軌跡の先を #1
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ここまで来てしまっては、もう引き返せない。いや、引き返すものかと覚悟を決めてここまで来たのではないのか。自分に何度そう言い聞かせても、幼い頃から付き合ってきた弱い自分が、でも、と声を上げる。どんなに強い気持ちでここにいるのだとしても、怖いものは怖い。
大学生活初日を目前にした真夜中、同じことをぐるぐると思い悩み続けて眠れそうにない。瞼を閉じれば、もう何度目かわからない回想が始まってしまう。
「まりあ、本気?」
私の目標を耳にした幼馴染の穂乃果は、厳しい顔をして声を落とし、顔を近づけてきた。
「うん、本気。勇気出してみたい。変わってみたい」
一つの机を挟んで真正面に穂乃果を見据えて、私はいつものはっきりしない言い方ではなく、自分でも驚くほどきっぱりとした口調で素直な気持ちを口にしたのだった。高校三年生の初夏だった。
私は、人から視線を向けられるのが極端に苦手だ。高校も面接試験のない学校を選んだし、授業中に自ら手を挙げて発言をしたこともない。文化祭や体育祭、合唱コンクールのようなイベントではなるべく気配を消していたし、部活にも入らなかった。「人が自分を見ている」ということを意識してしまった瞬間、全身から嫌な汗が噴き出て、頭が真っ白になり、自分でもおかしいと思うほど震え出してしまうのだ。物心ついた頃からそれがどうしようもなく苦痛で、そんな場面をできる限り避け続けてきた。高校卒業後の進路もなるべく人前に出ずに済む道を探っていたし、それは穂乃果もよく知っていた。そんな私が「音楽のコンサートの裏方を目指したい」と言い出したのだから、私の性質を知り尽くしている穂乃果が渋い顔をしたのも仕方のないことだった。ただ私に言わせれば、この目標を抱くきっかけになったのは他でもない穂乃果なのだった。
話はもう少し前まで遡る。高校三年生に進級したての春、幼馴染であり私にとって唯一安心して付き合える友人でもある穂乃果に、彼女が所属する吹奏楽部のコンサートに誘われた。毎年春に行われる、近隣の小中学校や高校の吹奏楽部と合同のコンサート。小学校のブラスバンド時代から始まり、高校までずっと吹奏楽一筋だった穂乃果の晴れ舞台を観に行くのはもはや季節の恒例行事のようなもの。その日もまた、堂々とステージに立つ穂乃果の姿を客席から見届けるはずだった。
本番当日の朝、穂乃果は私の家を出て会場の市民ホールへ向かった。穂乃果は高校二年生の時に家族で引っ越していて、以来二つ隣の町からバス通学をしていた。しかし本数の少ない田舎町のバス事情ゆえ、やむを得ない用事の前日などは私の家に泊まることがあった。幼稚園児の頃から家族ぐるみの付き合いがあった幼馴染だけあって、そこには何の不思議もない。母に至っては、日曜日なのに張り切って早起きをして、穂乃果のお弁当を作って持たせるほどだ。休日の朝から活動を始める理由を特に持たない私は呑気に穂乃果を見送ったのだが、それから二時間ほど経った時だったか、穂乃果から電話がかかってきた。
「まりあ、ごめん。玄関に私の靴あるよね?」
言われて玄関に出ると、見慣れた小ぶりのトートバッグがあった。その中身が、普段は歩きやすいスニーカーを履いている穂乃果がコンサートの本番で履き替えるローファーだということを私もよく知っていた。
「あった。取りに帰ってくる時間ある?」
「ないから電話してるんだって」
「あ、そっか」
電話の向こうの穂乃果は、今まで聞いたことのない焦った声音だった。考えてみれば、穂乃果は本番前日に私の家で一泊するためか、いつもきっちりと持ち物を確認するタイプだった。その穂乃果が忘れ物とは、確かにピンチだ。
「わかった。届けに行くよ」
「ありがとう。本当にありがとう。持つべきものは幼馴染、恩に着ます」
穂乃果は電話越しでもわかるほど安堵していた。できれば午前中のうちに届けてほしいこと、開場直前まで正面入口は開いていないから裏口から入ってきてほしいことを恐ろしいほどの早口で伝えられ、通話は切れた。
ローファーが入ったトートバッグを手に、私はすぐさま市民ホールへ向かった。いつも正面入口からしか入ったことがないから、裏口を探すのに少し歩き回ってしまった。どうにか見つけた裏口から中へ入ったものの、穂乃果の居場所もわからなければ控室のようなものがどこなのかもわからない。館内でまたも歩き回って、偶然たどり着いたのはリハーサル中の舞台袖だった。たくさんの人影に背筋をぞくりとさせながら引き返そうとしたその時だ。私は、薄暗い舞台袖で紙束を片手にテキパキと動き回る穂乃果の姿を目にした。
コンサートの裏方の仕事を見るのは初めてだった。周りの仲間に指示を出しながら、さまざまな楽器を携えて整列する他校の生徒を迷いのない采配でステージへ送り出す穂乃果。彼女の指示一つで、手にした楽器も身にまとう衣装も違うたくさんの生徒がスムーズにステージへと上がっていく。そして、スタッフとしているのであろう自分の高校の制服姿しか見えなくなった舞台袖で、穂乃果は時折紙束に目を落としながらも強い視線をステージの方へ投げかけていた。物心ついた時には仲良しだった穂乃果が今まで見せてきたどんな姿よりも、その時の穂乃果は特別に凛として見えて、私はトートバッグを片手に呆然と立ち尽くしてしまった。全身を雷に打たれたような、とはこういう時のことを指すのだ、と実感する経験は初めてだった。
ローファーはきちんと穂乃果の手に渡り、チケットも何も持ってこなかった私は一度帰宅してから午後に予定されていた公演を聴くことになった。コンサートは満員御礼で、どの学校の演奏も迫力満点、聴衆としての私は満足して市民ホールを後にした。しかしその気持ちとは別に、素晴らしいコンサートの裏で各団体の動きを支配する穂乃果の姿を忘れられない自分がいた。私は今まで、誘われるままに聴きに行ったコンサートの裏側がどんな様子なのかなどと考えたこともなかった。泊まり込みの荷物を背負って帰っていく穂乃果の後ろ姿に私が初めて強く見た感情、それは紛れもなく「憧れ」だった。
それからの私は、自分でも人が変わってしまったようだった。いつも何事にも消極的だった私は穂乃果を質問攻めにして、ひどく驚かれた。それでも熱意を伝え続けると、私が抱いた憧れは「ステージマネージャー」という仕事に昇華できるのではないか、と穂乃果は教えてくれた。そして、音楽関係の進路に私よりも詳しい彼女はある大学の名前を挙げた。実技試験があって演奏家を目指すのではなく、裏方の仕事を学べる学科を持つその大学。元々国立大学の文系学部に進む気でいた私は、ホームページを隅々まで見て「進路変更」という決断を下した。それを伝えた時の穂乃果の反応が、あの厳しい表情なのだった。
「まりあ、音楽なんて全然関わってこなかったじゃん。小論文、どうするの」
続いた穂乃果の言葉にはっとした。当初の私は、小論文の対策さえできれば間に合うという考えしか持っていなかった。しかし穂乃果は、音楽を学びに大学へ行くなら、まったくの門外漢である私は圧倒的に不利であること、私の性質から考えて、ステージマネージャーの仕事はある意味で演奏家よりも厳しい道かもしれないことを、噛んで含めるように私に言い聞かせた。今まで触れてこなかった音楽を学ぶ難しさよりも、ずっと苦手な場面を避けて生きてきたことの方が私には深刻で、正直に言うと少し怯んだ。それでも、生まれて初めて心に宿った憧れの火を絶やしたくない気持ちの方がどうしても強かった。それほど、私の目にはあの日の穂乃果の輝きが鮮烈に焼き付いていたのだ。
受験勉強に加えて、小論文の添削をしてもらうために進路指導室に通うようになった私を見て、やがて穂乃果が本気を認めてくれたのがわかった。私からしても穂乃果からしても、それは長い付き合いだからこそだった。毎日小論文を書いては添削を受け、また書いては添削を受けという日々を過ごし、同時に音楽の分野についても学んでいった。吹奏楽部の三年生が引退する秋を過ぎてからは、穂乃果が力強く協力してくれた。高校三年生にして、初めて本気で何かに取り組んだ期間だったと思う。二次試験までを乗り切り、ホームページで自分の受験番号を見つけた日、私は両親を差し置いて穂乃果に一番に連絡をした。そうして、私は皆川大学芸術学部総合芸術学科に進学が決まったのだった。
皆川大学のある皆川市は地元から離れていて、自宅から通うのは難しい。両親のすすめもあって私は一人暮らしをすることになった。大学には学生寮もあったが、私自身にもやっていける自信がなかったし、私の性質をよくわかっている両親も無理強いをしなかった。アルバイトも同様にハードルが高い問題だったから、仕送り頼りになることを両親も承知の上。私は精一杯の遠慮の気持ちでとにかく家賃の安いアパートを借りた。そうして三月末から始まった人生初の一人暮らし。友人のほとんどいない私にはその分寂しさもなく、細々した家事なども嫌いではない。思いの外なんとかなるのではないか、とも思えてしまう一人暮らしの始まりだった。
ただ、問題が、そう、もっとも大きな問題が間近に迫っていた。「楽器のリペアマンになりたい」と遠い県の専門学校へ進んだ穂乃果もいない、私の性質を知りながらこの進路への後押しをしてくれた両親もいない、たった一人で、苦手な状況が山のように待ち受けている大学生活に挑もうとしている、この状況。あれだけ強い思いで受験をクリアしたのに、あの時の自分がどうかしていたと思ってしまうほど、激しい濁流のような不安に襲われている自分がいた。憧れという火がもたらした強い熱に、私は浮かされてしまっていたに違いない。
「あーあ。誰か私の代わりに大学生活やってくれないかなあ」
夜が明ければ、初めてキャンパスに足を踏み入れることになる上に、どう考えても逃げ出したくなるに決まっているオリエンテーションが待ち受けている。まったく眠れない深夜の布団の中、回数を数えることもやめた寝返りを打ちながら、つい心の声が漏れた。
「それ、本当?」
瞬間、身体中の毛が逆立つ感覚がした。私のものではない、誰のものとも知れない、しかしどこからかはっきりと聞こえた声。若い女性の声だと思った。しかし当然、この部屋には私一人しかいない。勢いよく起き上がって、暗闇に目を凝らす。嫌な汗がこめかみを伝った。
「本当かって聞いてんの」
また同じ声がしたかと思うと、一瞬、強い眩暈のような感覚が暗がりの視界を揺らした。
「何? 誰?」
出た、と直感した。この部屋は、同じアパートの他の部屋よりも大幅に家賃が安かった。すぐによぎったのは「事故物件」の四文字。ただ、契約に至るまで一切その類の説明を受けなかったし、私は幽霊の存在など信じていないからそんなことはどうでもよかった。とにかく家賃が安く、大学からそれほど遠くないというだけで契約に至ったのだった。とはいえ、実際に誰もいない部屋で自分以外の声を聞くという体験をしてみると、恐怖が背中をじとりと撫でていくのを感じる。
(やっぱ怖いよね。気持ちはわかるよ)
謎の声が今度は脳に直接響き、もはや悲鳴すら上がらない。卒倒しそうになる意識をなんとか留めながら、この状況で取るべき最善の行動を必死で考える。
「あ、あなたは、ゆ、幽霊、なんですか?」
やっとのことで、カラカラに掠れた声が口から出た。すると謎の声は状況の不気味さとは裏腹な明るさで豪快に笑った。
(なるほど、対話を試みたか。いいね。ちょっとあなたの身体、借りたいんだけど。っていうか借りました)
「えっ、か、借りるって」
(大学行くのが嫌なんでしょ? 私が、あなたの身体を借りてうまくやってあげる。その代わり、私にちょっと協力してほしいんだけど)
これはどういうことなのだ。会話が成立したのが幸いだったのか、それとも最悪な展開の始まりなのか、判断がつかない。
「協力って? うまくやるって? 何がなんだか、私」
戸惑う私に、謎の声は愉快そうに笑う。その声は私の気持ちを置いてけぼりにして、勝手に話を進めていく。
(それはおいおい。協力してくれるよね。くれるでしょ。ね。ああ、根気強くここにいてよかったなあ。そうだ、私のことはマリーって呼んで。あなたの名前は?)
「まりあ……。藍川まりあ」
うっかり、問われるままに名乗ってしまう。
(まりあって言うの? ピッタリ、偶然。じゃあ、明日から一緒に頑張ろうね、マリーちゃん。明日オリエンテーションなんでしょ。早いとこ寝ないとね)
マリーと名乗る謎の声はなぜか弾んだ口調で一気にまくし立てて、それきり部屋は一人暮らしの真夜中のしんとした空気に戻ってしまった。何の声も聞こえなくなり、耳が痛いほどの静寂。私は再び布団に潜り込み、脳内をフル回転させた。常識的に考えて、幽霊なんてあり得ない。それでは、今の出来事はどう説明するというのだ。身体を借りる? 身体を使ってうまくやる? それはつまり、私はマリーなる幽霊に取り憑かれたということなのか? いや、これは夢かもしれない。そうだ、夢だ。いや、こんなにリアルな夢があるものだろうか? 考え事が頭の中をものすごいスピードで駆け巡り続け、心なしか目の前がちかちかする。気付けばカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。もはや、大学生活のスタートについて思い悩んでいる場合ではない。想像の何倍も大変なことになってしまった。