見出し画像

【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_76_30代編 06

 時刻は20時前後。
 はーい、という声とともに、ガラガラとガラスの引き戸が開けられた。声の主が現れる前に、僕の鼻に飛び込んできた匂いは、揚げ物の油の匂いがして胸やけに近い不快感が体中でわだかまる。

 すっと息を吸って一点集中。顔を崩さないように、ぎりぎりのラインを見極めて匂いを分析して細分化して、必要な記憶と情報のみを取得する。

 ガラス戸から現れた中年の女性――名前は、須藤 愛すどう あい。一応、何度も施設で顔を合わせたことがあるんだけど、彼女は僕に気づかないで、老けた丸顔に不機嫌な表情を浮かべて玄関に立っている。

『まったく。こんな時間にだれが荷物を』

 心を読まなくても聞こえてきそうな不満な顔。わだかまる匂いが小さく弾けて、黒く淀んだ感情が僕の心に語り掛けてくる。

 もう、うんざりだ。と。

 介護職は過酷だ。感謝より文句が多く、報酬が少ない上に報われることはない。特に須藤はよく男性の入居者にセクハラじみた嫌がらせを受けることが多かった。

 それは須藤の性格と身の上が関係しているけど割愛しよう。
 彼女は自分の女性な肉体が、自分の足を引っ張っている気がして仕方がなかった。一部の入居者に性的に粘着されて、上司に相談しても結局、我慢することが最善だと思い知らされるだけだった。
 そんな鬱屈がある日、爆発した。
 化粧をした祥子さんに説教されたのがきっかけだった。
 祥子さんは僕が施した化粧に気が大きくなっていたのだろう。
 疲れたようにため息をついて下を向く須藤に、ひと昔前の女の幸せについてありがたくない演説をはじめた。

 あなた結婚しているの?
 子供は? え、じゃあ、恋人はいるの?
 だめよ、女が幸せになるには私みたいに身ぎれいにして、ニコニコ笑っていればいいんだから。

 祥子さんは優越感に浸った顔で、須藤の地雷を踏みまくりながら、自分が今幸せなのは……と、自分の半生を語った。得意顔で自分が殺されることを知らずに、祥子さんは自分の人生がめぐまれている秘訣は、人に愛されることだと、じつに偉そうに語っていた。

 須藤は介護士として、いつものように聞き流すことが出来なかった。
 不幸な身の上でブラックな環境の中、歯を食いしばりながら生活の糧を得ている自分と、高度成長期の流れに乗って恵まれた生活をしていて、年老いても尚、大切に世話をされている祥子。
 キレイに化粧を施されて、来ているパジャマも着心地がよさそうな生地で、今日も栄養を考えられた食事に、毎日水を取り替えられて掃除が行き届いている清潔でキレイなお風呂につかり、談話室でのんびりとテレビを見ながら施設で出来た友達と楽しくおしゃべりをする……。

 分かりやすい対比が、理不尽が、須藤の理性を奪うのは一瞬だった。

 ストレスで気がおかしくなっていた。そんな言い訳をおぼろげに浮かべながら、首を締める……というよりも、手のひら全体で圧迫するような形だ。

 これは須藤のかつての恋人がよくやっていた手段だ。首筋の頸動脈を効率よく圧迫させて気絶に持ち込み、無抵抗な自分を犯し続けた卑劣な手段。
 須藤の方でやるのは初めてだが、年老いた祥子さんには効果がてきめんだった。

「……」

 気絶した祥子さんを見て須藤は溜飲が下がることも、正気に戻ることもなかった。隣のベッドにいる老女は痴呆症が進んでいるため、突然の凶行に理解が及ばず、口を蠢かせて暗く淀んだ瞳で視線を彷徨わせている。

 これでいい。と、彼女の気持ちが固まった。むしろ介護職を辞めて、今後も介護職をやることはない言い訳が出来たことが嬉しかった。

 担当していた老人が、目を離したすきに風呂でおぼれて死んだ。

 なんて全方向が納得してしまう都合がいい話だろう。この施設では入居者の事故死が相次いるから、自分はその流れにそればいいだけなのだ。ちょうど須藤にセクハラしている入居が、よく浴場に乱入することもあることから、その男に復讐できて二度おいしい。お前のせいで死んだんだと、周囲に印象付けること成功すれば、須藤がこの施設から去った後も肩身の狭い思いをする。

 須藤は悦に入り、自分の犯したおかした過ちを最大限利用した。
 人を殺したと言っても、この施設では老人の死なんて日常茶飯事だ。気にする方がおかしいのだ。

 彼女は偏って育てた当たり前を、ナイフのように振りかざしていることに気づかない。その刃が、自分の方に向かっていることにも気づいているのに、手に持った柄が体の一部になって、すでに手遅れの状態になっている。

 須藤は運がよかった。だけど、僕に祥子さんの死に関して、不信を抱かせたのが運の尽きだったと言えるだろう。

 事故死として処理されて、責任を取る形で首尾よく辞めることが出来た彼女は、周囲の同情をうまく買いながら、悲しむふりをしてボロボロな身体を休ませていた。

 現在の彼女の最大の敵は周囲の目。なにせ人間は無責任な上に、人の不幸が大好きなのだ。そして、働かずに、なにもしない人間に対してゴキブリに相対するかの如く厳しい。世間という敵から身を守るには、バカでも分かりやすい理由が必要であり、死に対する責任は絶対的なジョーカー。無用な詮索をしてくる輩たちは、打ちひしがれた演技でころっと騙される。
 須藤は英気を養うために、自立支援の給付金をもらいながら、今日まで細々と生きてきた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 僕は半分目を伏せて、一瞬で脳裡を通り過ぎた須藤の半生に冷笑する。可哀そうにと思いながら、同情するに値しないと心の中で切り捨てる。

 須藤が逃げられないように早瀬くんを裏口に待機させて、大川運送の配達員として、完璧なビジネススマイルを浮かべつつ、荷物のダンボールを差し出す。須藤は疑うことなくガラス戸から半身を出して、受領印のハンコを押そうとして……。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「あ、ちょっと待ってください」

 そう言って、彼女は動きを止めた。用心深く外に出した半身を引っ込めて、盾のように引き戸をしめる。

「どうしましたか」

 突然のことだが、僕は慌てることなく笑顔を固定したまま優しい口調で尋ねた。

「これ、何が入っているんですか?  いいえ、それ以前に誰から来た荷物ですか?」
「……」

 あぁ、なるほど。

 なにせ彼女は不幸な半生を送っている上に、人を殺している。普通の人間以上に、用心深くならざるを得ない状況にいるわけだ。

「差出人ですか? 井波 祥子さんからですが」

 ここはちょっとした僕の復讐心だ。もちろん、伝票にかいてある差出人の名前も井波 祥子で書かれており、本来なら受領印を押す段階で、須藤が祥子さんの名前に気づいて怖気ずく展開を期待していたのだが、こうなっては仕方がない。

 配達員を装った強盗なんて、よく聞く話だ。今までのターゲットが無防備すぎた。山中崎内で強い信頼を得ている大川運送の配達員。佐川やヤマトだったら警戒していたかもしれないけど、自分たちの身近な存在に対しては、警戒心が緩んでしまう。特に、ここの山中崎の住民に関しては言うまでもいない。

 ガラス越しから、息を呑む気配が伝わってきて、警戒心が強くなる匂いがした。

『もしかして、遺族から? どこで住所が漏れたのかしら』

 聞こえてくる心の声が震えて、強い不安と苛立ちが現れている。どうやら、僕が配達員であることを疑っていないようだが、僕の持つダンボールに対して、なんらかの対処をしなければと頭を巡らせているようだ。

「あのー、持ち帰りましょうか?」
「いえ、ちょっと待って!」

 僕が伺うように言うと、慌てて須藤は引き戸を少し開けた。ダンボールが入る程度の隙間を開けて、不安と警戒心を滲ませた顔を見せると、重たげに用心深く口を開く。

「このダンボールだけ外から玄関に入れてちょうだい。受領印はちゃんと押すから安心して」

 僕に感情を悟らせまいと落ち着いていた声音をしていたが、瞳の奥には不安が浮かんでいて、配達員に扮した僕の顔を窺っている。

「分かりました。では、外で待機していますね」
「えぇ、お願いします」

 僕はしゃがんでダンボールを地面に置き、滑らせる形で玄関に入れた。そして外で待ち、曇りガラスの向こう側で須藤が荷物を持ち上げているのを観察した。

 なにせ自分が殺した相手が荷物を送ってきたのだ。彼女は自身の身に起きたホラーじみた展開に対して、理性的に現実的に対応しようとしていた。

 荷物を持ち上げたり、ダンボールの隙間から中身が見えないかのぞき込んだりして、自分の中で安心できて、納得できる理屈を組み合わせていき、やがて首を横に振って荷物を置くと、最後には諦めたように伝票の受領印の欄にサインをする。

『やっぱりイタズラね。何が入っているか分からないけど、あのばあさんの身内なら納得できるわ。まったく、死んだあとも私の足を引っ張って!』

 苛立たしげに引き戸が開けられて、僕に伝票の上紙を取るように促す須藤に、僕はにっこりと微笑んだ。須藤が祥子さんを殺したことに対して、なにかしらの罪悪感を抱いていないことが分かって安心したからだ。

 ボランティアで施したメイクが、祥子さんの死の遠因だった。そのことに関して僕は少なからず罪悪感を抱いていたのに、直接手を下した須藤はなんの痛痒の感じておらず、むしろ現在進行形で自分の足を引っ張っている存在として認知している。

 この差の開きは、どこでついたのかは分からないけど、僕が殺すことに躊躇う理由がなくなった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ここで今更僕は気づいた。人殺しを中断する理由を探している自分。大川くんの約束を守りたい自分。そして、僕同様の人殺しである須藤 愛には、罪悪感があるのか、良心の呵責かしゃくを抱えているのかという疑問。

 僕は未だ信じたいのだ。人間がこの世に存在してもいいと。
 けれども須藤は僕の勝手な期待に対して、最悪な解答を返信した。
 人間は保身の塊で、短絡的で、他者から逃れることができない、脆弱で愚かな存在。生きることは、惨めさと罪に苛まれることなのだ。人が人を殺すことに躊躇いなんて必要ない。

 さぁ。彼女は今、一番無防備な状態だ。
 改造スタンガンを首筋にあてて、このまま拉致監禁すればいい。

 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ……。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 数時間後。

 約一年ぶりの殺しでどっと疲れてしまい、死体解体と処理を物部くんたちに任せて、僕は自宅のベッドで寝込んでいた。

 人が物体に変わる瞬間、こと切れる時の、まるで電池の切れた人形のように動かなくなる刹那、命の灯火が消える感覚が僕の中で僕の存在を濃厚にさせる。

 今回の殺人は今までとは違った。
 僕自身が選別して、僕の独りよがりな意志により引き起こされた殺人だった。

 くだらないの行為なのに、今までの殺人では感じることのない、肉体の根幹を震わせる強いモノがあった。

 魂なんて曖昧な概念じゃない、僕が存在しているという強い実感。
 今までの殺しでは味わうことのなかった清涼感の伴う快感もあった。気怠い心地よさが全身を襲い、もう立つことが出来ず、気づいたら果てている。

 イキルコト。
 コロスコト。

 寿命が尽きるまで殺人を継続する理由が出来た。この快感を味わうために、僕はこれからも人を殺し続けるのだろう。
 何度も、何人も、何十人も、何百人も、何千人も、何万人も、何十万もの人間を殺して、殺し尽くして……僕は大川くんの約束を破り続けながら、殺人鬼として生きていく。

 美しさを追及して、自分の幸せを求めて【杉藤 俊雄】として僕は、【僕たち】は生きていく。

 友達を切り捨ててでも、信頼を裏切ってでも。
 殺して、殺して、殺して……。

【つづく】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?