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【短編小説】柘榴と海のアトリエ

「柘榴と小さな花火大会」の続きです。

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その海の見える町の喫茶店では、ショパンのノクターン第1番変ロ長調が静かにかかっていた。遠くに波の音を感じながら聴くショパンは、いつも以上に物悲しく聞こえる。
わたしは読んでいた本から目を上げて窓の外に目を向ける。木々の合間に青い海が垣間見える。
涼やかな音色のドアチャイムが鳴り喫茶店のドアが開いた。白いTシャツに紺色の半ズボン、サンダル姿の彼が入ってきて「待たせてごめん」と言いながら右手を顔の前に持ってきて謝るジェスチャーをする。そして車のキーをテーブルに置くと、注文を取りにきた店主に「アイスコーヒーを一つください」と丁寧な口調で言った。
「よそのお店だと注文が丁寧なんですね。柘榴以外の喫茶店にいるの、なんか新鮮です」わたしがそう言うと、彼は海の町特有の白を基調にした店内を見渡して、そうだね、と言って少し目を丸くした。

あの小さな花火大会が終わった後「今度絵を買いに行くのに付き合ってくれないか」と彼が言った。都内のどこかだろうと思い二つ返事でOKをしたが、まさかこんな海辺の町まで来るとは思わなかった。
朝、お正月の時と同じボルボエステートでわたしをアパートまで迎えに来ると、二時間弱のドライブであっという間にこの町に着いた。朝が苦手なのか運転しながらずっと眠そうで、あまり会話もないままのドライブだった。そしてこの喫茶店で下ろされると「ちょっと待ってて」と言ってまた車でどこかに行ってしまったのだ。

彼はアイスコーヒーを飲みながらしばらく窓の外を無言で見ていた。横顔が相変わらず美しい。「喫茶柘榴」とは違う明るい店内で彼と向かい合わせに座っていることが急に照れ臭くなって、わたしは紙ナプキンで自分のコップの水滴を拭いた。

「よし、そろそろ行きますか」そう言って伝票と車のキーを取ると、彼がゆっくりと立ち上がった。車の後ろの座席に、来る時にはなかったお酒や食料の袋が置いてあるのが見えた。

喫茶店のある小高い場所から少し下った閑静な別荘地の通りにある、シンプルながら瀟洒な造りの一軒家の前でゆっくり車を停めると、慣れた様子で駐車スペースに車をバックで駐車した。奥にもう二台くらい車が停まっているのが見える。彼は後部座席に積まれた荷物を両手に軽々と持つと、わたしに「ドアだけ閉めてちょーだい」と言って階段を登った。
「チャイムも鳴らして」とさらに言う。「はいはい」と素直にチャイムを鳴らすと、すぐに中から絵の具のいっぱいついたエプロン姿の華奢な女性が出てきた。(まさかの、また新しい女性だ……)顔にそう出てしまったのか、彼はわたしの顔を見ると「彼女は俺の後輩の“いい人”ですよ」と言ってニコッと笑った。
女性は「いい人って!なに言ってるんですか!」と照れたように言いながら、まぁ、入って頂戴と手際良くスリッパを並べた。

玄関横には、瞳の大きな美しい天使の水彩画がかけられていた。吸い込まれそうな瞳から慌てて目を逸らす。二階に上がるとリビングとキッチンがあり、もう一人、とても洗練された雰囲気の女性が手際良く料理をしている最中だった。(また!)という顔を再びしてしまったわたしの顔を覗き込んだ彼が笑いを堪えている。
「きみは正直でいいね」
そう言って、料理している女性に挨拶すると買ってきた食材を渡し、手慣れた様子でお酒を冷蔵庫に入れ始めた。
料理をしていた女性が太陽のような笑顔で「座ってゆっくりしててね」と言った。わたしはリビングの壁に飾られた絵を一つ一つ眺めることにした。さっき出迎えてくれた女性が描いてるのだろうか。鮮やかな色彩の絵は地上のものとは思えなかった。かと思えば、まるで苦しみから生まれたような正反対の絵も飾られていた。
その中にある小さな静物画に物語を感じたわたしは思わず目を奪われ、じっと絵の前で立ち止まった。
「お目が高い」
コーヒーカップを二つ持った彼が真横に立っていた。
「この絵を引き取りに来たんだ」
そう言ってわたしにコーヒーカップを手渡す。彼を見上げると、いままで見たことのないようなとても優しい顔をしていた。

リビングの先にあるウッドデッキのリクライニングチェアに一人の男性がいることに気づいたのはその後だった。その人は美しい海の景色には目もくれず、背を丸めて俯いたまま、なにか手仕事をしているようだった。近くに釣竿が置いてあるから釣りの仕掛けを作っているのかもしれない。
「あの、あの人は?」
わたしが聞くと、彼が大きな声で「あー、あれは彼女の”いい人”ね」と言って料理している女性を冗談っぽく指差した。
「ちょっとー、聞こえてるんですけどー」と包丁を動かす手を止めずに女性が言う。

絵描きの女性がわたしたちのそばに戻ってくると「絵はもう包んじゃっていいかしら?」と彼に聞いた。彼は頷くと「きっと喜ぶと思う」と言った。
料理が出来てリビングのテーブルに次々と運ばれてくる。新鮮そうな魚のカルパッチョとゴーヤチャンプル、もずくの天ぷらにタコライス。全部美味しそうだ。わたしも運ぶのを手伝った。料理をしていた女性が「お酒に合いそうなのもあるからね」と楽しそうに言ってデッキの方を指差した。デッキにいた男性がスモーク器からなにか取り出しているところだった。彼もいつの間にかデッキに出てスモーク器を覗き込んで男性と笑いあっている。料理と飲み物がテーブルに揃うと、絵描きの女性が「ようこそ、海のアトリエへ」と言ってワイングラスを掲げた。

〈海のアトリエ〉

なんてここにピッタリの名前なんだろう。
「うー、ノンアルー」と彼が悔しそうに言った。
デッキにいた男性はずっとビールを飲みながら作業していたようで「すみませんねぇ」と目尻を下げて笑いながら彼に缶ビールを見せた。
「全然悪いと思ってないじゃないですか」と、彼は頬を膨らませながらノンアルコール飲料を飲んでいる。料理はどれも新鮮で美味しかった。魚はやはりデッキにいた男性が朝釣ってきたものだそうだ。海によく出ているのか程よく日焼けした肌が綺麗な人だなと思った。
「あの、今日ってパーティかなんかですか?」
わたしがそう聞くと、絵描きの女性が
「絵の結婚式みたいなものかな。絵はわたしの子どもだから。その子がお嫁入りするからこうやって盛大にお祝いして送り出すの」と言って微笑んだ。彼女は笑顔だったがその顔は少し寂しそうでもあった。
「なにかを作る人はそれが自分の手を離れた時のことを常に意識しているんだ。作り始めた出会いの瞬間から別れが始まってるんだよね」
キッチンから料理を運ぶのを手伝いながら男性がそう言って、やはり少しだけ寂しそうに笑った。この人も芸術家なのだろうか。
「彼も絵を描くんだ」
わたしの心が読めるのか彼がそう呟いた。

ほとんどの料理を食べ終え、わたしがほろ酔いになり、窓の外に夜の帳が下りてきた頃。玄関のチャイムが鳴り来客を告げた。絵描きの女性が足早に階下に行く。そして彼女と一緒に階段を登ってきたのは、玄関の入り口でみた天使だった。いや、あの天使と同じ瞳の男性だった。彼とは知り合いらしく、その天使の瞳を持った男性の元に近づくと嬉しそうに話しかけていた。そうか、後輩だと言っていたもんね。よく考えたら彼に親しげな男性の友人がいるのを初めて見た気がする。

「じゃあ、俺たちはそろそろ帰るね」
天使と入れ違いにわたしたちは〈海のアトリエ〉を出ることになった。彼は包まれた絵を受け取ると後部座席に落ちないように優しく丁寧に置いた。玄関まで出てきてくれた四人に見送られてアトリエを出る。道はすっかり暗くなっていた。
「眠かったら寝ていいからね」
彼のその言葉に「寝ません!」と張り切っていたわたしも、日付が変わる頃には眠気に勝てず最後のサービスエリアで休憩した後はぐっすりと眠り、次に気づいたのは自分のアパートの前だった。ハザードランプを付けて車が停まる。
「ずっげー寝たな」と彼が言って笑った。
「すみませんでした……今日は楽しかったです……」
恥ずかしさで一刻も早く車を降りようとすると、ちょっと待ってと腕を掴まれた。そして、後部座席に置いた絵を腕をぐっと伸ばして取ると「はい、これプレゼント」
と言って、渡してきた。
「え?」
「気に入ったでしょ?」
「でも……」
「元々君にあげるつもりでお願いしてたやつだから、大切にしてくれたら嬉しい」
彼はそう言って微笑んだ。
わたしは「ありがとうございます」の一言しか言えず、そのまま絵を受け取るとそそくさと車を降りてしまった。

慌てて部屋に入って、そっと包みを開ける。そこには、わたしが〈海のアトリエ〉で思わず目を留めた、彼との出会いから今までを思い出さざるを得なかった絵、柘榴が描かれた絵があった。思わず涙が溢れる。
(なんでこんなことをしてくれるの……)
柘榴の絵が涙で滲んで霞んだ。そしてふと祈りが降りて来た。
「神様、彼とわたしがその昔、一対であったことを思い出させてください」
まだ酔っているのかもしれない。わたしは柘榴の絵をベッドサイドの小さな棚の上にそっと置いた。今夜はもう眠ってしまおう。目を瞑ったわたしの耳の奥に、遠く潮騒の音が聞こえた。

(つづく)

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