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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_77_30代編 07

「それでよかったの?」

 暗闇の中でのっそりと現れたのは現在の僕だ。
 思い出の中で沈んでいる意識の中で、各年代の僕がパイプ椅子に座って30代の僕をじっと見つめている。

 それはいつものこと。いつもの反省会。
 語りべとなった年代順に割り振られて、自分自身の傷口を広げながら回顧する。痛みは僕の正気を為つための薬だ。生きるためには必要なルーティンであり、夢と記憶と年代とを紐解くことで僕は客観的に、僕という存在を観測する。絶対的な記憶力を持ちながらも、匂いを介して人の記憶を読み解く異能も、結局、僕を全能かつ完璧な究極の存在へと押し上げてはくれなかった。

「――ねぇ」

 幼い僕の声とともにパイプ椅子の配置が換わる。僕を取り囲模むように円形の陣形をとって、言葉以上の感情を視線に込めて30代の僕をじっと見る。幼少と整形した20代以前はマスクをつけて、前髪を伸ばして目を隠しているけど、浮かべる感情の色はナイフのように研ぎ澄まされていて、ぞっとするほどに冷え切っている。

 だけど、30代の僕の心を動揺させたのは一番幼い幼少期の僕だ。いつもなら、大川くんと出会って以降の僕は座っているのに、今、僕の目の前で座っている幼少期の僕は、幼稚園時代の生きているだけで苦痛を感じていた頃の僕。まだ三歳児なのに胃痛をわずらって、こざかしくも自分よりも弱い立場の園児たちを利用し、テレビにも特撮にも興味を示さず……けれでも、どの年代の僕よりも聡明で真摯でずうずうしいほど純粋な目をしている。

 狆くしゃの崩れた丸顔。腐ったミカンの肌色。顔中に無数の毛穴が星空のように広がって、あぐらをかくように崩れた鼻。左右の形が違う瞳に、ミミズの死体のような唇。

 思わず首を締めてしまいそうな醜い造形でありながら、30代の僕を見る眼差しは苛立ちを覚えるほどに真っすぐで、濁りも淀みもなく、ただただ痛ましげな表情を浮かべて、居心地が悪そうに尻を少しうかせてイスに座っている。

「ねぇ、なんで君はそんな顔をするのかな?」

 苛立った30代の僕は、整形手術をした美しい顔で幼い僕へ凄んだ。

 醜く幼稚な容姿をしているからこそ、その落差によって生じる威圧感は絶大だったはずだ。それなのに、それでも幼い僕は怯えることなく、むしろ怒りを覚えていた。

「どうして? 」

 短く問い詰める幼い僕は、まるで奇妙な生き物を見るような瞳で大人の僕を見つめ返し、小さな頭を左右に振る。そして、まるで心の底からの疑問をぶつけるような口調でこう言った。

「どうして、僕なのにの言いたいことがわからない?  理解する気もないの? 僕がなぜ、こんなにも哀れで惨めで救いようのない人生を送っているのか」
「はぁっ!」

 なんて凡庸で分かりやすく、美しくない問いかけだ。
 こんなどこにでもありふれているような説法なんて聞きたくないし、聞き入れるつもりもない。

「けど、君は想像したじゃないか。葛西 真由と結婚して、醜い子供たちを愛しむ自分を。人並の幸せを。その分、友達と疎遠になっちゃうかもしれないけど、黄色い花畑に囲まれたような幸せを、その可能性を見つけてしまったじゃないか」

 幼い僕は鼻の詰まった声で、大人の僕に訴える。

 あぁ、なるほど。やっぱり子供だ。
 真理をついているようで、まるでわかっちゃいないんだ。

 だから僕は言ってやった。

「―――くだらないね」

 その一言は、今の僕にとって何よりも残酷だ。
 時間は巻き戻すこともできず病的な殺人衝動を内に秘めた自分に、人並みな幸せなんて訪れるはずがない。

「だけど、分からないじゃない」

 僕の返答に、失望の色を示す幼い僕。大川くんと出会う前の無邪気で愚かな自分。人間関係築く前の、白よりも透明な性質を携えた、手の届かない彼岸の存在。

 大川くんと友達になって、僕はテレビを見ることを覚えて、特撮の面白さを知った。いや、ようやく感情らしい感情を手に入れた。
 五代くんと友達になって献身さを知った。美しいものに触れる悦びを知った。
 園生くんと……友達になって、優越感と嫌悪感、心の距離の取り方を知った。
 早瀬くんと友達になって、受け入れられることと、受け入れることの喜びを知った。
 物部くんと友達になって、僕になにが出来るのかを知った。寄り添ってくれる存在のありがたさを知った。

 僕は誰よりも豊かで恵まれていて、誰よりも美しい存在なんだ。

 そう【誰より】も。
 だからこそ、僕の幸せは誰にも奪えないし、僕の幸せは僕のものだ。

「けど、僕は幸せなのかな?」

 そう言って現在の僕がイスから立ち上がって宙を見る。視線の先にあるのは、タイのホテルで眠っている自分だ。公安は僕の投げつけたヒントから、北朝鮮から買った核爆弾のパスコードを解読しようと試みているようだけど、メディアに洪水の如く溢れて氾濫している、僕の記録を紐解いたところで真相に辿り着くことはない。

――思い出に意味はないのだから。

 その言葉に意味、分かるかな?

「おい、お前が自分自身の幸せを否定してどうするんだよ」

 30代の僕が現在の僕に掴みかかる。
 現在の僕、タイの有名な整形外科医――坂白さんの紹介で出会った神の手によって、両性具有的な美しさを携えた真なる天使美貌。ゆで卵のようにつるりとした額から赤い血を涙のように流して、幼い僕に醜い所業を見せつける。

「助けて、真由」

 耐え切れずに吐かれた、一番幼い僕の言葉に、その場にいた僕が一斉にぎょっとした表情で幼い僕を見る。

「やめろ」
「やめろ」
「やめろ」
「やめろ」
「やめろ」
「やめろ」
「やめろ」
「やめろ」
「やめろ」

 僕は、僕たちは一斉にイスから立ち上がって、一番幼い僕を睨みつけた。
 いつのまにかパイプ椅子の円陣が30代の自分から一番幼い自分に変わり、現在の僕と30代の僕がイスに座って、幼い僕を見降ろしている。
 無数の針の如く突き刺さる視線のシャワーに、幼顔を苦悶に歪めて、幼い僕は踏ん張るように立っている姿。まっこうから未来を否定する自分が、とてつもなく醜くて癪にさわった。

「真由、真由、ここにきて」

 幼い僕は喉を震わせて、忌まわしい名を呼んだ。僕の人生の最大の汚点の名前。僕の初めての殺人。そして結婚まで考えていた最愛の人。

 最愛という言葉に、不愉快な痒みが全身に広がって鳥肌を立てるというのに、一番幼い僕は、まるで当たり前のように彼女の名前を呼ぶ。

 真由、真由、真由っ……と。

 すると、幼い僕の傍らで闇が泥のごとく積みあがって膨張し、人の姿を形成する。僕よりも背が低い140cm代の身体、鳥ガラのようにあばらや肩甲骨骨が浮いているのに、胸や尻が張りだしているアンバラスさがとてもグロテスクで、頭上には豚を連想させる顔が乗っかっている。

 豚だ。そう、醜い豚の顔。
 真横にむくんだ青白い顔に、上に吊り上がっている大きな鼻。ひび割れた唇は傷だらけで、眠たそうな糸目のせいなのか、なんだかバカにされているようなムカツキと嫌悪かんを掻き立てる……まるで、人に嫌われるための造形――坂白上院で出会った、整形前の葛西 真由。

 そんな彼女がワンピースのような手術着を着て、陳くしゃ顔の幼い僕と並んでいる。これはなんて悪夢なんだ。どうして、この存在を許容し、僕の中へと現れたのか。

「俊雄君」

――やめろ。豚が口を開くなっ!

 臓腑ごとかきまわされる強い感情。あの時、坂白病院のカウンセリングルームで、ひきつけを起こして泣き叫ぶ彼女を声を聞いて、隣室で待機していた僕は耐え切れずに助けに入った。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「いやだ、苦しい、痛い、助けておとうさん。お兄ちゃん。お母さん、やめて、ぶたないでっ! いやだ、この人、いやだっ! おっぱい触らないで、からだ、舐めないで、……いや、いやあああああああっ!!!!」

 坂白病院の名誉の為に弁明すると、カウンセリングルームは防音設備が整っていた。患者のプライバシーは守られている筈だった。
 つまり居合わせたのが僕だったのが悪いんだ。
 僕の嗅覚に突き刺さる、焼ける肉の匂い、赤茶色の苦痛の記憶、聞こえてこないのに聞こえてくる恐怖に満ちた、喉を引きつらせて血を吐くような悲鳴は、まだ青臭い僕の心を動かすのには十分だった。

 気付いた時にはドアノブを壊して部屋に侵入した。突然の侵入者に対して硬直するのは、カウンセリングに当たっていた女性の先生と、付き添いの看護師で、悲鳴をあげている患者の方は過去の檻に閉じ込められたまま、イスの上で溺れるように手をバタつかせて悲鳴を上げている。
 僕はともかく無我夢中で彼女を抱きしめて、僕の顔を見せないように頭を胸に押し付け、耳元でささやいた。
 彼女が欲しがっていた言葉を、だけどなによりも自分自身が欲しがっていた言葉を。

「大丈夫、助けにきたよ。だから安心して」

 言葉に出して泣けてくる。安心したい、居場所が欲しい、人間関係で変化し、成長するごとに切り替わる価値。僕の未熟な魂は、安定しないすべてに絶望して泣いていた。

「なんで泣いているの?」
「え」

 あぁ、なんて情けない。

 そう、僕は泣いてしまった。葛西 真由は自分とは違う涙の匂いで正気に戻り、自分の状況をひとまず棚上げにして、僕から自身のからだをサナギのように引き離し、僕に優しく問いかける。自分だって、ギリギリの状態だったクセに。

――うるさい、黙れ。おまえはもう死んでいるんだよ。

「どうしたの?  どこか痛いの?」

――違う、僕は、僕は……。

「ねえ、どこが痛いの?」

――うるさいっ、僕は……ぼくは……。

「僕は、君を助けにきたんだけど……」

 その瞬間に、葛西 真由の糸目の瞳に、光があふれたと思った。流れ出した光の正体は涙なんだけれど、僕は彼女の瞳からあふれた光のきらめきに、その美しさに、心の奥でぐしゃりとつぶれた果実の音が響いた。

 そう、僕はやってしまったんだ。

 自分の心の奥底の脆い部分を、僕自身が気づかずに踏みつぶして、助けに来たはずの彼女に指摘された気がして、恥ずかしさと悔しさと悲しさが嵐のように吹きすさんで、吐き出す場所を求めて暴れている。

――わあああああああああああああああああああ……。

 僕は耐え切れずに泣いた。葛西 真由も泣いた。
 お互いに黒い感情を吐き出して、僕たち二人は溶け合った。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 この時から、僕と彼女の交流が始まった。
 彼女も僕と同じ、大掛かりな整形手術を受ける患者であり、親戚の伝手でこの病院を紹介され、母親の反対を押し切り、自分自身の豚顔を捨てる決意を固めたらしい。

 彼女との話で意外だと思ったのは、ブスでも男は性欲の対象になるという実体験だった。存在感のある美しい女性ほど男は傷つけることに躊躇して、代わりに自身の性欲を解消させるターゲットを、自分よりも低い価値に位置する――つまり、ブスにぶつけて解消するのだそうだ。

 この理屈には正直、驚いた。

 僕は彼女の話で、熊谷のことを思い出し、けれども学生時代のような酸鼻極まる光景を想像することが出来なかった。小西 真由の匂いは嗅ぐだけで痛みを伴い、意識が都合の良い夢を見ることを許さない。圧倒的、絶対的な、怒り、理不尽、

 葛西 真由の術後の顔――手術でぱっちりと開いた瞳は金魚のようにあどけなくて、小顔に整った輪郭に、シワと傷のない唇は、下の唇がぷっくりと膨らんでいるのがセクシーだ。豚のような鼻も、顔の三分の一ぐらいにすっと伸びて、先のとがっている部分が、つんと高く持ち上がっている……うまくごまかしているけど、明らかに豚顔の名残だった。

【つづく】

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