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軌跡の先を #6

●3年ほど前に初めて書き、翌年にヒイヒイ言いながら改稿し、そのまた次の年(昨年)に印刷所に頼んで紙の本として作った長編小説の前半くらいまでをnoteに投稿する試みです。筆力の未熟さを承知の上で、投稿にあたっての手直しをせず、印刷所に納品した本文データそのままをお届けします。
●ほぼ「心意気を買う」形にはなりますが、紙の本を売っているページはこちら→https://sheep16-baa.booth.pm/items/5074168

 6

 迎えた翌日の午後一時、私は須賀先輩と二人、皆川大学の学生御用達だという喫茶店「オペラ」の店内で顔を突き合わせることになった。話にしか聞いていなかった須賀先輩は、長身に短い焦げ茶の髪、何かのロゴマークがプリントされているくたびれた黒のTシャツに色褪せたジーンズという服装、そして何よりとても不愛想な男性の先輩だった。総合芸術学科の女子学生の多さから、勝手に女性を想像していた分、内心たじろいだ。それも、店内で顔を合わせるものと思って「オペラ」へ向かうと、いかにも機嫌の悪そうな顔をして店の入口で仁王立ちしていて、私の顔を見るなり低い声で「藍川さん?」と尋ねてきたものだから、思わず縮み上がってしまったのだった。
 アイスコーヒーを前に、険しい表情でこちらを見る須賀先輩。切れ長の目に浮かぶ怒りやいらだちの気配を隠しもしない。私はどうしても怯んでしまう。マリーの方も居心地の悪い気分でいることが伝わってきた。
「あの、私が大学の近くの事故物件に住んでいることはご存知ですよね」
 私が、ではなくマリーが先手を打った。私の両目を、須賀先輩は真っ直ぐ見つめてくる。見つめるというより、心の内を覗き見ているかのようだ。
「話は橋本さんから聞いてるけど。藍川さんは、どういうつもりなの?」
 表情と同様に険しい口調。どういうつもり、という言葉が何を指すのか、私にはわからない。マリーはこの状況で、どうしようというのだろう。
「知りたいことがあるんです。三年前のことを知っている人に、教えてもらいたいことが」
 自分の口から出た言葉を自分で理解できなかった。三年前。初めて耳にするワードだった。マリーは、このワードを使えば自分の果たしたい目的にたどり着けると踏んで、須賀先輩に向けてストレートに発したのだろう。実際、彼の顔色は私の言葉を聞いてはっきりと変わった。
「三年前のことを、どうして藍川さんが知ってるの」
「柳瀬眞理という人に聞きました」
 おそらくマリーの本名なのだろう。マリーが身体の主導権を握っているからか、私の心の中にある不安に関係なく言葉が次々と、はっきりと出てくる。
「そっか……」
 須賀先輩はしばらく考え込んだ。店内に小さな音量で流れるクラシック音楽が一曲終わり、別の曲が始まっても沈黙は続いていた。緊張から喉が渇いてきて、目の前に置かれた須賀先輩のものと同じアイスコーヒーに手を伸ばそうか考え始めた頃、須賀先輩が口を開いた。
「俺も、後悔してるんだ」
「後悔?」
 須賀先輩がコーヒーを一口飲むのにつられて、自分の前に置かれたコーヒーを口に含む。喉が潤うと、その分心の余裕が少しだけ生まれる。
「柳瀬さんは何を知ろうとしてるのかな」
 話を聞きたいのは私ではなくマリーなのだと須賀先輩に伝わったようだ。「後悔」という言葉には引っかかりを覚えるものの、それについて掘り下げる余裕もないし、私にその権利もないと思った。
「遠野夏海さんの連絡先、まだ知っていたら教えてください」
 また自分の口から知らない名前が出たが、そんなおかしな現象にはもう驚かない。私は自分の身体の中で息をひそめて、マリーが何をしようと動いているのか、様子を窺った。
「申し訳ない、遠野さんの連絡先は、今はわからないんだ」
 言葉以上に心を痛めているようにも見える須賀先輩が、小さく首を横に振った。
「そうですか」
 マリーが発した私の声にも落胆の色が浮かぶ。
「藍川さんが、どうして柳瀬さんに三年前のことを聞いたのか、教えてはもらえないかな」
 相変わらず私の心を覗き込むような須賀先輩の目。その目には、会ったばかりの時とは違う感情をたたえているように思う。しかし私は困ってしまった。私はマリーから「三年前のこと」など一言も聞いていない。私が知っている事実は、マリーがあの部屋で亡くなったこと、幽霊となったマリーには何らかの未練があること、生前のマリーと須賀先輩には面識があること、この三つしかない。
「私は」
 私の声を使ったマリーの言葉に、私も耳を傾けた。
「柳瀬さんと知り合ったのは偶然でした。わけあって親しく話すようになって、三年前の話を聞きました。柳瀬さんは今、遠いところにいて、どうしても遠野さんと連絡を取りたいと思っているそうです。皆川大学にいる私なら、軽音楽部の繋がりで遠野さんの連絡先がわかるんじゃないかって、そう言ってました」
 私の口から出た言葉を、須賀先輩は微動だにせず聞いていた。マリーの言葉は半分以上が嘘だと思ったが、マリーがそう答えようと思ったのなら訂正すべきではないだろう。
「今の軽音に、遠野さんの連絡先がわかる奴はいないと思うよ」
「そう、なんですね」
 マリーの気持ちが伝わったせいなのか、やっぱり、という言葉が浮かんだ。
「じゃあ、せめて聞かせてくれませんか。須賀先輩から見た、三年前のこと」
「どうして」
 須賀先輩の視線が再び鋭さを持つ。私の心は怯んだが、マリーの態度は怯まない。
「柳瀬さんに頼まれて、私も三年前のことを詳しく知らないといけなくなったんです」
 今度は困った表情を浮かべる須賀先輩がコーヒーに口をつけて、それから視線を彷徨わせた。須賀先輩の方も、内心では落ち着いていられないのかもしれない。
「そうだな、柳瀬さんから聞いた話と被る部分もあるかもしれないけど。ただの昔話、って思って聞いてほしい」
「はい」
 場がぴりっと引き締まった。
「俺が入学して軽音に入った時、ドラム不在のバンドがあったんだ。メンバーはギタボとベースとキーボード。全員女子。しかも、全員旧音楽学科の四年生。旧学科の先輩はもう四年生しかいなかったし、旧学科の人は入学した学科そのままの扱いで卒業することになってたから、旧学科の先輩自体接点が全然なかったんだ。だから、俺は関わりが少ないまま卒業していくんだろうなって思ってたバンドだった。でも、そのバンドのギタボだった畠山さんに声をかけられたんだ。俺は高校からプロのドラマーの先生についてドラム教わってたから。俺にとっては、それが始まり」
 今の四年生と旧学科の先輩との関わりがあまりない状況だったのなら、現学科の中でマリーの噂について詳しいことが聞けないのも頷ける。
「俺は総合芸術学科だし、旧学科の先輩なんてほとんど知らなかったから、正直あんまり乗り気じゃなかった。実は人見知りだし。でも、メンバーの先輩方はかなり技術があって、音出してるのを聴いて俺もやりたいって本気で思って、そのバンドに入ることにしたわけ。バンドはオリジナル曲オンリーでやってて、作詞作曲は全部畠山さんだった。アレンジはみんなでやってたかな。それが、すっげえいい曲書くんだよ。市内に小さいライブハウスがあるんだけど、内輪のライブやった時には一番盛り上がった。サムシングってバンド知ってる? うちの軽音の大先輩。あの頃は、サムシング以来なんじゃないかって言われてた」
 須賀先輩は熱っぽい口調で語る。心なしか目も輝いているかと思いきや、次の瞬間にその輝きが翳った。
「でも、夏休みで最後だった」
 須賀先輩が声のトーンを落とす。
「俺は、畠山さんが辞めたいって言うまで、うまくやってると思ってた。でも、畠山さんは曲が書けない、ダメだって一点張りで、結局、解散」
「でも、すごくいいバンドだったんですよね?」
「それでも、畠山さんがとにかくダメだって聞かなかったんだ。で、曲も歌詞も全部畠山さんを信じて任せてきたバンドだったから、これじゃどうしようもないって話し合って、夏休みの集中講義の切れ目をもって解散。ってか、自然消滅?」
「自然消滅?」
 半疑問形で話す須賀先輩の言葉を復唱して首を傾げてしまう。
「それから会ってないから。メンバーの誰とも」
「どういうことですか?」
 須賀先輩が言葉に詰まる。私は急激に喉の渇きを覚え、コーヒーのグラスに手を伸ばす。
「俺、解散するって流れになってからしばらく軽音に顔出さなくて。そのへん柳瀬さんから聞いてないかな。夏休みが明けて少しして部室に復帰したら、先輩方が全員いなくなってたんだよ。遠野さんと柳瀬さんは退学して、畠山さんは自殺したって聞いた」
「自殺……」
 思いもよらないワードに、突然鼓動がいやに耳につくようになる。須賀先輩はばつの悪そうな顔になった。
「もしかして、そこまで聞いてなかったかな」
「はい」
 嘘だと思った。しかし、それをこの場で質すことはできない。須賀先輩は気まずそうに頭を掻いた。
「藍川さんが住んでるあのアパートが、本当に畠山さんの部屋だったのか、実は知らないんだ。後から噂になった、『学生が死んだ』って話しか知らないから。だから、どういうつもりなんだって聞くような筋合い、本当は俺にもないんだ。先輩方がどこに住んでたかとか、まだ詳しく聞くようになる前だったし、当時の四年生の先輩にそこまで確認する勇気もなかった。でも、うちの学生で亡くなったって話があったのは畠山さんだけだから、俺はそうだと思ってる」
「そうなんですか」
 須賀先輩が目を伏せ、私もテーブルに視線を落とす。ショッキングな話を頭の中で落ち着いて整理してみる。柳瀬さん、つまりマリーは退学した。マリーが会いたがっているらしい遠野さんという先輩も同じく退学。しかし須賀先輩の口ぶりでは、私が住むアパートに「出る」と噂になっているのは畠山さんという先輩だと思われているようだ。つまりマリーが亡くなった事実は、少なくとも須賀先輩をはじめ当時の軽音楽部に関わる人には知られていない。マリーは退学後、何らかの理由で近しい人に知られることなく命を落としたということか。須賀先輩にこれだけ話を聞いても、まだ知ることのできない真実がマリーにはある。
「俺は、うまくいってると思ってたバンドが解散するっていうのがショックで勝手にサークル棟に顔出さなくなった人間だけど、後から畠山さんが自殺したって聞いて、俺らのせいだって思った。正直、直接の理由とかも未だに知らないけど、俺らが何かこう、追い詰める原因になったんだって。だから遠野さんと柳瀬さんも退学したんだって思って」
 悲痛な須賀先輩の話に、私は何か気の利いた言葉を口からひねり出そうと思ったが、考えるべきことが多すぎて何も浮かばない。
「他の軽音の人達も、教えてくれないっていうか、知らないって感じだったんだ。俺達のバンドってなんかこう、ある意味外界から閉じてるみたいなところがあって。そのせいもあったのかな。だから、畠山さんの自殺を止められたのは俺達メンバーだけだったのにって思うと、すっげえつらかった。しかも、冬頃になって『アパートに死んだ大学生が出る』って怪談みたいな噂も出てきて。なんか、畠山さんのこと冒涜してるみたいで、しんどかった」
「ちょっと待ってください。噂になったのって、冬なんですか?」
 気になったことを思わず確認する。夏の出来事の話を聞いてきたはずなのに、突然時間軸が冬になってしまったのが引っかかる。
「冬だよ。元々の噂の出処がどこなのか、俺も知らないんだけど。俺は軽音以外の先輩が言ってたのを聞いたから。でも、学生が亡くなったって話を聞いたのは、本当に畠山さんだけなんだ」
 やはりそうだ。自殺したという畠山さん、アパートで亡くなったはずのマリー、事故物件の幽霊の噂。どこかで話がこんがらがって、結果的に間違っている。
「つらいことを聞いてしまってすみません。ありがとうございました」
「いや、大丈夫。おかげで思い出したことがあるんだ」
 須賀先輩はジーンズのポケットからスマートフォンを引っ張り出して、何かを探すように操作し始めた。
「もしかしたら、遠野さんの連絡先を知ってるかもしれない人がいる。藍川さんと繋げていいか聞いてみるから、ちょっと待って」
そう言って、須賀先輩が何か文字を打ち込んでからスマートフォンを置く。誰かにメッセージを送って返信待ちのようだ。須賀先輩は私の両目をまた覗き込む。
「今更三年前のことを聞かれるなんて、びっくりしたよ。柳瀬さんの名前も久しぶりに聞いた。柳瀬さんは元気?」
「はい。元気みたいです」
 マリーはまた私の口から嘘を放った。元気も何も、マリーは亡くなって幽霊になり、私に取り憑いているというのに。考えようによっては、死してなお目的のために動いているのだから、元気というのもまったくの嘘とは言えないかもしれないが。
「元気でいるなら、いいんだ」
 安堵する須賀先輩の様子に湧く罪悪感は、私のものかもしれないしマリーのものかもしれない。と、須賀先輩のスマートフォンのバイブレーションが短く鳴った。
「来た」
 須賀先輩がまたメッセージをやり取りする。私はそれを眺めながら、残り少なくなったコーヒーをちびちびと飲んでいく。やがて須賀先輩はスマートフォンの操作をやめ、画面をくるりとこちらへ向けた。そこには二次元コードが大きく表示されていた。
「遠野さんのこと知ってる人と連絡がついた。渡辺さんっていう人。あとは直接聞いてみて。俺が今連絡取れる、あの時のこと知ってそうな人、もうこの人だけだから」
「ありがとうございます、助かります」
 須賀先輩が掲げている二次元コードを読み取る。渡辺知世という人の連絡先だった。スマートフォンの操作を終えてから顔を上げると、表情筋があまり動いていなかった印象の須賀先輩が少しだけ口角を上げた。
「藍川さんみたいな、あの時を知らない人に、柳瀬さんは話せるようになったんだね」
 マリーが私に取り憑いた目的を詳しく話してくれないのは、三年前の出来事がマリーにとって未練でもあり、大きな傷にもなっているからなのだろう。
「最後に聞いていい?」
 須賀先輩の表情が元の不愛想なものに戻った。
「藍川さんのあだ名が『マリー』なのは、偶然?」
「偶然です」
 マリーは嘘を重ねた。私の中で、由香里から聞いた「偶然にしてはできすぎだ」という言葉がやっと理解できた。それが須賀先輩にとっては最初から気になっていたことだったのだ。
 帰り道が反対方向だったようで、「オペラ」を出てすぐに須賀先輩と別れて自宅へ向かう。先ほど新しい連絡先を追加したばかりのスマートフォンがどうしても意識の表層から離れない。アパートに着いたらすぐに渡辺さんという人物に連絡をしようと帰り道を急いだ。来た道を戻って、真新しい建物が並ぶ通りを抜ける。どんどん歩いて、小学校を通り過ぎる。引っ越しの時に一度訪れただけの市役所も過ぎて、広い公園に出る。ここを右側に大きく回って抜けると大学や私のアパートがある道に出る。見慣れた道まで来ればアパートはすぐだ。ベージュの壁に茶色のトタン屋根の、二階建て木造アパート。その一階の一番右側の部屋が噂の事故物件、私の部屋だ。
 部屋で荷物を投げ捨てるようにして置き、着替えもそこそこに座椅子に腰を据えてスマートフォンのアプリを開く。渡辺知世なる人物に宛ててメッセージを打ち込む。私ではなくマリーが考えた文面だ。
〈はじめまして。藍川まりあと申します。須賀先輩から連絡先を伺いました。柳瀬さんからの頼みで、遠野さんの連絡先を教えていただきたくて連絡しています〉
 すぐに返信は来ないだろうと思って、スマートフォンを目の前の小さなガラステーブルに置いた。すると予想に反して、メッセージの着信を通知する短い音が響いた。
〈はじめまして。渡辺知世です。藍川さんのことは須賀くんから聞きましたが、柳瀬さんから直接連絡が来ない理由は何ですか?〉
メッセージを返そうとする指先に迷いが生じる。柳瀬さん、つまりマリーはもうこの世の人ではなく、幽霊になったマリーの代わりに私が連絡先を聞いているのだ。そんなことを、初めてメッセージを交わす相手に正直に言っても、常識的に考えればまず信じてもらえるわけがない。
(大丈夫)
 私の気持ちを察してか、マリーが言う。
「何が大丈夫なのさ。どう考えても無理があるでしょ」
(だから、大丈夫)
 そう繰り返して、マリーが私の指先を使ってメッセージを打ち込んでいく。
〈三年前のことで、柳瀬さんは直接連絡を取るのが難しくなりました。縁があって私が代わりに動いています。遠野さんと仲直りがしたいと言っている柳瀬さんのために、教えていただけないでしょうか〉
 メッセージが送信される。私には、この文面で渡辺さんが遠野さんの連絡先を教えてくれるとは思えない。
「教えてくれるわけないよ」
(トモちゃんなら、教えてくれるよ)
 トモちゃん、というのはマリーが呼んでいた渡辺さんのあだ名だろう。私には知り得ない関係性が、この二人の間にはあるということか。
「マリーの未練って結局、遠野さんって人と喧嘩したことなの?」
(喧嘩、ね。まあ、そうかな)
 私の疑問に対するマリーの返答は歯切れが悪い。マリーが自らの言葉で「三年前のこと」を私に話してくれて、その上で遠野さんに会いたいというなら話が早いのに、マリーが詳しいことを教えてくれないせいで、なんだか回りくどい事態になっている。命を落としてもまだ解決できていない未練があって幽霊になったはずなのに、直接的な行動でそれを果たそうとしないマリーの考えが理解できない。
 渡辺さんからのメッセージはすぐに返ってきた。開くと、内容は想像と少し違ったが、やはり渡辺さんは遠野さんの連絡先を伝えることを躊躇しているようだった。
〈直接連絡が取れない柳瀬さんの事情は詳しくは聞きません。ですが今更、それに藍川さんを介して柳瀬さんと遠野さんを繋げていいものか、迷います〉
〈おっしゃることはわかります。私の知る限りでは、柳瀬さんはこの三年間、事情があって身動きが取れなかったと聞いています。私は、柳瀬さんに協力しているだけの関係です。深く踏み入ることはしません〉
 マリーが送ったメッセージに、私に対して「協力はしてほしいが、事情に深入りはしないでほしい」という意思を読み取った。元々、ギブアンドテイクという約束だったのだから、当然だろう。
 メッセージはすぐに読まれたようだったが、なかなか返信が来ない。私が渡辺さんの立場なら、マリーの言葉に納得して遠野さんの情報を伝えるだろうか、と考える。私なら警戒して、教える気にならないかもしれない。マリーにとっても、そう簡単に教えてもらえないことくらい百も承知のはずだ。それでも仲直りをしたい相手が遠野さんだということなのだろう。
「やっぱり無理に決まってるよ」
(まりあ、ごめんね。ギブアンドテイクの関係でも、まりあにとっては厳しい話だよね。でも私、どうしても諦めきれなかったんだ。トモちゃんが教えてくれるまで、私は食い下がるつもり)
 マリーの言葉に必死さが滲み出ていて、私は言葉を吞み込んだ。納得がいかない部分もあるし、そこまでしてマリーの未練に付き合う義理もない。ただ、これからどうなるにせよ、マリーの未練がなくなって成仏でもなんでもしてくれない限り、私の中にはマリーの魂が同居し続けることになるのだ。諦めて、マリーのしたいようにしてもらうのが一番の得策だ。
 メッセージの返事はまだ来ない。私は一度この件から離れようと座椅子から立ち上がって、ガラステーブルにスマートフォンを置いた。すべて中途半端に放り投げていた服や荷物を然るべき場所に片付け、掛け時計を見やる。まだ夕方の四時過ぎだ。日が長くなったこの季節は夕方もまだ明るいし、空腹も感じていない。学生の本分である勉強をする気にもなれず、結局先ほどまでいた場所にすとんと腰を下ろしてしまった。スマートフォンの黒い画面をじっと見つめる。正体のうまく掴めない不安が押し寄せる。ただのギブアンドテイクの関係、という言葉で片付けるには、私はずいぶん重大なことに巻き込まれかけているような気がする。
 不意に、部屋の中を支配する静寂を破って明るい通知音が響いた。即座にスマートフォンを手に取り、メッセージを確認する。渡辺さんからの返信だ。
〈遠野さんに藍川さんの話を伝えてみました。できれば直接会って話したいそうなので、連絡先をお伝えします。柳瀬さんも同じだと思いますが、彼女も立ち直るのにだいぶかかったので、絶対に追い詰めないと約束してください〉
 メッセージを読んでいる途中で送られてきたのは、「遠野夏海」という名前の連絡先だった。
「マリー、よかったね。渡辺さん、連絡先教えてくれたよ」
 お礼のメッセージを送信して、目的の遠野さんにたどり着いたことに安堵した。まさか、これほどスムーズに事が運ぶとは思わなかった。それなのに、マリーから伝わってくる感情は喜びでも安堵でもなく、不安という言葉が一番当てはまるものだった。
「マリー、嬉しくないの?」
(嬉しい気持ちはあるけど、ちょっと怖い。ごめん)
 マリーが何かを「怖い」と言うのは初めてだと思った。
「大丈夫だよ。仲直りできるって」
(うん、そうだよね)
 マリーからはもやもやとした暗い感情ばかりが読み取れる。幽霊になっても仲直りをしたいということは、何か重大な仲違いがあったということに他ならない。おそらくそれは、須賀先輩の話にあったバンドの話や畠山さんの自殺とも大きく関係している。私には想像の及ばない、マリーと遠野さんとの間に起こった何かに思いを巡らせる。どんな言葉を頭の中で並べても、マリーにかけるべき正解が見つからなかった。
「マリーはいつもうまくやってきたじゃん」
(それとこれとは違うよ)
 私の苦手な場面をマリーの持つ強さで乗り切る、そんないつもの関係が崩れているように思った。
「マリーにも、怖いものってあったんだね」
 自分で口に出してみると、心の中が急にざわついた。この感覚は私のものなのか、マリーのものなのか。
「私、ずっと人付き合いが苦手だったんだ。今はマリーのおかげでうまくやってるけど、まだ苦手だよ。私はずっと怖かったんだ。自分に自信がないから、私はきっと誰かのこと不快にさせて、怒らせちゃうって。だから、相当古い付き合いの友達とか、相当フレンドリーに接してくれる人とかじゃないと仲良くできなかった。怒らせるのが怖いから人と喧嘩すること自体避けてきて、だから仲直りしたこともないの。マリーには信じられないでしょ」
心のざわつきを紛らわせるようにマリーに語りかける。
「そんなだから、マリーの気持ちは正直、よくわかんない。そもそもマリーに何があったのかも知らないし。だけど、怖いって気持ちは、わからなくもない」
 話している途中で、自分自身の心に整理をつけているような感覚に陥った。
「私の幼馴染がね、よく言ってた言葉があるんだ。思ってることをちゃんと言わないと、相手には伝わらないよ、って。私は人が怖くて、誰かにはっきり思ったこと言うなんてできなくて、何回言われたかもうわかんない」
 穂乃果の顔を思い浮かべた。ある時は冗談っぽく、ある時は真剣な顔つきで、穂乃果はそう私に言っていた。その私が初めて自分の意思をはっきりと伝えたから、穂乃果は現実的な忠告を挟みつつも皆川大学への進学を後押ししてくれたのだろうと、今では思う。
「仲直りしたくて、それが成仏できないくらい未練になってる気持ちなんだったら、ぶつけちゃえばいいんだよ。私を使って何を言ったっていい。本当に思ってること言わないと、遠野さんには伝わらないよ」
実体もないのに、マリーが少しだけ笑うのがわかった。
(まりあ、ありがとうね)
「私は、マリーの仲直りに協力する。ギブアンドテイクだからね」
 ギブアンドテイク。マリーがいつも大学生活をうまくやってくれているように、私もマリーのためにうまくやる。それだけだ。
(うん、ありがとう)
「いくらなんでも、ずっと未練残されて一生取り憑かれたままはさすがに嫌だからね」
 半分冗談めかして言うと、マリーはいつもの調子で声を上げて笑った。
(それはすみませんね。あーあ、なんか元気出た。なっちゃんと連絡取ってもいい?)
「お好きにどうぞ」
 なっちゃん、とは遠野さんの下の名前である「夏海」からついたあだ名なのだろう。マリーは私を介して遠野さんへのメッセージを綴り始めた。
〈はじめまして。渡辺さんから連絡先を伺いました。藍川まりあと申します。柳瀬さんに頼まれて、代わりに連絡を取っています。会って話していただけると渡辺さんから伺ったので、ご都合を教えていただきたいです〉
数分の間を置いて、返信を知らせる通知音が鳴った。
〈はじめまして。遠野夏海と申します。今月末の水曜日の夕方四時、千田駅はどうですか? 話は聞きますが、あまり期待しないでと柳瀬さんにお伝えください〉
 千田駅といえば、由香里と玲奈が住む街の駅だ。大きな駅ビルのある都市部の街で、喫茶店のようなゆっくり話のできる店も駅ビル内に充実している。提示された日の夕方に予定がないことをカレンダーのアプリで確認して、約束を取り付ける。
「マリー、『あまり期待しないで』って、やっぱり私を間に挟んでるからだよね」
(ううん、わかってるから『期待しないで』なんだよ)
 マリーはそれきり何も言わなかった。先ほどマリーを励ました時の気持ちとは打って変わって、マリーが抱いていたものとは種類が違うのであろう不安に襲われた。約束の月末が来てほしくないような、早く解決してしまいたいような複雑な気持ちがどっと押し寄せた。

いただいたサポートて甘い物を買ってきてモリモリ書きます。脳には糖分がいいらしいので。