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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_73_30代編 03

 五代くんと別れて家路につく僕は、混沌とした頭をなんとか整理しようと試みるも、気を抜いた瞬間に祥子さんの死に顔がちらついて、その場で声を上げたいような走り出したくなるような、いますぐ誰かに縋りつきたくなるような様々な感情の渦に襲われた。

 理性的な解決よりも、感情に任せた報復を望む内なる声が、舞い上がる夜風と一緒に僕を唆しかかって、どこからか聞こえる発情した猫の声と興奮した犬の声が神経を逆立てる。

 はやく、家に帰らないと。

 まるで全世界が僕に向かって囁きかけているような錯覚に陥る。こんな妄想は切って捨てるべきであり、たくさんの人間を殺してきた僕を、僕は許すべきではないし、祥子さんが死んで悲しいと感傷じみた感情を抱くなんて、ものすごく間違っている。殺人鬼は幸せになるべきじゃないし、殺人を正当化しようとする弱さに、僕は僕自身に強い嫌悪を抱いている。

『杉藤。もう難しく考えるな、私達がどう足掻こうと逆らえないものがある。肩の力を抜いて、一度流れに身を任せたらどうだ?』

 別れ際に言った五代くんの言葉を、素直に聞き入れられたら、どんなに楽だっただろう。

 思いがけない祥子さんの死は、立ち直りかけていた僕の心をぽきりと折ってしまった。ようやく見つけた、陽の光が当たる正しい道を、まっすぐに美しく歩ける確信を、真っ向から否定されてしまった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 そう、祥子さんは殺されていい人間ではなかった。少なくとも、僕からみた祥子さんは、こんな形で亡くなっていい人間じゃなかった。
 
 三日前に祥子さんの息子だという人間が、ボランティア仲間に伴われて僕の家にわざわざ訪ねてきて、遺影に使うために「あの日、化粧をした動画のデータを使ってもいいか」と許可を求めてきた。

『わたしの遺影はこの顔がいいわね』

 思い出してしまった祥子さんの言葉。
 まさか本当になってしまったことに、僕は言いようのない悲しみに襲われた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 電灯がつき始めた薄暗い夜道を歩いて、灯に群がり始めた羽虫に群れの中に大きな蛾を見つけた僕は、その蛾を衝動的に叩き落としたくなった。羽根を広げると手のひらぐらいのサイズで、色彩は地味目だけど両翼の真ん中に目玉の模様があって、目玉の周囲には緻密な幾何学模様が描かれている。偽りの光の中で鱗粉をまき散らしながら、飛び回る姿は幻想的で美しくて、ふつふつと僕の中で沸き起こる憎悪を増幅させた。

 ほんのわずかでも、頭上の蛾を美しいと感じてしまい、祥子さんの死を忘れてしまった自分自身が信じられなかった。

 どんなに整形をかさねて美貌を磨こうとも、僕の内面はとても醜くて、言動も感情も、形の定まらない泥のように不定形で、とても人間のものとは思えない代物なのだ。こんな出来損ないの行きつく先が、片田舎の殺人鬼。まったくもって滑稽すぎる。

 まったく、なにやっているんだよ。今年でいくつになった?
 いい歳したアラサーがみっともない。

 もしまともに生きられたのなら、とっくのとうに葛西 真由と結婚して、子供が一人二人いたのだろう。杉藤家の血を引く醜い顔を赤ん坊を僕は慈しみ、真由も赤ん坊の美醜を問うことなく、無償の愛で我が子を育てていたのかもしれない。

 暖かい光の中で、お父さんと呼ばれる僕は満面の笑みを浮かべて、我が子の成長に目を細める自分。真由の愚痴をきいたり、父さんや母さんや孝雄や和子のことに頭を悩ませながら、確実に着実に自分の中で見つけた幸せの輪郭を撫でながら、ビールを飲んで頬杖をつく。それで、手の甲に伸び始めたヒゲの感触を感じて、若い頃よりも身だしなみに気遣えなくなった自分自身に苦笑するんだ。鏡に映る衰えも皴も、なにもかもが誇らしいものに見えて、みっともない自分の姿を一人の人間として認めている。

――そんな、あり得たかもしれない未来に、胃の辺りが重くなったような気がして、僕は立ち止まってしまった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 僕はどこで間違えた?

 電灯の下に立ち止まり、人工的に白い光の輪の中で足元に伸びる影をじっと見る。天使のように舞いあがる羽虫たちの影が細かな陰影を描いて、周囲の家々から団らんの気配とあたたかな料理の匂いが、ふわふわと外の世界へと漂って来た。

 僕の中に流れ込む、一つ一つの生活。同じものなんてない、可も不可もない営み。晴れ渡った空の下で菜の花畑にいるような、そんな優しい感覚に包まれれて、それぞれの家庭の悲喜ひきが、尊くて、重たくて、中途半端に温めた牛乳みたいに生温かくて吐き気がする。

 靴の中で縮こまっているつま先が冷たくなって、全身から嫌な汗がどっと音を立てて流れ出る不快感。ぐらぐらと自分の立ち位置が定まらず、民家の明かりを両脇に据えた夜道が僕に歩くことを促している。

 そうだ、帰らないと。
 物部くんが帰りを持っている。

 僕は必死で家に帰った後を頭に思い描いた、物部くんの言いそうなことを予想して、ご飯を食べたら県警本部に連絡を入れて、祥子さんの死について言及して、念の為に後藤さんにも連絡して知恵を貸してもらおう。

 わざわざ殺さなくていい。僕は僕の日常を守ればいいんだ。
 だから――。

――ザッ!

 背後から音がしたと同時に、僕の小さな身体は宙を舞った。アスファルトの上に叩きつけられ、痛みと衝撃に一瞬息が出来なくなる。

 視界の端に映るのは、黒いスニーカーとジーンズに包まれた脚だった。

「うっ……!」

 起き上がろうとする僕を、上から踏みつけるようにして男が体重をかける。メリッという鈍い音と一緒に、背骨を雷のような激痛が突き抜けて、一瞬、目の前が真っ白に染まった。

「…………っ!」

 声にならない悲鳴をあげて、僕は両手をばたつかせて抵抗するが、男にはなんの障害にもならなかった。

 なに、なに、なに、なんなのっ!

 僕は突然の暴力に混乱した。痛みで感情よりも先に、両眼から涙と鼻からは鼻水を、口からは血と唾液を垂れ流して、酸素を求めるように頼りない呼吸を繰り返す。

 何でこんな目に遭うのか?

 そんなこと些末な思考だ。世界はありふれた偶然による不幸で溢れているのに、この時の僕は、世界で一番の理不尽が襲い掛かっていると思い込んでしまった。
 
 本来は思考を整えて、この襲撃者に対して反撃を試みなければいけないのに、生まれて初めて直接触れたであろう、凶暴な害意に狼狽して混乱した。

 こいつの目的は何?
 もしかして、殺人鬼か通り魔していた頃の被害者?
 それとも、僕が杉藤俊雄だと知っての怨恨? もしくは強盗?

 タイのホテルで眠る方の僕が、過去の僕を嘲笑う。
 そんな問いは、余裕がある時にするべきであって、今は自分の身を守ることが最優先だというのに。

 ああ、でも、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 僕はただ、日常を守りたかっただけなのに。

 痛みで動けなくない僕の背中に、ジーンズ越しに男の股間が押し付けられて、自分は今、馬のように跨がれている状態だと分かった。

「うっ……、うー、クソッ、うう」

 激情で声を震わせた男は、もぞもぞと僕の上で体勢を変えて、座る角度を何度も変えると、いきなり僕のズボンからポケットを漁った。
 尻の辺りの狭いスペースを無理矢理つっこんで掻きだして、僕の財布と家の鍵を手に入れて、奇声を上げながら高々と戦利品を持ち上げる男。街灯によって道路に描かれた影法師が、僕を襲った男の狂喜乱舞ぶりを祝福するように揺れている。

 物取り目的の強盗かな……。
 暴力は慣れているけど、どこか行き当たりばったりで、衝動的で、無駄が多い。それでいて――。

「いっ」

 僕のムダな分析は、男が乱暴に僕の髪を掴み上げたことで中断した。手に入れた財布とかは、すでに自分のポケットにしまったのか、両手が僕の少し伸びた髪を手綱のように引っ張り上げて、勝利の雄たけびを叫びだした。

 く、くるしいぃ……。

 後ろから髪の毛を引っぱられて、不自然に首が反る。ぎゅっとしまるような息苦しさに全身が悲鳴を上げて、頭の中で意味もない感情が反響し氾濫し、再び僕は男の下で暴れだした。じたばたとゴキブリのように惨めに手足を動かし口では空気を求めて喘ぐ。

「あひゃ、は、ハッ、ムダだ。無駄だ! ムダッぁっはハッ!」

 そんな僕の抵抗を嘲笑う男の声は、やはりというかどこか欠けている印象があった。相手が外国人というわけではなく、発音の仕方や話し方が、なんだか妙におかしいのだ。まるで日本語を覚えたての子供みたいに、単語と単語の間が大きく開いていて、文法的におかしな箇所が多々ある。

 これは一体どういうことだ?

 疑問に思う前に、男が僕の頭を鷲掴みにして、今度は道路の方に力いっぱいに叩きつけようとしている。それがわかって、僕はとっさに自分の顔を庇った。

――グシャリッ!!!

「あ……あぁ」

 わかってる。僕のやっていることは、結局無意味だった。顔で手を覆う防御なんて、卵をティッシュペーパーでくるんだようなものだ。

 容赦なく、アスファルトに打ち付けられる僕の顔。
 顔を覆った指と手の甲が、ばきっと嫌な音をたてる。
 鼻が潰れて勢いよく鼻血が噴き出て、ホワイトニングで真っ白にした歯が何本も折れた。
 視界がチカチカと点滅して真っ赤に染まり、口の中に鉄臭い味が広がる。

 痛い。
 怖い。
 悲しい。
 苦しい。

 痛みで純化されるシンプルな感情。

 あぁ、どうして。

 そこに加わる憤り。

――殺せ!
――壊せ!
――殺せ!
――潰せ!
――殺せ!

 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ……。

 ずっと抑えてきた殺意が決壊し、僕の中の殺人鬼が目を覚ます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 大川くん、ごめんっ!

 謝るのは一瞬、僕はすぐに殺意の衝動に身を任せた。

「うおぉおおおおおっ!!!」

 獣のような雄たけびを上げると、男の腰が少し浮く。そのわずかな隙をついて、僕は大木をなぎ倒すイメージを頭に思い描き、斜めの方向に一気に体を持ち上げた。
 よろける男。自身の体重と優勢を確信していたからこそ、予想外で意識外の力に、方向に、あっさりと腰砕けになって不自然な体勢になる。

 殺す! 殺す! 殺す!

 僕は身を起こして体を反転させると、膝立ち状態の男の両足を、自分の足にひっかけてツタのように絡ませて、尻を勢いよく上に持ち上げる。

「あっ」

 男が驚愕に目を見開き、間抜けな声を出すがもう遅い。
 足をとられてバランスが崩れた男と、下にいる僕の形勢がぐるんと音を立てて逆転する。ここでようやく僕は襲撃犯の顔を見ると、襲撃犯の方もぽかんとした顔で僕を見て言った。

「お、男? 女、じゃない、のか?」

 男の言葉に、自分が襲われたあんまりな理由に、全身が激情で震えるのを感じた。

【つづく】

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