見出し画像

軌跡の先を #2

●3年ほど前に初めて書き、翌年にヒイヒイ言いながら改稿し、そのまた次の年(昨年)に印刷所に頼んで紙の本として作った長編小説の前半くらいまでをnoteに投稿する試みです。筆力の未熟さを承知の上で、投稿にあたっての手直しをせず、印刷所に納品した本文データそのままをお届けします。
●ほぼ「心意気を買う」形にはなりますが、紙の本を売っているページはこちら→https://sheep16-baa.booth.pm/items/5074168
●店頭委託販売、カバーイラストでお世話になっている「キノコファクトリーのねじろ」さま(熊本県)はこちら→https://nejiro.kinocofactory.work/
↑閉店予定とのことです。大変お世話になりました。

2

 翌朝の八時半過ぎ、一睡もできなかった重い頭を無理矢理身体の上に載せるようにしてアパートを出た。徒歩十五分ほどの大学までの道のりを歩いているうちに、身体を動かしたおかげか少しずつ頭の中にかかっていた靄が消えていき、代わりに初めての大学生活への不安が改めて膨らみ始めた。
(緊張してる?)
 私のものではない声が脳に響く。昨夜マリーと名乗った幽霊―だと思う―の声だ。やはりあの出来事は夢ではなかったのだ。
「当たり前でしょ、知ってる人もいないし。だいたい私、人前が大の苦手なんだから」
(いちいち声に出さなくても伝わるって。独り言ぶつぶつ言ってる変な人だと思われるよ)
 笑いを含んだマリーの声。私は少しいらついて、はいはい、こうやって話しかければいいんでしょ、と心の中で悪態をついた。身体の奥の方を、私の気持ちとは無関係に楽しそうな気配がかすめていく。これが幽霊に取り憑かれるということなのか。
 一晩中悩んで、私は「幽霊に身を任せてみる」という道を選んだ。マリーという名前しか知らず、声からも生前は私と同年代くらいの女性だったのだろうということしか想像できない幽霊。「協力してほしい」とは言っていたが、私に取り憑いた目的も不明だ。ただ、寝不足でふわふわした体調の他にいつもと変わったところはないし、こうして会話が成立しているところからは、いざとなった時に対話によって最悪の事態は避けられそうだと想像できる。両親や穂乃果に連絡して状況を説明しようにも、「一人暮らしのアパートに突然出た幽霊に取り憑かれた」などと言ってわかってもらえるわけがない。どうかしてしまったのではないかと心配されるかもしれない。マリーには早々に生前の未練を晴らしてもらって、しかるべきところへお帰りいただこうというわけだ。幽霊などという常識外の存在でも、自分の身にまさに起こっていることなら受け入れざるを得ない。信じるか信じないかという問題以前に、マリーという幽霊が今、私の中にいるのだから。不思議な現象と不思議な感覚に開き直りのような感情を抱いて、大学への道を歩く。
 緩い坂道を越えた先にある橋を渡っていく。何気なく見た川沿いには、おそらく桜と思われる並木が遠くまで連なっている。北国の四月はまだ桜も蕾だが、満開になればさぞ綺麗だろうと思った。
(綺麗だよ、桜)
(そうなんだ)
 自転車に乗った女性が私の横を颯爽とすり抜けた。おそらく同じ大学の学生だ。その証拠に、自転車は大学の敷地に突き当たる方向へカーブを描いて進んでいった。
 広告も兼ねているような大きな看板の掲げられた大学の正門をくぐり、これまた緩い上り坂になっているキャンパスまでの道を歩く。気付けば同じ方向へ歩く学生がちらほら現れていて、さらに学生寮のある裏手の方から出てきた学生も合わさり、その誰もが皆正面玄関に吸い込まれていく。私もその一人となって、自動ドアをくぐった。
 正面玄関から入ってすぐのところに、立て看板があった。各学科のオリエンテーションを行う部屋が羅列されている。「総合芸術学科 第三講義室」とあり、文字列の下の案内図にも印がついている。私は現在地を確認してから、道順を視線でなぞって、それから歩き出した。第三講義室は別棟のようだ。目的の場所へ向かって少し入り組んだ造りの学内を歩きながら一抹の不安を覚えた。
(違う違う、右側だよ)
 左側の部屋ばかり気にしていた私に、マリーが教えてくれた。
(なんで知ってるの?)
(まあそれもおいおい。そこだよ。右斜め前)
 マリーに言われるがまま廊下の右斜め前を見やると、「第三講義室」というプレートが目に入った。記憶にきちんと留めたはずの案内図を読み違えていたようだ。緊張で手汗が滲んだのをジーンズで拭いてから、古い棟のようだからか微妙に建て付けが悪い扉を開いた。第三講義室というのは、頑張れば百人は収容できそうな教室だった。高校までで見たような古びた机や椅子ではなく、二人で並んで座ることを想定しているような白い長机と、軽量そうな造りの黒い椅子が並んでいる。どれも建物の印象に反して新しく見える。着席している学生はまばらだ。黙って前をじっと見つめたり指先を弄んでいたりする人もいれば、隣にいる人と早速意気投合しているような姿も見える。講義室に入ってすぐの位置にある、最前列の机の右端には、小さな札が貼ってある。四桁の数字、学生番号だ。この札の通りに座れということだろう。私の学生番号は〇二〇一。目の前の札も〇二〇一。空席のここが私の座席で間違いない。小学生の頃からずっと、進級したての頃は決まって最前列の一番端に座らされていたことを思い出した。
 入ってすぐの席にそのまま着席したから、他の学生の様子を窺うこともなくじっと座っているしかなかった。ただ白い机の上を見つめているだけなのも居心地が悪く、講義室に入ってくる学生が私と同じように札を目視して自分の座席へ向かっていくのを見るともなしに見ていた。少しの間そうしていると、同じようにして入ってきた女子学生が一人、真っ直ぐに私の隣に腰を下ろした。つい視線がそちらへ向いてしまい、目が合った。途端に鼓動が倍ほどに速くなってしまう。
「おはよう」
 自分の口から出た言葉に自分で驚いた。私は今までの人生で、初対面の人間に自ら挨拶をするなどといった社交的な振る舞いができたためしがない。声が震えることもないし、自分の口角が自然と上げられているのも自覚できる。そんなことすら私にとっては初めてだった。
「おはよう。はじめまして」
 相手はもちろん私の性質など知っているわけがなく、当たり前に挨拶を返してくる。少し日焼けしたような肌に、ポニーテールに結んだセミロングの黒髪。浮かべた笑顔も爽やかでなんの嫌味もなく、今までの私ならどちらかというとあまり親しくしないようにしていたタイプに見える。
「名前、なんていうの? 私は上野郁美」
「藍川まりあ。マリーって呼んで。えっと、郁美ちゃん」
「マリーね。私はいっちゃんって呼ばれてるよ」
「そうなんだ。よろしく、いっちゃん」
「うん、よろしく」
 なんだ、これは。動揺する私の内心をよそに、私と隣の学生、郁美との会話は弾む。私の口は私のものでないようにすらすらと言葉を発するし、郁美の方も何の疑いもなく返答する。これまでの人生で、こういった場面ではいつも穂乃果の後ろに隠れるようにして、穂乃果がいなければひたすら気配を消すようにしてどうにか時をやり過ごすことしかなかった私なのに。あまり親しくない人相手だと、自分から話しかけるというだけでも心臓が大暴れして苦痛を伴うのが常だったのに。明らかに、何かがおかしい。
 途中から、やっと実感をもって理解した。これは、私ではなくマリーの持つ社交性が作用して流れている会話だ。マリーは本当に私の身体を使って「うまくやる」つもりだ。幽霊に取り憑かれてしまった状況を改めて自覚する。とはいえ私の、ではなくマリーの会話を聞いていると、出身高校や地元の話などは私の頭にある実際の情報そのままだし、不自然な発言をしてしまうことも今のところない。ちょっとした世間話すら可能な限り避けてきた高校時代までの自分を思うと、社交的な人物の幽霊に取り憑かれているのもそれはそれで悪くないのではとさえ思ってしまう。
 郁美と今日の予定について話していると、細身の中年男性が講義室に入ってきた。正面側の壁に掛けられた時計を反射的に見ると、九時を数分過ぎたところだ。いつの間にか賑やかになっていた講義室が水を打ったように静まり返る。
「皆さん、はじめまして。美術教育研究室の高橋です」
 高橋先生というらしい男性が軽く自己紹介と自分の研究室の紹介をした後、数枚のプリントを配り後ろに回すよう指示した。オリエンテーションの資料と履修登録の用紙、健康診断の会場と時刻の案内だ。後ろを振り向くと、やや所在なげな男子学生が私の持つプリントに手を伸ばした。
 学科や研究室の紹介、履修登録の方法、必修科目の説明、今日のこれからの動きについての話を聞き、気付いた時には一時間近く経っていた。この後は健康診断のため学内のホールに移動することになる。それまでは少し時間があり、しばし自由時間となった。
「マリー、健康診断、一緒に行かない?」
 すかさず郁美が声をかけてくる。
「うん、行こう行こう」
「皆の顔と名前覚えられるかな」
「すぐだって」
 わずかに不安そうな顔をした郁美に、マリーは明るく言う。いつも不安ばかり口にする私を明るく元気づけてくれた穂乃果の姿が一瞬脳裏に浮かんだ。
 この学科は一年生がわずか三十人。四年生まで含めても百人と少しだそうだ。圧倒的に女子学生が多く、一年生の男子学生は三人だけ。先程の男子学生の様子も理解できる比率だ。加えて、研究室に所属しない一年生のうちは、必修科目がメインのため必然的に時間割の大半が一致するという。確かにマリーの言う通り、顔と名前が一致するのはすぐかもしれない。仲良くなれるかどうかは別の話だが。
 プリントで指定されていた時間になり、郁美と連れ立って健康診断の会場へ向かった。芸術全般を学べるこの大学は、キャンパス内に小さなホールを持っている。実技の授業の一環で音楽の合奏や演劇などに使うことが主らしいこのホールでは、授業以外にミニコンサートや講演会が行われることもあるという。知らない人が集まるところが怖くてオープンキャンパスを見送った私は、ここへは初めて足を踏み入れることになる。リペアマンの専門学校に行くと言っていたはずなのにちゃっかりオープンキャンパスに参加していた穂乃果は、「小さいけど音響は結構いい」と評していた。
 ホールは第三講義室のさらに別棟で、比較的新しい建物に見える。入口で健康診断の用紙を受け取り、中に入って驚いた。広さこそ地元の市民ホールに遠く及ばないが、内装も綺麗で天井も高い。音響がいいという穂乃果の言葉の通り、ホール内で発した声も他人の声もよく響いていて、それが嫌な感じではなく気持ちよく耳に入ってくる。
「すごいよねえ」
 郁美がぽつりと漏らす。
「うん、すごいね」
 返した言葉は、郁美と同じく圧倒された私の気持ちから出たものだ。何もかもの主導権をマリーが握っているわけではないということだろう。
 健康診断の項目をすべて終えて、昼食のために食堂へ向かう。食堂は正面玄関からすぐのところにあり、最初に入ってきたところへ引き返すことになる。すでに列ができているのに郁美と一緒に並んで、しばらく進むと食堂の案内の張り紙が見えてきた。それによると、料理の受け渡し口で注文を伝え、その場で手渡されるのを待つらしい。
「何食べる?」
 郁美の質問は、廊下に長々と貼り出されたメニュー表を見ながらのものだ。
「私は唐揚げ定食かな」
 自分の口から出た即答に、マリーの食べたいものだとはっきりわかった。メニュー表もまだすべては見ていない上に、昼食にはあっさりと麺類を食べるのが好きな私の意向の逆を行っている。
(勝手に決めないでよ)
(いいじゃん)
 私とマリーの声には出ないやり取りを知らず、郁美はメニュー表と睨めっこだ。
「よし、私も唐揚げ定食にする」
 しばし悩んで郁美も決断を下した。
(唐揚げ定食、おいしいんだもん)
(頼むから、余計なこと言わないでよ)
(はいはい、大丈夫です)
 マリーは私の意向などまったく気にしていない。溜め息が漏れそうになったが、郁美に不審がられてはいけないと思ってぐっと飲み込んだ。
長い待ち時間を経て食べた唐揚げ定食は、マリーの言う通りとてもおいしく感じた。空腹からなのか、料理がおいしいのか、味覚がマリーのものになっているのかは不明だ。マリーはこの食堂の唐揚げ定食を食べたことがあるのだろうか、と疑問がよぎったが、それを投げかける余裕もなく食器を下げて食堂を出ることになった。
 その後は新入生歓迎会があるということで、講義室と同じ棟の「学習室」なる部屋に一年生が集められた。何年生なのかはわからないが同じ学科の先輩であることは間違いないであろう女性が、学習室に入ってくる一年生の名前を一人一人チェックして、名簿に印をつけている。私と郁美が来た時点では、集まっている一年生は半分ほどで、いくつかのグループの形になって楽しげに会話を交わしていた。学習室はやや狭い休憩室のような場所で、学生どうしの距離も近く、その大半は立ちっぱなしだった。私達も部屋の空いている場所に突っ立って時間が来るのを待つことになった。
「ちょっと緊張するね」
 郁美が笑いながら、しかし落ち着かない様子で身体をわずかに揺らす。
「なんてことないよ」
(いやいや、私はめちゃくちゃ緊張してますから)
「マリーは肝が据わってるねえ」
「そんなことないよ」
(十分肝据わってるって)
 マリーは私の心の声をよそに、というよりわざと私を無視するように郁美と会話を続ける。私自身の言葉が郁美に届くことはない。マリーの態度を意地が悪いと思う一方、人付き合いが極端に苦手な私の本当の性質を郁美に知られたくないとも思う、複雑な心境でマリーの勝手な言葉にいちいち届かない突っ込みを入れた。
 気付くと学習室はだいぶ混み合っていて、ふと出入口を見やると、女子学生の二人組が揃って不安げに部屋の中を見回していた。
「こっちおいでよ」
 軽く手を挙げて声をかけたのは私、ではなくマリーだった。
「緊張するよね。時間ももうすぐだし」
 歩み寄ってくるなりそう言ったのは、腰までありそうなストレートのロングヘアを結わずに下ろしている女子学生。少し気の強そうな顔つきで、言葉はやや尖った早口だった。隣にいる、ショートボブくらいで少し癖のある真っ黒の髪とひときわ色の白い肌のコントラストが目を引く女子学生が、腕時計を確認しながら「だね」とだけ遠慮がちに相槌を打つ。
「ねえ、二人とも名前なんていうの? よかったらこの後の履修登録とか一緒にやらない?」
 話のとっかかりを作ったのは郁美。私、というよりマリーと打ち解けるのも早かった彼女は、どうやらフレンドリーな性格のようだ。
「私は橋本由香里。こっちの子は松田玲奈。私達、同じ高校だったんだ」
ロングヘアの女子学生、由香里が言う。色白の女子学生、玲奈は消え入りそうな声で「よろしくね」とだけ言った。
「私、上野郁美。仲良くしてね」
「私は藍川まりあ。あだ名はマリーだよ」
 マリーの主張が強いことに内心でヒヤヒヤしてしまう。元々の私は決してこんなキャラクターではない。しかし、私一人ではこんなに早く同期の学生と会話を交わせるようにはならなかっただろうから、そういった意味ではマリーに助けられた形なのだ。
「そろそろ新歓いきまーす」
(シンカン?)
(新入生歓迎会)
 入口で名簿をチェックしていた先輩の声かけで浮かんだ私の疑問に、マリーが即座に呆れたような声で返す。先輩に連れられて、義務教育時代のように列になって学内を歩いていく。学習室を出る時に学生番号順に並べられたから、私は先頭だ。向かっているのは先ほどの第三講義室なのだが、建物の古さからか少し暗く感じる廊下にやはり不安が浮かんでしまう。
 第三講義室の前に立って、先輩が扉を勢いよく開けた。「一年生、入りまーす」と言って私の入室を促す。「向こうの奥から詰めて座ってね」と言って指し示された先を見ると、後方から四列目ほどの位置で別の女性の先輩が小さく手を振っているのが見える。私がそちらへ歩いていくと、後ろの郁美をはじめとした一年生がついてくる。ほどなく一年生全員が着席し、新入生歓迎会が始まった。
(始まっちゃったよ、マリー)
(大丈夫、うまくやるって)
(でも)
(任せなってば)
 この後に確実に待っている、もっとも苦手なシチュエーションを恐れる私に、マリーは何を任せろというのだろうか。私の身体には緊張がすみずみまで走っていて、全身の筋肉が強張るのがわかる。ジーンズで何度拭いても手汗がじわりと浮かんでくる。
 講義室の前側入口付近でマイクを握る司会の先輩の説明によると、歓迎会は二年生の先輩が主体となっていて進められ、参加者は二年生全員と、そして三年生、四年生の先輩がちらほらといった構成らしい。私達の前方には、席順が自由なのか数人で固まったりバラバラになったりして座っている先輩達が四十人ほど。なるほど、それくらいの人数だ。それに加えて、学科のすべての研究室の先生も揃っている。若く見える女性の先生から、明らかに高齢で杖をついた男性の先生まで、八人の先生が講義室の教壇に並ぶ。
「それでは、一年生の皆さんには自己紹介をしてもらいます」
 司会の先輩の簡単な自己紹介に続き、学科の特色、学生の雰囲気についての話が終わると、私が心から嫌な場面ナンバーワンである自己紹介の時間がとうとうやってきた。
「とりあえず学生番号順ということで、一番の子から」
 学生番号〇二〇一の私がトップバッターだ。出席番号が早いことも、高校まででずっと嫌だったことだ。こういった場面が誰より苦手なのに、ほぼ間違いなく一番手にさせられてしまうのだから。心拍数が急上昇するのを感じる。
「学生番号〇二〇一、藍川まりあです。堤市の堤中央高校出身です。帰宅部一筋だったのに、ステージマネージャーの仕事に憧れて入学しました。話すと長いので、詳しくは割愛します。趣味とか特技は残念ながら特にないので、何か面白そうなことがあったら教えてください。こう見えて友達が少ないので、仲良くしてください。よろしくお願いします」
 講義室が拍手に包まれた。
「まりあちゃんに質問ある人?」
 司会の言葉に、何人かの先輩が手を挙げる。その中の一人が当てられて、マイクを手渡される。
「堤中央って吹奏楽の強豪じゃない? なのに帰宅部だったの?」
「吹奏楽部には友達が入ってましたけど、私は聴く専門でした。でも、友達がかっこよすぎて、影響されてこっちの世界に来ちゃいました」
 照れたような口調にどっと笑いが起きる。
「堤から来たなら、寮に住んでる?」
「いえ、ここから十五分くらいのアパートで一人暮らしです」
どこからか「頑張れー」という声が上がり、返事の代わりに軽く一礼する。
「じゃあここまで。次の人」
 司会の先輩の言葉を受けて着席する。心臓がまだバクバクと鳴っている。それよりも、いつもとそう変わらない極度の緊張が襲ってくる内心を打ち破って出てきた、立て板に水といった調子の言葉の数々が信じられなかった。自己紹介と質疑応答の時間だけ、別の誰かにそっくり代わってもらっていたような、自分自身は陰でそれを見ていたような、これまで経験したことのない感覚だった。
(うまくやるって言ったでしょ?)
(う、うん、ありがとう)
 私の後に郁美の自己紹介が続き、学生番号順に三十人全員が滞りなく自己紹介を終えた。無難に済ませた人から笑いを狙った人まで様々で、穂乃果からよく聞いていた吹奏楽部での話と照らし合わせて、これが芸術系の学科の空気なのだと思った。
 私にとって最難関だった自己紹介というイベントがマリーのおかげで無事にクリアできたことで、続く先輩達の研究室紹介と先生の自己紹介は肩の力を抜いて聞くことができた。歓迎会の最後を飾った、セミプロとして活動しているらしい四年生のギタリストの先輩による即興演奏には聴き惚れてしまった。こうして、私があれほど嫌だった大学生活初日は、驚くほど難なく終わってしまったのだった。

いただいたサポートて甘い物を買ってきてモリモリ書きます。脳には糖分がいいらしいので。