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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_79_30代編 09

 この子はダメだ。

「ねぇ、僕たち別れよう! そうしようっ! 一億出すから、お願い! 僕と別れて! 出来れば君の方から僕を振ったことにして!」
「はぁっ。ちょっとなに言っているのよ」
「一億じゃ不満? 十億がいい? がんばって百億あげるよ。だから、お願いだから、もう消えてっ! 僕をきれいな被害者にしてよ」

 これ以上、僕のメッキをはがさないでくれ。この安らかな暗闇から引きずり出さないでくれ。

「ふっ……なに、きれいな被害者って」

 ドアの向こう側で、鼻の抜けるようなせせら笑いが聞こえた。

「君がきれいな被害者ってことは、私は汚い加害者ってこと? 俊雄くんは真っ白で純粋で無垢で、処女雪のようにキレイで聖なる被害者でありたいわけ? だとしたら、私は邪悪な汚物じゃない」
「仕方ないじゃない。僕はキレイでいたいんだ! キレイじゃないとダメなんだっ! 君だって知っているだろう! 汚くて醜い存在は常に日常的に排除されて、僕たちが使う日用品に至るまでキレイであることは浸透している」

 人間が何気なく選んでいる、一つ一つが世界を作っている。

「選ぶ、選ばれない、選ばれなかった、存在すら許されなかった、それらの積み重ねが、大きなうねりとなって作り上げられる不幸なんだ。そうだ。世界の形は不幸の形そのものなんだ。僕たちは結局、出会うべきでも生まれてくるべきでもなかった。だから」
「……俊雄君。君、壮大な話をしているようで、実はものすごくくだらない上に、つまらないことを言ってるよ」
「……え?」
「それ以前に、話が飛躍しすぎているじゃない。私は君が心配でここにいる。けれど、君はそれが不満で別れ話を切り出した。しかも、私が君を振っったことにして欲しいって泣きついてきた。私達の間に、現実的に発生したのはその程度の出来事なんだよ。とても世俗的でつまらない、ありふれた日常。そんな大げさに世界を論じるに値しない出来事なのよ」
「大げさなんかじゃない。僕は本当のこと君に教えてあげているだけだ」

 僕の声は震えていた。惨めさと情けなさと、言葉に出来ない感情が体中に渦を巻いて、こめかみの辺りが脈打つのを感じた。

「そうかしら? 私にはそう聞こえないし、君はとても姑息で卑怯なことをしているように見えるわ。人生の損よ。キレイとか聖なるとか考えないで、自分は結局その程度の存在なんだって開き直っちゃえば、ものすごく楽になるわ」
「――っ!!!」

 カウンセラー気取りの真由の言葉に、瞬間的に怒りで頭に血が上り、僕はドアを思いっきり叩いた。鈍く重い音が部屋全体に響き渡り、衝撃で蝶番が軋む音を立てる。

「出て行ってよ!  もう来ないで!  顔も見たくないっ!  君なんて嫌いだっ!!!」
「うん、それで?」

 真由の落ち着き払った声に、さらに感情が昂っていく。全身の血が沸騰して、毛穴という毛穴から湯気が噴き出しそうな感覚に襲われる。

「キモイ、キモイ、キモイ、凄惨ブスが調子に乗るんじねぇよっ! 君みたいなヤツ、生まれてこなければよかったんだっ!!! 生きる価値のない、クズ以下のゴミがっ!!! 今、ここで死んじまえぇっ!!!」
「……けど、それって完全なブーメランなんだよね」
「それがなんだよっ!!! 僕はずっとずっと頑張ってきたんだ!!! バカで自己中な連中ばかりで、誰も僕たちを助けてくれなかった。君には僕たちの絶望なんて分からないよっ!!!」
「ふーん、【僕たち】、【僕たち】ねぇ」
「そうだよっ! 僕たちは心無い大人のせいで、ずっと辛い思いをしてきたんだっ!!! 僕たちは被害者だ!!!」
「……うん。君はそうやって、早瀬君たちに君が背負うはずだった重荷を分散させていったんだね。罪悪感の植え付けってヤツかしら?」
「まだ言うのかっ! この偽善者がっ!  君は結局、僕のことを自分勝手に解釈して見下しているだけさ! 本当にいい加減にしろよっ!  僕をイジメて楽しいか!?」
「……あはっ」

 真由が、僕の言葉を遮るように乾いた笑い声をたてた。
 鼓膜をひっかくような耳障りな笑い声だ。

「な、何がおかしいんだ!」
「ううん、ごめんなさい。いつもの君とは違う、なりふり構わない言動がなんだか面白くてね。なるほど、これが君の素なんだ」

 暗闇の向こうで、ドアの向こうで、真由は笑っていた。嘲笑しているくせに、耳障りで醜い音なのに、聞いている僕の中で反響する声は光の粒のように跳ねている。

 混乱する。優しい石鹸の匂いと、僕を見下して嘲る感情、けれども光を感じさせる感覚。様々なものが混然一体となって形作っている多面性。

「いいじゃない。私は好きだわ、そういう君」

 カウンセリングルームで泣いていた君が、君の全てじゃなかった。僕の前で従順だったのも、僕を疲弊させた部分も、全体の数パーセントかにすぎなかった。

 僕をはっきりと、好きだという君の声から揺るぎないものを感じて、体中の熱が冷めていく。水を吐き出しきったスポンジのように、全身から力が抜けて、その場にへたり込む。

 そして、理解した。僕は彼女に捕まったのだと。彼女に自分の内面を暴かれた挙句に、暴力的な優しさに包まれている。天使になって肉紐の触手で繋がるのではなく、感情をぶつけ合って、荒々しくお互いの存在を受け入れて、お互いを確かめ合う。

「ねぇ、真由。本当に、僕のこと、好き?」

 もうダメだった。取り繕うことも、嘘で塗り固めることも、騙すことも、葛西 真由の前では意味のないことだった。
 匂いで感情が読める――それだけで、その人間を分かった気になっていて、じつは僕はなにも分かっていなかったんだ。

 友達の気持ちも、家族の気持ちも、彼女の気持ちも、僕の気持ちも。

「うん、大好きだよ。そう簡単に、別れてなんかあげないんだから」

 だから、その言葉を聞いたとき、涙が溢れ出した。僕の汚い部分を見せても尚、受け止めて前に進んでくれる君が。君の汚い部分を知っているはずなのに、嬉しくて、切なくて、胸が張り裂けそうなくらい痛くて苦しかったけど、今までで一番心地よく感じた。

「……ありがとう、真由」

 僕は扉を開けると、どこか勝ち誇った顔で真由は立っていた。照明の光の中で、凛と立つ白い花。僕は衝動的に細い体を抱きしめて、彼女の顔をじっと見る。 眼、眉の形、唇、鼻、輪郭、額……その一つ一つを愛撫するように眺めて、その一つ一つにキスをする。

「まったく、君って極端だよね」

 クスクスと笑う彼女の口を、自分の唇でふさいだ時、僕たちは深く強く繋がった気がした。胸の中から湯水のごとく溢れてくる感情は、透き通っていて、それでどこか懐かしい香りがした。

 僕はもう一度、今度はゆっくりと唇を重ねる。
 強く抱きしめて、身体をぴったりとくっつけて、彼女の体温と鼓動を感じて、初めて息を吸ったかのように安心する。

 助かった。

 唇を離して、若干の気だるさを覚えながら、そんなことを考えた。 葛西 真由がいれば、彼女が傍にいてくれるのなら、僕は本当に僕が望む僕になれるのかもしれない。 復讐をあきらめたわけじゃないけど、今はただ、そう思ったんだ。

 だけど――。

 ザッ……。ザッ……。ザッ……。

 唐突に頭の中でノイズが走り、回想が終わる。暗闇に場所が変わり、醜くて幼い僕が葛西 真由の手を取って、大人になった僕たちを睥睨して唇を震わせる。

「ねぇ、その幸せを守れなかった【本当の】原因はなに? なんで、僕が葛西 真由を殺さないといけないの?」

 やめろ。

 幼いがゆえに、無知であるがために、純粋な疑問として問いかける。大人の僕の顔は悲痛に染まり、それでもなお口を開くのだ。

「僕が殺したんだ」

 思い出したくもない記憶の奔流。
 まるで洪水のように押し寄せてくる数多。それに呑み込まれていくような感覚に襲われる。

「僕が殺したんだ」「初めて殺した人だった」「僕がプロポーズしたクリスマスの日だった」「彼女を家に招きプロポーズの了承を」「年始にはお互いの家族をオシャレなお店によんで、お互いを紹介しようと話し合っていた」「だけど」「ワインで後ろから」「子供が出来たって言ったから」「豚と狆くしゃの子供の組み合わせ」「生きているだけで地獄が確定」「彼女が嬉しそうなのが許せなかった」「なにもかもがムダになった」「殺して死体を解体しようとした」「大川くんが来て、解体するのを手伝ってくれた」「解体して、そして」

 大人の僕たちは、殺した時の惨状を代わる代わる語る。心情と真実を交えて、自分の血と彼女の血が混ざりあった存在が誕生する嫌悪感を思い出す。

――え、あれ?

「わたしを選んでくれてありがとう」

 脳裡によみがえる最愛の声。

 指にかんじたへし折れた首の感触。涎を垂らしてぽかりと開いた口からは、夜よりも暗い闇が広がっていた。

「ねぇ、思い出して。本当のことを。記憶じゃなくて、実際に起きた【記録】の方をっ!!!」

 記憶と矛盾した感覚。どこまでが悪夢でどこまでが現実だった?
 正気と狂気と願いと妄想と、はっきり感じた殺意と縋るような救済。
 泣きたくて腹が立って憎らしくて、愛おしかった。
 真由を受け入れたあの瞬間を思い出して、暗闇に覆われた部分があらわになり美しい女性の死体が現れる。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「真由! なんで自分を傷つけるんだ」

 僕は乱暴に彼女の手から剃刀を叩き落とし、それから強く抱きしめた。頭の中では、はやく手当てをしなければと気持ちが焦り、彼女の頭を撫でる手がちょっと乱暴になる。

「どうしよう、どうしよう」

 僕の腕の中で、彼女は泣いていた。カウンセリングルームの時よりも取り乱し、狼狽し、泣きじゃくりながら謝罪の言葉を口にしていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「大丈夫だ。落ち着いて、深呼吸をして」
「それ、どころじゃないっ! 妊娠した、妊娠しちゃったのっ! あなたの子を!」
「え?」

 ならどうしてそんなに取り乱すの?
 自分から命を絶つほどに。

「女の子だったらどうしよう。きっと生まれてきたことを後悔するわ」
「そんなことない! 僕が守るから」

 そう言っても、彼女は首を横に振るばかり。むずがる子供のようにイヤイヤと身をよじる真由。彼女の手首から赤い血が流れている。

「男の子か女の子か、確率は半分だけど。半分でも私は耐えられない」

 耐えられない、耐えられないと、僕の腕の中で彼女はうわごとのように繰り返す。確かにこの世界は男性優位の社会だ。整形してから思い知った。
 僕を女の子と勘違いをして、意味もなく罵声を浴びせ、暴力を振るわれることが何度もあった。痴漢に遭ったときは報復した。
 僕がこうしてこの姿で平気でいられるのは、女性だと勘違いされてもやり返す力があるから。つまり、僕が男社会の上位に位置しているからに過ぎない。そして多くの男性は、平穏な日常が自分の性差によってもたらされていることに気づいていないヤツラが多い。

『俊雄が男の子に生まれて、本当によかった。本当に……』

 すすり泣く真由の声にまぎれて、記憶の奥底から母の声が聞こえてくる。 実感のこもった母の声は震えていた。赤ん坊の僕の顔をそっと撫でる手は冷たく、頬をなぞる長い指は僕の首あたりを移動し、踊るようになぞっている。

 僕を殺そうとする母と真由の姿が重なり、彼女の中で根付いた命が、哀れで不憫で仕方がなかった。

――そう、だから僕は。

【つづく】

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