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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_38_高校生編 04

 明日から本格的な教習がはじまる。それまでは交流会という名の自由行動となっていた。パンフレットにはそう書いてあったけど、なんだかここまで監督する人間の視線がないと放置されているような気持になる。

 これじゃあ、大川くんが不審がるのも分かる気がした。

 寄宿舎一階のカフェで、僕たちは配られた教科書を広げて予習している。標識の名前とか意味とか初めて知った。こういう機会じゃなければ、知らないままだった可能性がある。

「そういえば、ここら辺、クマでるんか?」

 動物が飛ぶ出す標識のページで早瀬くんが尋ねる。

「うん、出るよ。秋あたりとか、山に近い地域は人がよく襲われてた」

 答える園生くんは、少し苦笑していった。彼の言葉が過去形なのは、山中崎から離れて生活していたから、今の状況がどうなっているのか分からないからだろう。

 外は雨が降っているおかげか、クーラーが無くても室内が涼しくて少し肌寒い。

「あと、猪や鹿もいたし。うちに出入りしていた造園業者の人、よく道路に飛び出す動物を轢き殺してたって言ってたな」

 そんな余計な事聞いてないんだけど。

 なんだろう。だんだんだんだん、僕の中で園生くんの言葉が、神経に触るようになった。これは、とても悪い変化だとじぶんでも分かっている。

 園生くんといるのがしんどい、イヤダ。だけど、そんな言葉を僕の口からいうわけにはいかない。

 園生 緑の180cm以上の高い背が、目で見るよりも大きく見える。縦に伸びて、まるで夕暮れ時の影みたいな存在。黒めがちな大きな瞳の奥には、得体の知れない感情が蠢いて見えるのは、僕が彼に対して怯えと恐怖の感情が混在しているからだ。

 お互いが利害で繋がっているからこそ、油断できない関係。園生くんは、次第に不穏さを増して僕の進路に黒々とした影を落としている。

 あぁ、それだけじゃない。僕は嫉妬しているのだ。

 日本人とフィリピン人の《《イイトコドリ》》の顔立ち――潤んだ黒目がちの双眸とか、繊細さを感じさせるオリエンタルな顔の造作とか、黒い髪に少し癖がつきはじめたところとか、葉山を連想させる言葉遣い(自分の正当性を疑わない部分とか特に)。それに、夏のせいで日焼けした肌がよく似合っているのが、なんだかいろいろか悔しい。両親の国籍も含めて生まれとか、自分じゃどうこうできないもん。

「……あの。園生さん、聞きたいことがあるんですが」

 控えめに、物部くんが手を上げる。園生くんはびっくりした顔をして、物部くんに言った。

「君がなにかに疑問を生じるほどの、思考能力ががあるなんて思わなかったよ」

 かなり失礼なことを言っているが、物部くんは気にしない風に言葉をつづけた。

「実際、動物をバイクで轢いたら、どうすればいいんですか?」

「物部、教本の次のページを見ろ。動物を轢いた場合は、国土交通省に電話をかければいいんだ」

「あの、そういう意味じゃなくて」

 五代くんの言葉に、物部くんは自分の言葉がうまく伝わっていないことがわかって、少し眉を寄せた。

 僕は少し意識を集中して、物部くんの身体に漂っている匂いをさぐる。彼の匂い、甘いミルクの薫気の中にただよう、あいまいで形にならない、漂っているモノ。それを掬い上げるイメージを頭に浮かべて、絹の布を撫でるように優しく触れると、彼が言おうとすることがよく分かった。

「うーん。もしかして教科書じゃなくて、園生くんに実際どうしたのか聞きたかったの?」

「あ、はい。そうです」

 ほっとした表情を浮かべる物部くんは、尊敬する眼差しを僕にむける。最近は特にそう。物部くんは口下手だから、僕が匂いで物部くんが言いたいことを分析して助け舟を出してあげるんだ。すると、物部くんはとてもスゴイものを見るように僕を見る。

 彼の無垢な眼差しは、幼稚園の時に大川くんと戦隊ヒーローの話をしていたことを思い出させた。僕がキャラのセリフや、第何話かを言い当てた時の、大川くんの顔。

……大川くん、そろそろ帰ってくるころだと思うんだけど。

「ぼくの知る限りだと、リスや猫みたいな小さな動物じゃない限りバイクで山の動物は轢き殺せないね。猪だったら最悪だよ。向こうさんケガしているから、殺す気マンマンで反撃してくる。それと、よほどのことがない限り、轢き殺した死体は放置していいんだよ。自分がやったって、証拠はないんだから」

 自分の知りうる知識を総動員して、園生くんは物部くんの疑問に答えた。思い出しながらしゃべっているから、言葉の節々の歯切れが悪くて、少し困ったような顔を作る。なんだか、その顔があざとすぎて、胃の辺りがムカムカする。

「そうですか、そうですよね。ありがとうございます」

 園生くんの回答に納得できた物部くんは、丁寧に感謝を述べると、教科書の余白に【放置、ムシ】と書く。おそらく、彼の中では国土交通省じゃなくて、身近な人々の回答が真実なのだろう。僕は、物部くんがバイクでうっかり園生くんを轢き殺して、普通にそのまま通り過ぎていく光景を想像してしまった。ありえそうで困る。

 物部くんは、高校に入ってもたいして変わらない。背が少し伸びた程度で、変化した部分は僕に対して信頼を寄せるようになったところだろうか。

「うっす、待たせたなー」

 と、ようやく大川くんが戻ってきた。

 余計なムシを一匹連れて。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「あの、こんにちは。朋子がお世話になりました」

 と、頭を下げるのはアムラーもどきの朋子の友人だ。まぁ、朋子じゃないだけマシなんだろうけど、なんでわざわざここに来たのさ。

「すいません。えっと、あなたは杉藤さん、ですよね?」

 僕の方に視線を向けて、怯えた表情の彼女はなにかを言おうとして、血色の悪い唇をもごもごさせている。つんと鼻の奥に感じたのは、タンポポの香りで、続いて緑深い山中で採れる山菜のような、柔らかくて少しクセのある臭いがした。

 悪い人間じゃなさそうだけど、何かを知っていて、僕になにかを伝えようとしている様子だ。

 僕はとりあえず警戒を解くことにした。

「そうだけど、どうして僕が杉藤だってわかったのかな? 顔でわかっちゃった」

 彼女の緊張がほぐれるように、少しおどけた感じに言うと、朋子の友人は安堵しつつも、もうしけわなさそうな顔をする。

 やめてよ、僕の方がみじめになるじゃない。

「はい、そうです。どうしても、こんなことが起こっちゃったから、教えた方がいいかと思って」

――こんなこと?

 もったいぶった言い回しだと思ったけど、彼女は僕に対して敵意よりも同情心が強いのが匂いで分かった。

「まず、山中崎のコミュニティBBSに杉藤 和樹すぎとう かずきの長男が友達を連れて、ここの合宿に来るって数日前に書き込みがありました。そこから先は、察していただけると助かるのですが、杉藤さんはなるべく一人にならないようにしてください。もしくは、合宿を辞めて帰った方がいいです」

「え?」

 多分、ここが、大きな分岐点だった。

 僕じゃなくて、大川くんの方の。

「それでは」

 彼女は一礼すると、逃げるようにその場を後にした。

 取り残された僕たちは、お互いに顔を見合わせて、次に朋子の友人が去った方向に視線を向ける。

「なんかきな臭いことが、裏で起きてるみたいやな」

 早瀬くんがメガネの位置を直して、垂れ目の瞳を半眼にした。

「あー、ダメだ。アンテナが一本も立ってない」

 園生くんはポケットから携帯電話を取り出して、がっかりとした声を出す。顔が若干青ざめているのは気のせいだろうか。携帯が使えないことを、なんでそこまで彼が絶望しているのか分からない。携帯なんて、少し前まで存在なんてしなかったじゃない。

「大川。お前、なにか聞いていないのか?」

 五代くんは席についた大川くんに、ややきつめの口調で尋ねる。表情が険しく、端正な顔には警戒心が滲んでいた。僕は五代くんが大川くんを疑っていることに驚いて、大川くんの方は気にした風もなく、首を横に振って、ちょっと困ったような顔をする。

「あー……、わかんね。一応聞こうとしたんだけど、なんかはぐらかされちまったし、それに深く聞いちまったら、朋子たちに危険が及ぶだろうし」

「……へぇ。私たちが危険にさらされているのに、彼女たちの方を心配をするんだ」

 五代くんの棘のある言葉に、大川くんはびっくりした顔をする。そして、なんの失敗をしたのか分からない子供のような顔になり、縋るような視線を僕に向けてきた。僕ならなんとかしてくれる、そんな期待を込めた眼差し。いつもなら嬉しいはずなのに、大川くんの視線に、首を絞められたような息苦しさを覚えてしまう。

「五代くん、そんな言い方、ないと思うよ」

 僕はなんとか今の気持ちを言語化すると、胸の中の息苦しさがどんどん大きくなっていく。五代くんの眉間にしわが寄る動きに、胃の辺りが跳ねるようにひくついた。

 そんなつもりはないのに、五代くんの機嫌を損ねてしまったら、どうしよう……。

「あ、オレ、頭が悪いからよくわからないけど、相手が殴ってきた時に殴り返せばいいんじゃないですか? 相手が本当に殴ってくるか、分からない状況なんでしょう?」

 物部くん!

「おぉ。ええこというな、物部。せや! その時は倍に返せばええねん」

 早瀬くんがわざと大きな声をだして、大げさに騒いでみせるのが、とてもありがたかった。

 それでも納得しかねる五代くんは、僕たちから顔を背けて教本に視線を落とす。

「殺されたら、報復もなにもできないよ」

 吐き捨てた言葉は、僕たちから言葉を奪った。外の雨が勢いを増して、窓を叩き始めて、雨音が僕たちを責め立てているように聞こえてくる。

「……」

 僕は途方に暮れてしまった。他のメンバーも同様に、口を閉ざして、ギクシャクとした重たい空気に耐える。楽しい合宿になるはずだったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 大人の僕は「あぁ」と呻いてしまった。

 あの日のあの時――後輩二人を拷問して廃人に追い込んだ時の苛烈さを発揮していれば、早いうちに平和的(僕たちにとって)に解決できた。

 大川くんはこの時点で、拷問したり早瀬くんと放火したりと罪を重ねて、人の脆さに気付いていまったから、朋子たちを追い詰められなかったのかもしれない。

 五代くんもこの時点でなにもしなかった。

 いや、僕たちは、本当になにもしなかった。出来なかった。

 自分たちの状況が悪い方向に転がっていることを肌で感じながら、僕たちは奈落のその先へ転がり落ちていった。

 誰も僕たちを助けてくれない。

 大人たちは、いつも楽する方へ、己の保身へ走っていった。

 マンガやドラマのように、かっこよく責任を取る大人なんていなかった。

 僕たちを助けてくれる、大人らしい大人なんていなかった。

 みんなみんな、■■のせいだ……っ!

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ねぇ、教えて。高校生だった僕たちになにができたの?

「うわっ! この部屋、やっぱ狭い! 詐欺だ!」

「へー、いいじゃん。ある意味、良い思い出になりそうだよね」

「お前のそういう所、ホントイヤ!」

 僕は、余計なことをいちいち言う園生くんにヘッドロックをかけて、横で物部くんが「いーち、にー」とカウントをとる。身長差がある分、園生くんの首に僕の体重がかかってかなり苦しそうだ。五代くんは呆れて、早瀬くんはゲラゲラ笑う。大川くんは助けた女の子と始終デレデレと合宿はそんな調子で進んでいた。

 教習所から寄宿舎を往復する送迎バスは、翌日、普通に僕たちの前に現われた。みんながみんな、キツネにつままれたような顔をして、教習所の人間の方は初日になんでバスを出さなかったのか、苦しい言い訳をする。

 なんでも僕たちが合宿に来た初日に、所有している全ての送迎バスのタイヤがパンクしていることがわかり、タイヤの交換と警察との対応で、僕たちへの対応がおざなりになってしまったらしい。

 大川くんが「おかしい」と言っていたのは本当だった。

 だけど、だとしたら別の問題が浮上する。

 誰が、タイヤをパンクさせて、どうして、こんなことをしたのか。

『杉藤さんはなるべく一人にならないようにしてください。もしくは、合宿を辞めて帰った方がいいです』

「……」

 朋子の友人の言葉に、頭をふって記憶から削除しようとした。

 僕は考えたくなかったんだ。思い当たる原因として、父のせいでこんなことになったって。

 山中崎の駅前開発は、僕たちが住んでいる隣県のB市でも噂になった。駅は複合施設の入った駅ビルになり、バスターミナルも新しくなって学生や社会人には概ね人気だと聞いている。

 だけど、周辺の商店街は悲惨そのものだ。すべてが一新一掃いっしんいっそうされて、山中崎市の市庁舎と総合病院、他に老人ホームと市立の保育所が、巨大な立体駐車場が、商店街のあった場所にまるまる新設された。ちなみに、病院は五代病院の系列であり、医院長はもちろん五代くんの父親だ。

 当初は商店街の住民たちと、友好的に交渉が行われていたらしいし、父も立ち退く住民の為に転居や資金に関してかなり細かく気を使っていたらしい。だけど、最終段階で立退料をさらに貰おうと商店街側が揉め始めた。

 揉めた原因は商店街サイドの世代交代だと聞いている。杉藤家に服従していた古老の世代から、近代的な常識により杉藤家に疑問を持ち、旧世代に抑圧されてい来た人間が現役に代替わりしたことで、ため込んできた不満が立ち退きという引き金で爆発した……らしい。

……「らしい」や「とか」というのは、すべて噂で聞いただけの情報だけだから。実際はどうなのかわからないけど、面白おかしく、そして悲惨さを強調させて噂が流れているから、最悪の事態に発展したことが想像できた。

 山中崎で神聖視されていた杉藤家が、こんなにも悪評をばらまかれて、人々のヘイトを集めている。崇める時は崇めて、自分たちに利益をもたらさない存在だと分かれば寄ってたかって悪者扱い。 

 僕が覚えているのは、杉藤家に依存している覇気のない住民。錆びたシャッターで閉ざされている商店。停滞した空気。空が晴れているのに、そこだけ曇り空のような、そんな空間。小学生の僕でも、ゴーストタウン一歩手前に見えた商店街。

 当事者たちには悪いけど、有効的に現状を変える努力をすることもしないで、僕の父に自分たちの不満と責任を擦り付けて、噂に尾鰭をつけて悪評をばらまく。

 なんて救いようのない連中だ。

 あぁ、いやだいやだ。

 しかも僕たちがここで合宿に来ていることを、多くの人間が知っていて、何かを企んで何かを仕掛けようとしている。

 僕が父の子供で、弱くて、自分たちの鬱憤を存分に晴らせるから。

 そんな奴らのせいで、僕らの合宿が邪魔されるのか?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 数日後。

 学科の試験に合格すると、一気に自由時間が暇になった。

 あとは実技第一と実技第二の行程を経て、仮免と最終試験で僕たちの合宿は終了する。

 実技第一はバイクの特徴を掴んで、エンジンのかけ方から、倒れたバイクの起こし方、発進停車といった基礎中の基礎が中心だ。

 大川くんは合宿前に実家でみっちり練習してきたらしい。僕たちよりも早く、実技第一の既定の研修時間と合格ラインを軽々と超えた。五代くんも呑み込みが早く、園生くんも継ぐ稼業があるから熱心に挑んでいる。

 対して、早瀬くんと物部くんがてこずっているのが意外だった。早瀬くんは確認作業がせっかちで、物部くんはバイクを起こすのに四苦八苦。

 教官にどやされて周囲に冷やかされているけど、みんなの表情は明るい。

 僕はよくもわるくも平均だ。合宿前の視力検査で、僕の特殊な瞳が対象外になると思いきや、杉藤家という理由で免除されていたせいで、僕についている教官は、研修中に僕が事故ると気を揉んでいたらしい。

 拍子抜けだった。ホッとしたと言われて、僕は同情してしまった。

 僕だって、自分の瞳孔が二つに割れるなんて思わなかった。視力に問題があるんじゃないかと、大人たちが心配になるのは当たり前であり、僕の体が僕の意思とは関係なく現実離れしていく変化に、どうしようもない不安とうす気味悪さを抱く。

 だけど、同時にその不安を解消する方法を、この合宿で知ったんだ。

 ただシンプルに、前向きに、自分の為にがんばること。それだけなんだ。こんなにも充実した気分になるなんてしらなかったし、滑らかに走り出すバイクを操縦した時、自分の努力と現実がリンクしたような実感が全身の細胞を喜びで振動させた。

 学校の授業とは違う、現実に活かせる知識と技術を身につけるって、なんだからご飯を食べている時みたいな喜びと充足感がある。早く、バイクの免許を取りたい。みんなでなにもない道を疾走出来たら、とても楽しいだろうとワクワクする。

 体を動かすと、山の寒さが気にならなくなった。

 相変わらず曇り空の日が多かったけど、僕たちの体の中に太陽が生まれたみたいで、力がみなぎって常にぽかぽかと体が熱い。流れる汗が気持ち良くて、自然に顔が笑顔になる。

 しかも、今のこの気持ちを友達と分かち合えるんだ。

 最高じゃない!

 教習が平和だったせいで、僕たちは迫る危機に関心が薄くなった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 朋子とデレデレで、そこらへんをふらふらとデートする大川くん。僕はなんとか二人を引き離そうと、ストーカー宜しく二人の後をついていく行動に、さすがに五代くんたちからストップがかかった。

 僕がやっていることは、とても褒められたことじゃない、不健全なことらしい。そっと見守ってやるべきだと彼らは言う。

 彼らは知らないからいうんだ。僕の感じた朋子の匂いや、嫌悪感をうまく説明できなことがとても悔しかった。

 ずっと、ずっと一緒だったのに、バカ女一人のせいで、幼稚園から積み重ねてきた友情が、すべて台無しになるなんて嫌だった。

「直人く~ん」

「と~もこ」

 教習が終わると、嫌なことがいっぱいだった。嫌なことに心がまみれて、頭の中が埋め尽くされて大声で叫びたくなった。バイクに乗って駆けまわりたくなった。

 化粧セットが欲しい。ツインルームだから持ってこなかったのが悔やまれる。醜い自分の顔を、鮮やかな色で誤魔化して、汚濁にまみれた自分の心すらも誤魔化す作業を、くじ引きで同室になった五代くんに知られたくなかった。いや、五代くんだけじゃなくて、誰にも知られたくなかった。

 美しいものに関する憧れと切望を、醜い僕が抱いていることが、恐れ知らずで、間違っていることのように思えたから。

 美しいものは幻想を抱かせる。汚い現実を忘れられる力があるから、美しいモノは時代ごとに基準が変わろうとも、いつの世でもっとも尊ばれるのだ。そして、醜いものは全力で否定されて駆逐される。存在する価値がないというばかりに、悪者にされ、生まれてくることすらも否定される。美しい価値観を支えているのが、醜いモノだという土台を忘れて、バカな奴らは分かりやすいシンボルを叩くんだ。いつも、いつも、いつも……っ!

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 初日で教官が言っていた廃墟は、自由時間の時にすぐ見つけられた。

 僕と大川くんを引き離すために、寄宿舎から適当に川のあたりを歩こうという話になった時、緑の隙間から建物の壁が見えて、興味を覚えた僕たちはそのまま廃墟を見つけてしまった。

 僕はてっきり、長奈村の療養所みたいなホテルを想像していたんだけど、見つけた廃墟は、大きな門扉に和風の意匠が凝らされて、むき出しのコンクリート壁で覆われた建物全体からは、お香の匂いが漂っていた。近づいてみると、大鐘が取り付けられた尖塔が見えて、壁に取り付けられた意味ありげなシンボルから、なんだか宗教施設みたいな趣がある。

「あ、ここ、知っているかも」

 と、口を開いたのは園生くんだ。本当に君、ムダに良くしゃべるよね。

「ほら。小学校の時、僕が言ったこと杉藤君なら覚えているでしょう? 六月になると山開きになって、修験者たちが山へ修行に来る話」

「……あぁ。そういえば」

 僕の人間離れした記憶力は、園生くんの言葉をきっかけに過去のデータを引っぱりだす。小学五年の山に遭難したあの日。確かに君はそんなことを言ったね。

『えっとね、杉藤家が修験者しゅげんしゃだって話は、ここらへんで有名でしょ。だから、ここら辺の山には、とてもすごい力があるってことで、六月になるとお坊さんとかが修行にくるんだ。それで、山のゴミを拾ってくれたり、川でおぼれた人を助けてくれたり、遭難した人を探してくれたり、とにかくいろいろやってくれているんだ』

 だけど、修験者たちは、オウムが起こした事件をきっかけに、山に立ち入ることを禁止された。

 そのせいで、川の事故や山の遭難が増えて、マナーの悪い人間が捨てるごみが、山の動物の生活を脅かして問題になっているらしい。

『あー、なるほど。この時期に配達で見かける、白い着物のオッサンたちって修行してたんだ』

『……緑の言う通りだとするなら、拠点にしている寺とか施設が山にあるのかもな』

「つまりこの施設は、修験者とか山籠もりとかする人たちのための施設ってわけ?」

 僕が訊くと園生くんが頷く。

「そう。……、お坊さんのホテルだよ。あとから知ったんだけど、山中崎の山には宿坊が三か所あって、そのうちの一つがオウムの事件が起きる以前に、閉鎖されたって話だけど。多分、そこ」

 うわ。ガチの心霊スポットじゃん。

「なんや、いわくつきかい。んで、なんの事件でも起きたんか?」

「確か、集団自殺だよ。1999年に最終戦争ハルマゲドンが起こるから、それに備えて魂を開放させるとか、なんとか……」

 早瀬くんの問いに園生くんが答えるが、多分、あまり興味がなかった話題だったのだろう。ちょっと解説が疑問形になっている。

「今は1999年の8月じゃん」

「ノストラさんも罪深いね。貴子さんを見習えよ」

 僕と五代くんが呆れて、隣にいる物部くんはボーと空を眺めていた。彼の視線の先にはタテスジアゲハがひらひら飛んでいるという、なんとも平和な光景である。うらやましい。

「にしても、ハルマゲドンねぇ」

 早瀬くんはため息交じりに苦笑する。やるせないような、くやしいようなそんな気持ち。それが痛いほどよくわかる。

 1999年の7月に世界が終わると、本当に信じていたわけではない。だけど、終わって欲しいと痛切に感じた時もあったり、もしかしたら、なんかが変わるかと期待していた部分もあったり、僕たちはいろいろな想いをノストラダムスの大予言に託していたことは確かだ。

 大人になると、その当時のマスコミに踊らされていたのだと、己の未熟さを顧りみるも、1999年の8月を迎えた時のあの虚無感――日常が死ぬまで続くという重たい実感に、声を上げて逃げ出したくなったあの時。

 ある意味、世界は終わった。

 僕たちが期待していた世界は滅んで、うんざりする救いのない現実が目の前にバカみたいに広がって、バカな僕たちを嘲笑っているんだ。

「それにしても危ないなぁ。入ってくださいって言っているようなもんじゃない」

 初日に教官が注意喚起した意味をようやく理解した。

 思ったよりも近い上に、心霊スポット。しかも門が半開きで誰でも出入りできるような状態だ。柵とかフェンスとか、なにもない。完全に放置されてこの場にある状態に好奇心が少し疼く。

「なんや、楽しそうやな」

 うきうきとした早瀬くんの声に、僕の意識は現実に切り替わった。ふわふわとした好奇心が霧散して、嗅覚が廃墟からなにか焦げた匂いを拾ってくる。友達が不用意に、危ない場所に行こうとしたからこその条件反射的な警鐘だった。

 花火の匂いかな? けど、なんか焦げたような生臭いような。

 該当する匂いを、頭の中で砂金を掬うようにさらうが、たしかな手ごたえがない。

 これは……タンパク質?

 生き物を焼いた匂い?

 近くに川があるから、魚を釣って廃墟で焼いて食べる?

 いや、《《初めて》》嗅ぐ匂いだ。

『君の記憶領域を完ぺきにするために、オレは手間を惜しまないよ』

 そう言って笑う、葉山の顔を思い出して全身が鳥肌を立てる。

 葉山は僕に様々な香りを嗅がせて、僕の脳みそに匂いの記憶を刻み込ませた。アイツの人間性には欠陥レベルの問題はあったけど、研究者としての探求と好奇心は別格で、僕に向けられた常軌を逸した情熱は本物だとそれなりの信頼を寄せている。そんな《《葉山が用意できなかった匂い》》……それは。

 僕は浮かんだ想像に、少し困ってしまった。

 ホームレスが住み着いて、焚火をしているのかもしれないし、もしかしたら、夏休みの浮かれた気持ちで僕たちみたいな人間が花火や肝試し目的で出入りしているのかもしれない。……ともかく、この廃墟に入らないほうがいい気がする。

 怖いのは幽霊じゃない。

 生きた人間なのだから。

「早瀬くん、入らないほうがいいかもしれない。なんか、イヤな匂いがする」

「ホンマか? とっしーの鼻がそういうなら、そうなんやろな」

「ぼくも、なんだかココいやだ。帰りたい」

「物部、帰るぞ」

「…………あ、はい」

 入らないことを選択したことが良かったのか、悪かったのか、大人になった今でも分からない。

 だって、翌日にこの廃墟から死体が発見されたのだから。

 しかも、その死体は、僕に忠告をしてくれた朋子の友人だった。

 僕があの時嗅いだ、葉山が用意できなかった匂い――《《死体を燃やしている匂い》》なんて、葬式の経験がない僕には知るはずがなかった。

【つづく】

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