンたちで賑わっている。ビールをジョッキで頼むと乾杯をした。
「アロー(えっと)、あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
「あ、まだでしたね。ルリと言います」わたしはビールを勢い良く飲んでいたのを慌てて中断すると言った。
「おー、浄瑠璃のルリさん」と言って、ベルナールはビールのジョッキを持ち上げた。
私もジョッキを持ち上げた。

ベルナールはフランス人、日本が大好きで10年前に観光で見た人形浄瑠璃の虜になったらしい。そのあと、帰国して日本語を猛勉強したそうだ。
「今回は、舞台になった大阪と、チカマツが生まれた鯖江に行きます」串カツを美味しそうに口に運びながら彼は言った。
「鯖江?えっと…どこだっけ」
「福井県です、メガネも有名な町です。お土産にメガネも買うつもりです」
「ごめんなさい、日本人なのにね、何も知らなくて」
「いえいえ、私もフランスの全部の町を知っている訳じゃないです。でも、興味を引く町、気づくとテレビで見る町、ありますね?そういう場所は、自分とリンクしているんですよ。今日、ルリさんに会ったのも、そういうアカコードです。日本語だと…」
「縁ですか?」
「そう、縁です」ベルナールはそう言うとニッコリと笑った。

「わたしは露天神社が冥土の入り口だなんて感じなかったわ」とわたしが言うと
「でも、あそこは森ですよ、昔は。もっと暗かったんじゃないですかね。近松の描く冥土の入り口は」とベルナールは議論好きのフランス人らしく嬉々として語った。
わたしも久しぶりに文学の話ができて嬉しかった。私たちはよく食べ、よく飲み、よく喋った。

串カツ屋だけでは話足りず、近くのバーに移動した。薄暗い店内でベルナールの顔をよく見ると、とても綺麗な顔立ちをしていることに気がついた。なぜだろう、明るい店では気づかなかった。
「闇は、美しさを際立たせます」真面目な顔をしたベルナールが言った。


「さっき、日が暮れて提灯の灯りだけになった暗い境内でルリさんを見た時、そう思いました」
「日本人はそういうの、苦手」わたしは動揺を隠すように、ワインを口に運んだ。
「そうですよね、情を仕草で伝える。それが浄瑠璃や歌舞伎の日本の美しさです。でも、わたしは、本当にそう思ったんですよ」彼はメガネを外すと親指と人差し指で眉間を押さえた。鼻にはメガネの跡がくっきりとついていた。

「メガネ、鯖江で合うやつを作ってきなね。せっかくの綺麗な顔が台無し」わたしはベルナールの方を見ないでそう言った。
彼はメガネをかけ直してから、突然わたしの手を握り「一緒に行きませんか?」と言った。
「鯖江?」
「そう、鯖江。近松が生まれた場所です。そこに行けば、あの美しく儚い世界の原点が見られる」
「行ってみたいな」わたしは呟いていた。でも、仕事があった。
「でも行けない、ごめん」
ベルナールはわたしの手からそっと手を離した。

時計は深夜1時になっていた。一体何時間しゃべっていたんだろう。店員が閉店を告げにやってきた。

私たちは御堂筋に出た。ホテルの前に止まると、ベルナールが「じゃあ」と言って手を挙げた。わたしも「じゃあ」と手を挙げた。深夜のホテルはすでに正面玄関が閉まっていた。カードキーを探しながら、ベルナールの後ろ姿を目で追った。
くしゃくしゃの髪、よれっとしたジャケット、分厚い本、バックパック、カルチェ・ラタンの苦学生、胸が、キュッとする。

「ベルナール!」わたしは声をあげた。彼は振り返ると一瞬迷ってから、こちらに小走りで近づいてきた。「開け方がわからない」とカードキーをベルナールに差し出した。

どうしてわたしは素直に言葉にしないんだろう。
ホテルの部屋には御堂筋の明るい光が差し込んでいた。
「僕は床で寝るよ」バックパックから小さく畳んだ寝袋が出てきた。
「準備がいいんだね」とわたしは笑った。
「明日仕事だからもう寝るね」パリパリのシーツを捲り上げて潜り込んだ。ベルナールは床に座ったまま荷物の整理をしているようだった。

ふと、足をベットから出してみた。曽根崎心中の有名なワンシーンだ。天満屋の縁の下に隠れた男に、女は足で心中を決意したことを伝える。

ベルナールはわたしの足首を掴むと、自分の喉元に押し当てた。
「ジョークよ、ベルナール」とわたしが言うと、彼はくすくすと笑い、わかってるよと言った。

彼と一緒に鯖江に行こう。そして彼に似合うメガネを一緒に探してあげよう。

(完)

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