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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_57_閑話 04

 2003年1月

『お元気ですか?』

 携帯のメールボックスに映し出された件名に、一瞬誰だか分からなくなった。表示された名前が【物部 雪彦】と表示されて、ようやくメールの相手が誰だかわかると、わたしは懐かしさと居心地の悪さを伴った奇妙な感覚にとらわれる。

『突然かもしれませんが、成人式の日に会えませんか?』

 なぜ、どうして。
 
 わたしの携帯の番号をどうやって知ったのだろう。
 いいや、それ以前に、彼とわたしの間に話すことなんてあったのだろうか。それ以前に、なぜ彼はわたしと話そうという気になったのだろうか。自分の立場を忘れてしまったのだろうか?

――あんなことをしたんだから、迷惑をかけたわたし達に顔を合わせる資格なんてない。だって彼は【人殺し】だから。

 雪彦くんとわたしはいとこ同士だ。わたしの父は五人兄の長男で、雪彦くんの父は二番目の弟にあたり、父親同士の関係は表面上うまく取り繕っているものの、両者の間にはいつも絶対零度の吹雪が吹き荒れていた。

 器用で傲慢で外面の良い兄。そんな兄に服従を強いられた弟というところだろうか。夏に行われる親戚の集まりで、四人の弟と祖父母にかしずかれるわたしの父は、まるで殿様のように夏の間は君臨していた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 頭が痛い。こめかみがズキズキして、目の奥が熱くなる。
 外面の良い我が父に反発した叔父は、兄を判明教師にすることをせず、周囲に当たり散らして多くの人々に迷惑をかけた。そんな叔父の家族が【まとも】であるはずもなく、再婚離婚を繰り返して、雪彦くんが生まれたときは、確か七回目の結婚だったと思う。

 わたしはこんなにも簡単に結婚と離婚が出来ることが、幼心には衝撃的であったし恐怖だった。ある日、母が父の圧政に耐えきれて、我が子を捨てて合法的に出奔する悪夢まで観た。 

 できれば、そうして欲しかった。そして、母がわたしを連れて父から逃げてくれたら、雪彦くんと関わらなかったという――恨みがましい希望的観測がいつまでもわたしの中で渦巻くのだ。

 さて、現実問題、わたしは成人式に行きたくない。物部 雪彦のいとこであることで、被った理不尽。成人式に出席するかつての陰湿な詮索者たち同級生に、我が身を差し出すくらいなら成人式なんて欠席するに限る。母もわたしの意見に賛成であるが、父が許さない。

 わたしが成人式に出席することは、我が家にとって特別な意味がある。

 いとこが人を殺した。
 しかも、半分血のつながった兄の子供で、生後間もない赤ん坊だった。
 その赤ん坊の名前は【桜】。女の子だ。
 わたしは同い年のいとこが起こした凶行に、当初妙に納得する部分があり、彼に同情する心の余裕もあった。

 同情……。そう、わたしは彼に同情した。

 彼は赤ん坊を殺して、兄に命じられるまま山に遺体を埋めた。
 雪彦くんは幼い頃から【こんな感じ】だった。
 善悪の区別がつかない、自分の意志が薄い、人の言うことをすぐに信じる。純粋ではなく、どこか虚ろでいつもボーと遠くを眺めている感じ。

 幼稚園の頃は、彼はわたしの恰好のおもちゃだった。
 嘘を教えてみんなに笑われている姿をニヤニヤ眺めて、自分のしたイタズラを彼に濡れ衣をきせたりして、ある時は、駄菓子屋で万引きをさせたりした。

 ふつうに母から買ってもらったチョコバットよりも、自分で買ったきなこ棒よりも、雪彦くんに万引きさせたうまい棒の方が、とてもとても美味しく感じた。

 気づかれるかのギリギリのライン、見つかるかもしれないスリル。さらに指示を出しているわたしは安全な立場。駄菓子の万引きに成功した雪彦くんに、わたしは成功して当然の態度をとって、彼の見ている前で堂々とお菓子をすべて平らげる。

 父が家で王様のようにふるまうように、わたしは雪彦くんに対して女王様のようにふるまった。雪彦くんに友達が出来そうになったら、全力で邪魔をして、勉強も徹底体に邪魔をして、雪彦くんが褒められそうになったら、とことん彼の評価を下げるよう悪口を言いまくった。

 わたしは何も知らない子供だったんだと言い訳する。

 過去は消せない。現実は過去の残骸で出来ていて、ある日、思わぬ形で自分の行いが返ってくる。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 わたしが中学の頃だった。
 部活帰りの夜の時間。居間で珍しく母が父に食って掛かり、父が表情を曇らせてこうべを垂れている。キーキー金切り声を上げる母の言葉、その断片から、いとこの犯罪を知ったわけだが、バレた顛末にわたしは心臓が止まる程の衝撃を覚えた。

『いい? 悪いことをしたら、けーさつに行って、じしゅするんだよ! わたしはなにもワルイコトしていないから、じしゅしてつかまるのはゆきくんなんだからね!』

 なにも知らない幼いわたしが言った、身勝手で無慈悲な言葉。
 テレビで聞きかじった生半可な知識を振りかざして、わたしは悪くないと訴えている。
 駄菓子屋での万引きがバレそうになったことで、なにがなんでも全部彼に罪を着せようとした。それがいいと、幼いわたしは本気で考えていたのだ。

「まったくバカじゃないの! バレないように山に埋めたのなら、なんでわざわざ自首なんてするのよ!!!」
 
 母はそう言って、頭を掻きむしった。

 赤ん坊を埋めた雪彦くんが、独断で警察に自首したという経緯を聞いて、わたしは耳を塞いでその場にしゃがみ込みたくなった。

 全身が震えて息苦しくなり、心臓がばくばく音を立てて、わたしを責め立てるのだ。

 ずっとずっと忘れていた言葉が、長い時間を経て断罪のナイフのようにわたしに突き付ける。わたしという卑劣な人間について。わたしの罪は家族を飲み込んだ。

 なにも知らない。それは多分、幸福なんだと思うけど、秘密を抱く人間に対しては生きた心地がしない。

 雪彦くんが捕まった時、真っ先に考えたのは、彼がなにかのキッカケでわたしの名前をしゃべること、わたしの過去の罪が明るみになることだった。
 赤ん坊殺しを指示した年上のいとこに関して、雪彦くんが赤ん坊を殺したことに関して、遺体を山に捨てたことについて、そんなことは、わたしにとって些細なことだった。
 最低かもしれないが、今でもそう思っている。

 小学校にあがってから、万引きなんてしなくなったが、時折商品に手がのびそうになって怖くなり、なんでも命令できる雪彦くんがいなくてほっとした。雪彦くんの家が、また離婚してまた再婚したことで、別の小学校に通うことになったからだ。顔を合わせるのはせいぜい、親戚の集まり程度で、いつも彼は一人で遠くからわたしたちを眺めているだけだった。

 あぁ。なんで、眺めているだけで終わらなかったのだろう。どうして、彼の兄も普通にしてくれなかったのだろう。

 幼稚園の時だったとはいえ、万引きをしたことがバレたら、わたしは父に殺される。母に遠慮なく暴力を振るう姿は鬼そのものであり、暴力の矛先が自分に向くことを、中学のわたしはただただ恐怖した。

 殺された赤ん坊の父親――年上のいとこは、叔父が16歳の時、アルバイト先の女性に手を出して産んだ子らしい。あのいとこは、わたしはあまり好きじゃない。ううん、叔父さんたちの子供は雪彦くんを含めてみんな好きじゃない。統制が取れていない、同じ人間に見えないサル以下のけだものたちだ。

 自首した雪彦くんは、未成年であることが考慮されて、自首したその後、警察病院に送られて刑務所に入ることなく、父の一番下弟叔父の家に行くことになった。自称芸術家で、実際はなにをやっているのか分からない、怪しい男だ。雪彦くん叔父一家は離散した。

 中学のわたしは余波に備えた。いとこが赤ん坊を殺した世間的衝撃が、我が家に直撃することを、怯えながら期待していた。もしかしたら、大人になるよりも早く、ノストラダムスの大予言が実現するよりも早く、暴君の父から解放されるかもしれない、母が離婚するかもしれない、なにかが変わるかもしれない、そんな希望。

 だけど、そんな日は来なかった。父はわたしが思っているよりも役者が一枚上手で、母も女優であり狡猾だった。被害者・加害者が結局身内だったことも大きかったのかもしれない。それになにより、同時期に起こった神戸の連続殺人よりもインパクトに欠ける。両親の現状維持にかける異常な情熱のおかげなのか、わたしの現実は常に一定の緊張が保たれたままだった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「いいか、絶対に成人式に出席しろ。絶対にだ!」
「はい」

 わたしはなにも感じない。わたしはなにも知らない。わたしはなにも信じない。

 雪彦くんからメールが来る前の、目下のわたしの悩みは成人式だった。人の口に戸は立てられない。世間的にいとこの起こした事件は埋もれてしまったが、学校や町ではいとこが赤ん坊を殺したことが、オヒレ、背ビレ、尾びれと、真偽の定かでもないエピソードが付与されて、クラスメイトたちは、嬉々としてわたしの反応を伺い、適当に情報を引き出して優越感に浸ろうとしていた。

 わたしはなにも感じない。わたしはなにも知らない。わたしはなにも信じない。

 イジメなんて陰湿なことはしなかったし、わたしも結局、演技がうまくて外面の良い両親の血を引いていたおかげなのか、部活の先輩と教師たちという大勢の目上を味方につけたおかげで難を逃れた。

 わたしはなにも感じない。わたしはなにも知らない。わたしはなにも信じない。

 人の噂も七十五日。人間の好奇心には賞味期限がある。彼らの興味が神戸の連続殺人からノストラダムスに移り変わるのを観察して、わたしはある種、人間というものに失望した。そして、一つの真理を掴んだ。感情には賞味期限がある。友情も恨みも、そして罪も。賞味期限を延ばす方法は、簡単だ、その時の感情を大切にすればいい。毎日大切にすればする分、その感情が強く輝きを帯びる――もしくは一気に劣化して風化する。

 わたしはなにも感じない。わたしはなにも知らない。わたしはなにも信じない。

 だから、過去が目の前に飛び出した時、驚いて狼狽するのだ。まるでゾンビのように起き上がって、その時感じた感情を蘇らせるのだから。

 わたしは高校を卒業と同時に、県外の企業に就職した。このまま家族の縁が切れれば、どんなに楽だっただろう。
 正月に実家へ帰った時、父はわたしに成人式に出席することを厳命した。その時、絶縁すればよかったと心底後悔した。

 成人式に出席する同級生たちは、とっくに雪彦くんの凶行に興味を失せている。が、その興味がなにかを拍子で再燃するのかわからない。ただただ、ムダにしんどい思いをするだけの成人式に出席する意味がわからない。

 だが、世間体を気にする父にとってはそうではない。わたしは雪彦くんと同い年、雪彦くんの家族は失敗だったけど、自分の家は失敗ではないという世間的証明を、わたしがまともに育ったという目に見える成果を父は欲しがった。

 そこへ、いとこから突然メールが来たのだ。
 あぁ、困った、と。わたしは頭を抱えるしかない。

 誰にも相談することができず、わたしはメールの文面に視線を落とす。

『突然かもしれませんが、成人式の日に会えませんか?』

 あれ? もしかしてこれは、堂々と欠席できるチャンスでは?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 まるで氷が解けるかのように、わたしの思考が溶けだした。

 そうだ、雪彦くんのせいにすればいい。
 それが幼い頃のいつものわたしだった。わたしの心はいつの間にか、幼い頃のわたしの心にすり替わり、まるで悩んでいたことがバカみたいに思えてくる。

 わたしは一応会うことにした。簡単なあいさつ、待ち合わせ場所と時間を次々と指定して、彼が全面的にわたしに従う様子に安心した。
 彼に殺されても別に良かった。むしろ殺してほしいなと考えている部分もあった。わたしのせいじゃない形で、無責任に誰かに死の責任を肩代わりして欲しかった。

 家族という他人、友達という他人、同僚という他人、常に他人から与えられる苦痛と恐怖を終わらせてくれるのなら、なんでもよかった。

 そして、成人式当日。
 わたしは彼と再会した。
 落ち合った場所は地元ではなく、東京の新宿にあるホテルのラウンジだ。ここまでくれば、誰の目も気にする必要はない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

数時間後。

 がっかりした。
 彼は普通の人間になってしまった。
 瞳に感情の揺らぎがあり、運転技術が得意だという長所を見つけ、なにより大切にしたい友達を見つけたのだと彼は語り、わたしに感謝した。

 わたしの想像通り、警察に自首した理由はわたしの過去の発言だったからであり、桜ちゃんには悪いけど、自首したおかげで新しい道が開けたという言葉が、ガツンと鈍く、深く、鋭く、わたしの頭を殴打した。

 わたしは何を期待していたんだろう。

 途方に暮れて、ラウンジを仰ぎ見る。地元では味わえない洗練された内装にオシャレなティーカップ、つやつやとしたテーブル。雪彦くんもスーツでわたしもスーツ姿、大人になったいとこと大人になれなかったわたし。

「……それでね、もうオレはなにをしようと、自首しないって決めたんだ。それを君に伝えたくて会いたかったんだ」
「ふうーん、いいんじゃないの? バレなければ罪にならないもの。あ、わたしの携帯番号って誰に聞いたの?」
「おじさんが教えてくれた」
「いや、それだとわたしの父も入るから」
「あ、そうだった。オレを引き取った芸術家の叔父さんだよ。身内に犯罪者がこれ以上出ないように、親戚全員に連絡網が回ってくるんだ。携帯の番号が変わった時もすぐ親戚全体に回るらしいよ」
「……へぇ」

 わたしは吐きそうになった。排斥しながらもそこそこのつながりを持とうとする、なにがなんでも日常を維持しようとする親戚の執念に全身の血が凍りつきそうだった。

「そうなんだ……なんだか不快だわ」

 雪彦くんも、雪彦くんにわたしの番号を教えた叔父も、地獄に落ちろと心の中で呪詛を吐く。
 芸術家気取りの叔父ももしかしたら、わたしと雪彦くんを会わせることで、なにかが変わるんじゃないかと期待していたのかもしれないけど……知るもんかっ!

 この時のわたしは湧き上がる感情を持て余して、いとこの言葉を深く考えていなかった。
 なにをしようと、自首しない――つまり、罪を犯すことを。

 数十年後、意識不明の重体となったいとこが、連続殺人事件の重要参考人だと知って、わたしはまた自分の罪と過去に頭を抱えるのだ。

 わたしはなにも感じない。わたしはなにも知らない。わたしはなにも信じない。

――だから、わたしは救われない。

【つづく】

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