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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_48_大学生編 02

 いつもそうだった。幸せを感じられて、それが続けばいいのにと思った時、必ず誰かがその幸せを壊そうとする。

 なにも知らない誰かが、なにも知らない知り合いが、なにも知らない第三者が、なにも知らない大人たちが、その人にとって大切な尊い時間をぶち壊すんだ。

 僕の知らない間に、そして僕の周りの世界で、僕も誰かの加害者で、僕たちは僕たちの幸せを壊し合って、傷つけあって、苦しみ合って、悲しみ合って、諦めて、折り合いをつけて、歯を食いしばって生きている。

 他人の不幸が蜜の味なのは、神様の供物であると同時に、そんな苦痛に満ちた世界を生きるための鎮痛剤のかわりになるからだ。

 こんな世界――壊れてしまえばいい。

 まるでマンガのラスボスみたいな気持ちを引きずって、独りよがりな感情を振りかざして、幸せを何度も壊され続けた僕は、僕によって幸せを壊された他者と傷つけあって、癒せない傷から大量の血の雨を降らせる。

 誰の目にも見えない、真っ赤な血の雨。いっぱい、大量に、地表を覆うレベルで赤い血の海が出来たら、みんなみんなわかりやすく傷ついてる光景を目にすれば、世界はとても静かに穏やかに、本当の意味で平和になれるんじゃないのかな。

 幸せにはなれないけど、傷つけあう不毛な連鎖を断ち切るのは、平等で圧倒的な不幸が必要なんだ。

「俊雄君は私達が思っているより、真面目なんだね」

 ある日のことだ。10回目の【醜い杉藤 俊雄の狂ったダンスショー】を終えて、老紳士が僕に声をかけた。その時の僕は、自前のメイクをクレンジングで丁寧に落として、柔らかくてキメの細かいタオルで顔を拭き、乳液で肌の保湿をしている所だった。

 その場所も老紳士の洋館の中だ。ちゃんと許可を得てショーの後には風呂に入って、顔のケアにつとめていた。

 こんな醜い顔だけど、この顔は僕の顔だから。

「ちょっと、話をしよう」

 魅力的で上品な笑顔を浮かべた後藤は、僕を一階のリビングに招き入れて、彼自身の手から茶を淹れて受け取った。茶器はマイセンのブルーオニオンで、白磁に青い花が咲いている。淹れた茶は匂いから察するに、Fortnum & Masonフォートナム・アンド・メイソンのロイヤルブレンドだ。

 葉山が僕にイギリス文学の知識を刷り込むとき、よく紅茶系の匂いを使っていたことを思い出す。

 ロイヤルブレンドで刷り込んだ知識は、トーマス・スターンズ・エリオットの【荒地あれち】だ。

「……これ、メイソンのロイヤルブレンドですか?」

「ほう、見ただけでわかるのかい」

「はい。お世話になった人が、いろいろな紅茶を僕に飲ませてくれました。その人はメイソンが好きだったみたいです」

 そして、僕に様々な苦痛と知識を授けてくれました。

「あぁ、なんて良い趣味だ。やはり紅茶はメイソンに限ると思わないかい?」

 感激したように声を弾ませた老紳士に、僕は「メイソンが好きだったみたいです」と根拠のない浅い嘘をついた己を恥じた。

「えぇ、わかります」

 反射的に同意をするのは、申し訳なさと嘘を見破られたくないから。

 

 すいません、わからないです。

 そう言える性格だったら、僕は幼稚園から生きていくことに苦労していない。

 マスクをとって澄んだ琥珀の液体に口をつけると、味覚と味覚が伝わるよりも早く、頭の中で花畑のように与えられた知識が広がっていく。

 春の雨と土の香り、咲き始めたライラックの花、春の残酷さを嘆き、冬を惜しむ訴え。

 病んだ妻と銀行の仕事をしながら、文学活動していたエリオットはなにを思いこの詩を書いたのだろうか。

 訳:

4月は最も残酷な月であり、繁殖します

死んだ土地からのライラック、混合

記憶と欲望、かき混ぜる

春の雨で鈍い根。

冬は私たちを暖かく保ち、

忘れられた雪の中の地球、餌やり

乾燥した塊茎のある小さな生活

(引用サイト:TSエリオットによる荒地のプロジェクトグーテンベルク電子ブックより:https://www.gutenberg.org/files/1321/1321-h/1321-h.htmより)

 そういえば、僕の祖父は霊園のプレートにシェイクスピアの詩を刻んでいたな。父は祖父の趣味だと言っていたけど、祖父はシェイクスピアが好きなのか、それともイギリス文学が好きなのか、はたしてどっちなんだろう。

 まぁ、どうでもいいけど。

「君を見ていると、いろいろなことを思い出すよ。いざという時に、肝を据えて覚悟を決める所は、君のおじいさんそっくりだ」

 ちょうど祖父のことを考えていたから、後藤の言葉にびっくりしてしまった。

「……祖父のこと、知っているんですか?」

「あぁ、彼が今の集まりを主催した発案者なんだ。杉藤の当主となるからには、醜い顔で多くの人々に対応しないといけないだろう。度胸にアドリブ、そして工夫して継続する努力。それらを推し量るには即興の舞台が最適というわけさ。君は次期当主として見事に認められたというわけだよ」

 老紳士の言葉に僕は混乱してしまう。

 初日から発散されていた、突き刺す悪意の匂いから読み取ることができなかった真意。素直に喜んでいいのか分からず、どこか途方に暮れた気分になって、自然と視線が下に向く。立ち上る湯気と紅茶の琥珀色を眺めていると、少し気持ちのざわつきが収まった。

「父は僕と同じことをしたのですか?」

「いや。急に貴子さんが死んでしまったからね。私達の中では、あくまで彼は当主ではなくつなぎ――代理扱いさ。試練を受けるに値しない。とはいえ、貴子さんはぎりぎり合格で、初日からみなを満足させて合格点を叩きだした人間は、おじいさん以来、君が初めてだ」

「…………そう、ですか」

 聞いているうちに、心臓の奥がギュッとなって口の中がカラカラ乾いた。

 後藤の発する磯臭い匂いが、僕の中に過去の映像を浮かび上がらせる。

 裸の女性がうずくまり、すすり泣いている闇の中。

 取り囲む人間が罵声を浴びせ、ヤジを飛ばし、大声で脅す光景。

 

『いや……もう、イヤ。誰か、助けて、エリコ……』

 あぁ、分かった。分かってしまった。

 顔が見えないけど、記憶の中の彼女は杉藤 貴子だ。

 僕や五代くんが知っている絶対者とは程遠い、か弱くて幼気いたいけな姿。

 助けを求める声は誰にも届かず、誰にも受け入れられず、かといってなにもかも捨てて逃げるには、周囲の人間を不快にする醜い杉藤顔が邪魔になる。

 彼女には選択肢なんて始めからない。

 覚悟を決めて受け入れることしか、前へ進むことがかなわない。

 だからこそ、杉藤家の当主になる試練とはいえ、彼女は大勢の人間に徹底的に傷つけられて尊厳を破壊されてしまった。

 園生くんや方々ほうぼうから、魔女と恐れられた彼女の奇行と攻撃的な性格は、もしかしたら後藤たちのショー、祖父が始めた当主としての試練が発端となっているのかもしれない。

「君といるとね。とても懐かしい気分になれるんだよ。君のおじいさんはお芝居が大好きでね。それで、率直に聞きたいんだ」

 後藤の声と共に、匂いの質が変わる。

 磯臭さと重油を混ぜた匂いから高貴な紅茶ロイヤルブレンドの匂いにすり替わり、包帯を顔に巻いた男と楽しく打ち合わせをする若い頃の後藤の姿が見えた。

 脚本らしき冊子に赤ペンを走らせる包帯男の声は弾み、後藤は文字の羅列を指でなぞって各所の演技について意見を出す。二人の間で通じ合っている温かの光景は、先ほど見えた杉藤 貴子の光景とは違い、温もりと光で溢れていた。

「…………」

 僕は混乱した。後藤という、老紳士の人間像に。

 祖父との思い出を大切にしている一方で、祖父の娘である貴子に無体をいて、父については辛らつに切り捨てた。

 これはなんの前振りなんだろうか。もしかしたら、この光景もだれかが見ているのではないか。そんな落ち着かない気持ちになって、そわそわとイスに座らずに腰を浮かせる僕に、老紳士は苦笑を浮かべる。

「そんなに警戒しなくても良いよ。この屋敷にいるのは、いま、君と私だけだ」

「はぁ」

 とはいえ、こびりついた疑念を自分で器用に払拭することはできない。

「君は今、自分がやっているショーについて、どう思っているのかな?」

 僕は一呼吸を置く。

 もしかしたら罠かもしれないけど、僕に失うものなんて最初からない。

 僕が大切だと思う友人たちも、いつか、僕から離れていく。

 よくも悪くも、人間は不変に対応していないから。

「……正直に言うと楽しいです。こんなに楽しいと感じたことは生まれて初めてかもしれません」

 だから、この瞬間を大切にしたい。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 少し落ち着いた僕は老紳士の問いに素直に答えた。

【楽しい】と。

 口にだして言葉にすると、お腹の辺りがぽかぽかと温かくなって、体中に厚い濁流が激しくうねるのを感じた。怒りとは違う、充足感をともなう感覚は、あまりなじみがないのに、とても懐かしいような、そんなカンジ。

 無条件に抱きしめられた時、早瀬くんが教えてくれたぬくもりに近い気がする。

 僕の言葉に微かな驚きと嘆息をもらした老紳士は、すうっと目を細めて、自分の茶を静かに飲み干した。

 マイセンの青い花が僕の前に置かれる。丸い花芯が目のように僕をのぞき込んで、僕の真意を探っている。

「私はね。実際に驚いているよ。そして、後悔しているんだ。君のおじいさんが死んでから、この舞台は悪趣味な鑑賞回になり、杉藤顔の人間を見世物にして大勢の人間にさらして笑いものにしてきた。そう、君に対しても。最初は、君が恥じらいつつも嫌悪感で壊れていく過程を、みなで楽しもうと思っていたんだけど、君はこの鑑賞会を君のおじいさんが望んでいた舞台ショーにしてしまった。アイドルのダンスや振り付けをマネしていたり、メイクを工夫したり、照明とか自分の見せ方を研究したり、みなも目が肥えているからこそ君の努力が痛いレベルで伝わってきて、本当の意味で君の純粋なファンになっていったんだ」

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「本当に本当に、済まなかった」

 老紳士はテーブルに座ったままとはいえ、テーブルに手をついて頭を下げた。父に紹介された社会的地位の高い人間が、ここまで頭を下げることに、僕の方が驚いてしまう。

「そ、そんな。頭を上げてください。僕は楽しかったんですから」

 だって僕の方だって、老紳士側の思惑を匂いで真っ先に見抜いていた。見抜いていたから、期待なんてしていなかったからこそ、僕は用意された舞台で海で泳ぐ魚のように自由に踊り狂えたのかもしれない。

 ある意味これは不幸だ。期待をしたら裏切られて傷つけられるのに、期待していない方角から、ねぎらいや謝罪を言葉を受けてしまうと、理不尽な気持ちに、どうしようもない感情に駆られてしまう。

 どうして、いつも僕の気持ちは一方通行なんだろう。お互いが期待し合って、赤くて甘い苺のような果実を結ぶように、努力が報われていけばそれがとてもベストだというのに。

「いいや。私達は君を見誤っていた。杉藤貴子のように、泣き崩れて壊れることなく、君はひたむきな気持ちで、舞台を盛り上げてくれた。だから、お詫びとお礼を言いたいんだ」

 あぁ、なんで貴方がそれを言うんだろう。

 どうして認めて欲しい人間が僕を無視して、どうでも良いと感じている人間の方が、僕を評価するんだろう。

 少年漫画だったら、僕は老紳士の言葉に感動して、光があふれる演出と共に目を星のように輝かせて、雄々しく自分を奮い立たせるところなのだろう。それが出来ないから、僕はいつも報われることなく、妬んで、僻んで、身近な人間に攻撃的になる。

 ぽかぽかした気持ちが一転して、腹から冷たいものがこみあげきて、自嘲じみた黒い気持ちが僕の心をいっぱいにした。

 だけど、後藤はそんな僕に気づくことなく、自分の思うがままに僕を評価し、僕の努力とひたむきさを称え、僕が唯一無二の存在であると訴える。

 後藤を後押しするのは、僕を通じて見た懐かしさ、祖父との日々との感傷にすぎない。だから、熱意を迸らせたとしても、僕の琴線に触れることもなく、伝染することも、伝わることもない。

 白けた気分ながらも、大人な態度を貫ける僕。なんて偉いんだ僕。次のショーのことを考えよう僕。

 これは、なんだ、とても虚しい。

「私は君のファンとしてこれからも応援するよ。舞台ショーも君が気が向いたときにすると言い。そういえば、もうすぐ成人式だったね。もしよければ、成人祝いに私が君の後援になっても構わないよ」

「あ、そんな、ありがとうございます」

 初心で、老紳士の言葉に感動する演技をする僕。老紳士の匂いから、僕の演技を疑うことなく、自分の言葉と行動に酔っている。

 ぼこりと足元に穴が開いて、一気に奈落の底に落ちそうな錯覚があった。

 目の前の現実と自分の中で起きている現実が一致してない。

 埋まらないギャップをどう埋めればいい?

 息苦しさを相手に悟らせないように、笑顔で取り繕ってお茶を飲むと、相手にとってそれは現実となる。

 僕はいつだって、相手の現実を作って疲弊している。なんで、僕だけ相手の世界を作って、相手は、周囲は、山中崎は、僕の現実を作ってくれない。

 幼い頃から繰り返してきた問い。

 幼稚園児の頃のように胃を痛めつけることはしなくなったけど、いつも苦いものを飲み下してきた感覚があった。

 穴が開く。

 真っ暗な穴が僕をまるごと落とすようにぽっかりと。

「ちょっとびっくりしましたけど、いろいろ納得できました。次の舞台ショーを楽しみにしてくれませんか? ずっと温めていた物語があるんです。ですが、僕一人だと無理なので、友達を誘っても良いですか」

「うん、そうかっ、そうか」

 感激した風の後藤から「いいなぁ、青春だな」という声が聞こえた気がした。

 僕は気づかない演技をして、後藤にとって都合の良い人間に成り下がる。

「えぇ、楽しみにしてください」

 偽の現実で心の穴を埋めて、零れ落ちないようにする。

 何度も補修をくりかえして、僕は他人の現実を生きている。

 だけど、それがうまく自分の中でかちりと一致した時、それはとても幸せな瞬間になるんだ。

 なにもない無明の暗闇で、みなと一緒にまどろむ夢も。

 みんなで掃除をして、車座になって乾杯をする一瞬も。

 知らない女性を助けた父へのあこがれも。

 だから、この幸せは本物だ。

 大人になった僕が胸を張って答えられる、僕に残った唯一の本物だ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 数日後。

 僕は友達を巻き込んで、老紳士の屋敷でショーを始めたいと言った。

 だいたい30分。ぶっつけ本番。セリフなんてない茶番。

 学生寮の僕の部屋で、簡単な台本を渡した時、みんな顔をしかめてしまった。物部くんでさえ、僕の正気を疑うようないぶかし気な視線をむけてくるから、僕は自信満々に答える。

「大丈夫、大丈夫。それにうまく行ったら、七桁の報酬がもらえるよ。これはいざという時の逃亡資金にも、自分を守る武器にもなる」

 だから、やろうよ。

 きっとうまくいくから。

 これは僕目当ての客たちがこぼしていく匂いから、点と点を拾い上げた結果の裏付け。彼らは日常に飽きている、非日常に飢えて、知的好奇心が旺盛で、自分たちの快楽を追及するほどの有り余る富を持っている。

 だから僕は、彼らの琴線に触れることが出来た。

「なぁ、劇中にアドリブを入れてもいいか?」

 意外にもノリノリな五代くんは、貧血気味な端正な顔に、面白がるような冷たい笑みを浮かべている。白衣を無造作に羽織って、疲れたように体を引きずる動作に、かなり多忙だということが伺えた。

 彼はとてもうんざりしている。そして、自分の中に燻ぶる強い感情を持て余して、ぶつけたいと切実に望んでいるのだ。

 僕の舞台は彼にとって、絶好のタイミングだった。

「うん、いいよ」

 僕は五代くんの気持を読み取って了承する。滅茶苦茶になっても良いんだ。それが、このショーの醍醐味なんだから。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 人生が舞台だったらどんなに良かっただろう。

 ドライアイスで即席のスモークを焚いて、ノーパソの音量を最大限にして、著作権なんて配慮しない(まだ、著作権が緩かったしね)ハイテンションの有名BGMをかけまくる。

 舞台で立ち回る三対三。登場人物三人、黒衣くろごが三人。場面が転換するたびに、登場人物は黒いシャツを着た黒衣に変わり、黒衣は白いシャツを着て登場人物になり変わる。

 場面は廃屋、布の人形を死体に見立てて、三人の少年たちが慌てふためている。そう、あの廃墟で起こった殺人事件をモチーフにした舞台だ。

 底がくっついてない和風便器を黒衣が持ち上げて、登場人物は輪をくぐらせるように布人形を便器へ落としたように表現する。

 ひゅーぼとん。

 ドドドドドドドドド。

 間抜けた音と工場音のBGMをミックスにして、布人形がおぞましい奈落の底に落ちていくことを物語り、二人目の黒衣が布人形を抱きとめて、三人目の黒衣が青いビニールシートを敷いた場所に布人形を着地させる。

 三人の黒衣たちは、布人形にかき氷の苺シロップで作った血と、ひき肉と、チョコレートシロップをドボドボかける。

 一方で和式便器を置いた場所を境目に、登場人物たちは廃墟の庭からたくさんのオレンジをもいで、その場で皮をむき、果実をほじくり返して、廃墟の床をオレンジの皮や汁で掃除をする。

 だがおかしい。殺人現場は血で汚れていないのだ。和式便器の向こう側で、黒衣たちが布人形をここぞとばかりに汚しているのに、殺人犯たち決定的な部分が綺麗になっていないことに気づかず、キレイな現実を取り戻そうとあがいている。現実が逆転している滑稽さ、すべてをつまびらかに知覚できない人間の狭い視野。

 不協和音のBGMに切り替わり、柑橘系の香りと、肉の匂いと、苺シロップと、チョコの匂いが絡み合って、ドライアイスが再び焚かれて舞台が暗転。

 登場人物が黒衣に逆転し、今までオレンジの残骸で掃除をしていた人物と、布人形を汚していた人物が逆転する。ブルーシートをひっくり返して、赤い水と茶色と肉とで汚れていく現実。横たわる布人形。便器の向こう側ではオレンジの残骸たちにまみれて、黒衣たちがなにもない空間を清めようとしている。

 BGMが止み。静寂。

 和風便器を挟んだ同時進行の二つの現実。

 スポットライトが二つの現実を、パッパッと音をたてながら、つけたり消したりしても、黒後たちは動きを止めることはない。

「あぁ、神様、神様、助けてください。この現実はいつも地獄なのです」

 ここは僕のセリフだ。マスクをしていない、黒衣でもシャツも着てない上半身裸の姿になって、敬虔な信者のように指を汲んで祈りをあげる。

 ぱっとライトがついて終幕。

 現実舞台に残されたのは、頭に血を流して倒れている杉藤俊雄の死体だった。

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ……。

 力強い拍手に、死体だった僕は立ち上がって一礼して見せた。

 熱気と甘い臭気に少し吐きそうになり、笑顔を浮かべる一方で客が帰った後の、このシアタールームの掃除に頭を悩ませた。五代くんがたくさんのひき肉を買ってきたことで、演出に生々しさが加わったのは良いけど、チョコレートと苺シロップで混ざり合い、想像以上にぐちゃぐちゃとなったものだから気が重くなる。まるで本当に排せつ物みたいだ。

 素人集団のグラン・ギニョール。元々、僕の顔を目当てにした見世物めいたショーを、僕は観客たちがもとめた観劇へと昇華させようとした。本当はもっとグロテスクに残酷に無残に表現したかったんだけど、大学生のやることだから少し多めに見て欲しい。と思うのは素人の甘さ故だろう。

「あぁっ、すばらしい。すばらしい」

 歓声をうけて、僕たちは手を繋いでカーテンコール。

 老紳士からは、その後、掃除には業者を入れると言われてほっとする。

 ここで僕は油断した。

 舞台はここで終わっていなかった。

「あの時はごめんね。改めて、友達になってくれるかな?」

 だって、現実はいつだって僕を苦しめるための茶番だったじゃないか。

 僕に訪れるのは冬でも春でもなく、肉塊のように蠢く醜悪な黒い過去だけだ。

【つづく】

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