【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_80_30代編 10
世界が歪む。
「杉藤君」
「俊雄君」
二人の女が暗闇の向こうから僕の名を呼んでいる。
一人は悲しげに、もう一人は嘲るように。
幾重にも何重にも塗り重ねてきた、鮮やかな油絵のような嘘の記憶。僕の心を守るために造られた、美しくも醜い世界。
そんな都合の良い現実を許さないのが、杉藤の血が僕に発現させた絶対的な記憶力。
夢は現実に起こったことを整理する場所だから、僕が思い込んで塗り重ねた回想を嘘を見抜いて、都合の良い嘘の世界を突き崩す。
「僕の中にいる君は誰? どうしてこんな、女なのか男なのか気持ち悪いことをしているの?」
幼い僕が真由の手を取って、タイで眠る僕を断罪する。
絶世の美貌を携えた女神の美貌を手に入れた僕は、余裕の笑顔で一番幼い僕に言う。
「愛されたいからに決まっているじゃない。僕は性別を超越した存在になる……いや、なったんだ! 本当は身体の中身、内臓に至るまで宝石のようにキレイにしてほしかったんだけど、……まぁ、仕方がないよね。子供にはわからないよね」
その言葉を聞いて、僕の中の真由が涙を流す。
彼女の表情は絶望に染まり、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。あまりにも醜いモノを見せられて、女神の美貌を曇らせる僕。手を取っている幼い僕は左右の形の違う瞳をぎょろつかせて、食い入るように凝視する。
最も古い過去と、最も新しい未来。
対峙する二人を取り巻く、各年代の語り部たちは固唾をのんで行く末を見守っている。真実か虚偽か、どちらとも判断できない語り手たちにとって、今は静観するしかできない状況だ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
不意に、すっと暗闇に光が差す。
光の先に佇んでいる人間が二人。
年老いた坂白と包帯で顔を覆った痛々しい僕が、なにやら言い争いをしている場面だ。
「だから僕の身体を女性的でいて、なおかつ後姿からでも男性みたいに見えるようにして欲しいんです。お願いします、いくらでもお金を払いますし、便宜もはかりますから」
必死さを滲ませて頭を下げる僕を、悲し気に眺める坂白は首を横に振って拒絶の意思を示した。
「もうこれ以上は、この病院では限界だ」
「クソ――ッ」
僕は激昂して、目の前にある机に拳を叩きつける。大きな音を立てて机の上に置かれたコーヒーカップが揺れて、中に注がれていた黒い液体が波紋を描いた。包帯の巻かれた治療中の手が悲鳴をあげるけど、そんなことは些細なことだった。
「女性と間違えられて暴行されたのには同情するよ。けれど、技術的にも君の身体もすでに限界に達している。君もわかっているだろう? 自分に残された時間を」
「けれどっ! 僕はここで止まるわけにはいかないんです! 僕はっ、僕はぁっ!」
悲鳴のような声を上げた僕は、頭を抱えて蹲る。
僕は、僕は……。
ややあって、坂白の声が聞こえた。
「伝手がないわけじゃない。君が残りの命を賭けるのなら、紹介したい人物がいる。タイという国は知っているだろう」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
光が消えて、二人の姿も消えたことを見守った幼い僕は、醜い顔を険しくさせて、女神の僕を汚い物を見るような眼で見下す。
「そんなに必死になる理由はなに? 男なのか女なのかわからない生き物になるのが君の望み? 超越? 笑わせないでよ、君は結局楽していいとこ取りをしたかっただけだ」
幼い僕の声が、まるで鐘のように暗闇に響いて、各年代の僕たちはパイプ椅子から腰を浮かせた。静かに揺るぎなく、葛西真由に見出した強さと、同等の強さを内に秘めた一番幼い僕は、真っすぐに背筋を伸ばして僕たちに言う。
「みんな思い出して! どこからどこまでが僕の記憶? どこからどこまでが僕の記録? 綻びの中に答えがある! 本当の答えが!!!」
なんでそんなことを言うの? 本当のことを知ったら、いつもロクな目に遭っていないじゃない。僕じゃどうしようもないこともあったじゃない。無力で惨めで、何もできない自分を嫌悪して……。
だったら、本当のことを知らない方が自由で美しくいられるじゃない。
「けど、逃げた結果どうなった? 自分でも、本当はどうしてこんなことになったのか分かっていないんじゃない? ねぇ、いいかげんにして。いつまで被害者ぶるの? 僕は結局、何も守れない無力な変態だよっ!!! それ以上でも、それ以下でもないっ!!! それがどうしようもない事実なんだっ!!!」
僕は知らない。僕は知っていた。
僕のせいじゃない。僕のせいだ。
僕は美しい。僕は醜い。
僕は葛西 真由を愛している。
僕は熊谷 満子を愛していない。
「じゃあ、君が望むなら殺してあげる。僕もすぐに後を追うから。天国で、子供たちと三人で幸せに暮らそう」
細い首に手を伸ばして。
「騙されたな! バカがっ! お前なんかを婚約者にしてやるかよっ!!!」
ワインボトルで脳天を一突き。 天国から一気に地獄へ。
「そう、君は復讐の為に整形した後で熊谷 満子と付き合った。しかも、葛西 真由と付き合ったのと同時期だ。熊谷は君が二股をしていると思い込んで、裏でこそこそ真由に嫌がらせをしていたんだ。だけど、それを知ったのはずっと後のことだった」
やめろ!
無意識のうねりが声を上げる。
幼い僕は醜い顔に強い意志をみなぎらせて、真由の手をしっかり強く握り、自分以外の僕たちに対して決然とした口調で告げる。
それは、まるで、神様のように。
「強くて弱い真由。そんな彼女を追い詰めてしまったのは――」
真由は裏切られたと思ったのだろうか。
真由は僕の愛を信じていたけど、彼女は自分自身が耐えられなかった。
妊娠という肉体の変化が理性にヒビを入れて、自分が人間を生むという現実がおぞましさを伴って神経を摩耗させる。
だから僕は油断してしまった。我慢することになれてしまった人は、痛みを感じないわけではない。
痛みに耐えて絶えて、ついに壊れてしまった真由は、僕が目を離したすきにバスタブで手首を切っていた。睡眠薬を飲んで苦痛とまどろみに顔を蕩けさせた真由。駆けつけた僕に気づいて薄目を開けた彼女は、もごもごと唇を蠢かせて、僕に何かしらを訴えていた。
――助けて。
そんな声が聞こえた瞬間に、僕の手が彼女の首にかかる。
手の甲に青い血管が浮いて、彼女の首が鈍い音を立てて締まる。
苦し気な声を上げて、それでも真由の瞳が訴え続ける。
助けて。助けて。助けて。
その言葉が、何度も、何度も、何度も、繰り返し、繰り返されて、僕は手に力を込める。
僕は君を救いたいんだ。
かっこいい大人になることが、僕の夢だから。
「ねぇ、意識を集中して記憶を視て! 記憶じゃなくて、記録の方だよ! 君が知覚できなかった情報を拾い上げて。真由の【助けて】は本当に死への救済を求めた意味だったの?」
暗闇の奥から目を光らせて幼い僕が声を上げる。
確信を持った表情は、狆くしゃなくせにやけに凛々しく見えて、息を呑むほどの光を放っているように見える。まるで神々しささえ覚えて。
【杉藤顔には神が宿る】――そう、小さな神が降臨した。
人間の矮小なたくらみをものともしない、絶対唯一の存在。
僕が忘れて失ってしまった神性。
神のいない内側にかわりに現れたのは、胃袋の形をした偽りの神だ。不幸の蜜味を喜び貪る異形。常に僕を不幸へ誘導する存在。
僕を取り巻く、僕自身を欺き守ってきた灰色の虚実が、ガラガラと音をたてて崩れていく。
未来の僕たちは次々に顔を凍てつかせた。混乱と同様が波紋のように広がって、彼らはおもいおもいに思い出したことを話し始める。
「そうだ。その日、訪問者がいた」「マンションの廊下でばったり出会った」「カウンセリングを受けていると聞いた」「初耳だった」「テーブルには薬袋が見えたけど、僕はシャワーの音を聞いてそれどころじゃなかった」「真由が自分を傷つけないように、前日に君は刃物類を金庫にまとめて入れたはず」
片付けたハズのカミソリで、どうして、どうやって自分の手首を切った?
――僕が外出している隙に、コンビニや100円ショップで剃刀を購入した?
いいや、そもそもなんで、思いつめて自殺をする人間が、一旦家に戻るんだ?
真由は本当に死を望んでいた。それは匂いが証明してくれる。死を望むようになった真由を放置できなかった僕は……。
あれ?
思い出そうとすればするほど疑問が生まれる。起きた事象の前後に矛盾が生じて、さらに過去の記憶を遡ろうとすればするほど、大きな綻びが僕の飲み込もうと口をあけている。
真由が自殺しようとしたマンションは、僕の家? 真由の家? どっちだった? あの日、なんで僕は出かけていた? 真由が自殺未遂を繰り返していたのに? なんであの日【アイツ】がそこにいた?
「記憶に惑わされないで! これじゃあ【アイツ】の思うつぼだよ! 記録だけをみて、必要最低限でも僕は意味が通じるはず。だって君は僕なのだから」
【僕じゃない僕】が叫ぶ。
僕の中の何かが悲鳴を上げながら暴れ出す。
僕が僕である為に、必要なモノを必死になって取り戻そうとする。
――葛西 真由は僕が殺した。
【助けて】と言われたから。
けれども、その時、彼女自身はどんな匂いを発していた?
「……あぁっ!」
それは痛み。強烈な焼けた匂いの記録。誰かに傷つけられた時に、痛みを思い返した時に、彼女の匂いは石鹸の匂いから焼けた肉の香りになった。自殺未遂をした時でさえシャンプーの匂いが維持されていたのに、僕の心無い振る舞いでも清潔で甘い香りを漂わせていた彼女。
肝心なことを忘却して、都合の良い現実を見ていた僕は完全に葛西 真由の【助けて】の意味を履き違えてしまった。
助けて――は、本当にそのままの意味で。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
耐え切れずに僕たちは絶叫した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
僕は失敗した。
彼女を救おうとしていたつもりで、実際は真逆の行動を取っていた。
薄暗いバスタブの中で真由の死体を抱きしめたまま、薄ら笑いを浮かべて虚空を見つめる僕。シャワーから絶え間なく水が撒き散らされて、僕たちを濡らし、真由の血を洗い流していく。水に濡れた真由の服、スカートの隙間からあふれるアンモニア臭と排せつ物。
僕は心は壊れていても、僕の頭は目の前の惨状を記録していた。
「なぁ、なんか思っていた展開と違わないか?」
「問題ないよ。壊れてしまったのなら、また直せばいい」
ドアの開く音が聞こえて、知っている声が僕の耳に入ってそのまま抜けていく。
バスタブに入った来た人物は……。
「ねぇ、それで。僕の中にいる君は誰? いや、僕たちの方がもしかしたら異物なのかもしれないね。なら……」
思い出に、意味なんか、ないよね?
幼い僕の声が彼方から聞こえて、女神の美貌をもった僕の顔が初めて歪む。余裕が失せた美貌から、冷たくて無機質な空気があふれ出て、人形のように固まり動かなくなる。
本当は、真実は、いつも僕に都合が悪い。
そう、いつも。
後ろの正面に立っていた人物は、二重の瞳から涙を流して泣いていた。
【つづく】
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