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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_52_大学生編 06

 握手――というのは、心を通じ合わせる行為だと思っている。
 君のことが知りたい、仲良くなりたい、悪意なんてない。そんな数多の意思を一つに集約されたスマートさがある。

「あっ」

 熊谷の口から呆気にとられた声が出た。
 場がしんと静まり返って、その重たい静寂の中で歪な異音が響き渡る。

 パキ、ポキ、ペキ。

 か細い小枝を小気味よく折ったら、そんな音が鳴るのだろうか。だが聞いている者は直感的に、それが枝が折れた音ではないと分かる。
 枝特有の乾いた音ではない、柔らかさと水を備えた、音に紛れている有機的な重さと鈍さ。

 僕の手の中であっさりと五本のしなやかな指が折れ、手のひらがひしゃげ、手の甲がたわんだ布のようにシワが寄る。手の中でパキパキと音が鳴り、平たい骨との間にゴムと水がこすれ合うような感触が走る。潰れるごとに、柔らかな筋肉の筋、繊細で細かい肉の糸の束の集まりが、その感覚がぞくぞくと僕の背筋を這い上り、奇妙な高揚感が肉体に灯るのを感じた。

「…………」

 鼻腔には色濃く、桜の花の香りがこびりついた。
 熊谷の顔が面白く歪む。せっかく、お金を使ってきれいに整えた顔が、驚愕で縦に伸びて、頬骨のあたりが不自然に浮かび上がった。

 握手した手の中で熊谷の手が汗で濡れて、ぷるぷると震えて、手全体が赤黒く変色している光景のを眺めながら、僕は不意に母の手の感触を思い出す。
 しっとりと柔らかくて、僕がまだ幼稚園の頃には丁寧に爪にマニキュアが塗られていたことを思い出した。
 僕は手を握りしめたまま角度を変えて、熊谷の爪を見る。熊谷の爪は僕が握りしめているせいなのか、白に近いピンク色。透明なタイプのマニキュアなのだろうか、まるで大きな魚の鱗のように濡れて光って見えた。

「いっ……やあああああああああああああっ!!!」

 ようやく悲鳴を上げた熊谷は、僕の手を振り払おうと上下に腕を振り下ろす。ぶんぶんと大きく振る白い腕にくっきりと青い血管が浮き出て、僕は綺麗だなと思ってしまった。
 痛みと暴力で変化する肉体的反応の鮮やかさは、なんて例えればいいのだろう。僕の貧弱なボキャブラリーのせいで言語化できないのが、とてももどかしい。

「離してっ! この手を離してっ!」

 熊谷は髪を振り乱しながら半狂乱で叫んだ。顔が真っ赤に変色して、口の端から泡があふれている。その泡が、口紅を溶かして下に零れていくから、まるで血を吐いているように見えた。
 意外にも彼女が痛みで涙を流さないことが、僕にはとても以外で、小学校の頃のように涙と鼻水、すべての体液を絞り出すように泣き叫ばないことに、いささか拍子抜けた気分になる。

 もっと彼女が感情的に、すべての感情をむき出しにして、泣き叫ぶようにするにはどうすればいいのだろう。そして、人体の織りなす素晴らしい苦痛の化学変化を、どう表現すればいいのだろう。

 興奮でもない、ストレスの発散でも八つ当たりでもない、面白がる気も起きない。冷静な部分が熊谷を観察して、冷徹に頭を巡らせて僕の望む反応をどう引き出そうか解析する。

 そんな刹那に。

「ぎゃ――」

 びくりと熊谷の身体が震えて、僕の手をつないだまま、ちゅうぶらりんな奇妙な格好でぐったりと気絶した。

 しかも。

 じわり、と熊谷の股間の辺りから、アンモニア臭と共に黄色い水が太ももから伝うのを見つけて、なんだか気まずい気分になる。脱力したせいで膀胱が緩んだのだ。僕は慌てて意識的に嗅覚を遮断した、熊谷のアンモニア臭だけではなく排せつ物の匂いなんて嗅ぎたくないし、そもそも自分の中に入れたくない。

「ざまーみろ、このブス!」

 そう言って、ぐったりとした熊谷に蹴りを入れる五代くん。どうやら熊谷が気絶したのは、五代くんがスタンガンを熊谷に食らわせたからみたいだ。僕は熊谷のつないだままの手を見た。脳裡によぎるのは、某アニメで手をつないだままの状態で、強烈な電撃を浴びて、みんな仲良く感電する光景なんだけど、現実はそうではないらしい。
 人を気絶させるレベルの電撃は、手を繋いだ程度の接触では、さらにほかの相手にダメージが通らないみたいだ

 まぁ、僕が水に濡れていたら話はべつだったのかな。

 先刻、水をかけられた熊谷は、会場がエアコンで暖かいせいなのか、全体的に乾いているように見えた。
 それよりも。

「ねぇ、五代くん」
「ん。どうした杉藤?」

 熊谷に再び蹴りを入れようとした五代くんは足を止めて、きょとんとした表情で僕を見る。

「どうして、わざわざ熊谷を攻撃したの?」

 僕に手を握りつぶされた時点で、彼女の心は折れていた。手を離して、それでおしまいだと思ったんだけど。

「そんな、杉藤は直接手を下したからいいのかもしれないけど、何もしないなんて、そんなこと……、私の気持ちのやり場がないじゃないか」
「あ、そうなんだ。なんだかごめん」

 僕は熊谷の手をつないだまま、五代くんにぺこりと頭を下げた。なんだか絵柄がシュールだ。

……つまり、そういうことなんだ。

 五代くんの言動で思い出したのは、小学校での山での遭難。
 中学での学生寮の放火や後輩たちによる物部くんへの暴行。
 高校での殺人事件。

 それらは全部、人間の負の感情によって引き起こされて、そしてボロが出た。互いが互いの感情を無視して、暴走した結果、ことごとく当事者である彼らは目的を果たすことなく、破滅したことを思い出す。

 感情か、やっぱり厄介だよな。

 自他の感情をないがしろにするつもりはないけど、感情が引き起こすアクシデントは、将来行う制裁に対して大きな課題となるのだろう。
 僕自体が不安定なのは自覚しているけど、そんな僕に他者の、友達の感情の統率をとることができるんだろうか。

 そんなことをツラツラ考えながら、僕はティッシュを捨てるように熊谷の手を離した。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 登る。登る。二十代後半の僕は登る。着る服は真っ黒なマッスルスーツに、顔をすっぽり覆う黒いマスク、黒いズボン、見事に銀行強盗みたいなルックスだ。だが、僕が襲うのは銀行ではなくて人間。
 登っているのは自然の崖ではなく、深夜時間の民家と民家のわずかな壁の隙間。パルクールを素でできる身体能力と小柄な体が幸いして、僕はスパイさながらに建築物から建築物にスムーズに侵入できることができた。

 やがて二階のベランダに辿り着いた僕は、ベルトについている小さなポーチから道具を取り出す。一見すると、吸盤がついたコンパスみたいなその道具。窓ガラスに先端の吸盤をつけてぐるりと表面を走らせると、キレイな真円のガラスがすっぽりとくり抜かれた。僕は音を立てないように、くり抜かれたガラスをポーチに入れて、窓ガラスの穴から留め具くをゆっくりと外す。

――。

 確かな手ごたえとともに、留め具が外れて見事に侵入を果たした僕は、ベッドで眠っているターゲットに音もなく近づいた。
 この時の僕の心情はとにかく無だ。
 殺すまでは安心できない。
 安らかに寝息を立てているターゲットは、今自分の部屋に侵入者がいるなんて露にも思わないだろう。このまま朝が来て、またいつもの日常が続くと思っている。

 タイのホテルで眠る僕は、殺人時の思考ルーティーンを思い返して、殺してきた加害者たち(僕たち基準で)のことを考える。

 彼らは本当に愚かだ。小学校の時にあそこまでヒドイいじめを行いながら、自分は安寧とした日常にずっと浸っていられると信じている。

 みんなそうだ。

 一時間後には雨が降ることを考えて行動しない。
 まさか人身事故が起きて電車が遅れるなんて、そんなこと考えて電車に乗ろうとしない。
 次の日には大震災が起きて、地震か津波に飲み込まれて命を落とすなんて想像なんてしない。
 親しい人が明日死ぬかもしれないことも考慮しない。
 そう、誰かを傷つけていつか報復される可能性なんて、想像なんてしないのだろう。

 そういう理屈にじゅんじるとするなら、人間はじつはみんななにも考えないで生きているのかもしれない。周囲の人々の影響と環境というプログラミングで動く、有象無象の人形が人の本性なのかもしれない。
 僕が見える、圧倒的優位時に人が天使に化ける現象も、異分子を排除するための迎撃プログラムみたいなものなんだ。
 悲喜ひきとは結局、プログラムの出力みたいなもので、僕が感じていた感情も幸福も怒りも不幸も、すべては幻――そう、二十代ぐらいに開き直れたら、葛西 真由を殺さずに済んだのかもしれない。

 過去の僕がベルトに差し込んだナイフを取り出して、心臓を一突き。その日は少し暑い日だった。ターゲットは布団をかけず、下着姿でベッドに寝転がっていたから、ものすごく助かった。

 薄暗闇の白いシャツから浮き上がる、翼の名残のような肩甲骨。そこから止めを刺すための臓器の位置を確認して、一突きで命を摘み取るつもりで、刃渡り120mmのナイフを突き入れた。

――グッ! グチュッ!

 衣服を突き破り、刀身が心臓を貫いた鈍い感触が手に伝わる。出血で周囲を汚さないように、ナイフを刺したままにして、ようやく僕は一息つけた。

 湧き上がるのは強い感情、ターゲットの名前が井上孝弘いのうえたかひろだということを思い出して、頭の中で井上がした所業を掘り返すように思い出す。

 小学校の頃の井上くんは、クラスの乱暴な男子生徒グループの一人で、熊谷をすれ違いざまに肘鉄したり、階段から突き落とそうとした。たぶん、もっとヒドイこともしてたんだろうね。僕たちの運命を二分した遠足の日に、熊谷が休んだことで、ものすごく落ち込んだ顔をしていたことを思い出したよ。

 井上くんはあの遠足で、熊谷を使ってどんな遊びをしようと考えていたのかは分からない。ただ、あの時点で大人しくしていれば良かったんだ。消化不良気味だった残酷な衝動を、ターゲットを僕たちに向けた時点で井上の人生はここでおしまい。ゲームオーバー。

 クラスメイトが遭難するように大勢で誘導した。学校がイジメの隠ぺいをした。大人たちは加害者の子供たちを守ろうとした。まるでお手本のように悪い流れだ。

 父が言うには、僕をそんな目を合わせた時点で学校ごと制裁するのが、山中崎での当たり前だったんだろうけど、時代は平成に変わって杉藤家は僕の家だけになった。信奉者も年寄りが大半で、幼稚園の時はぎりぎり威光が通じたに過ぎない。

 イジメの被害者そっちのけで、イジメの加害者には更生の道が示されている現状――それは令和になっても変わらない。海外ではイジメの加害者にはカウンセリングや強いペナルティー、しかもイジメ対策に警察が学校に常駐している国もある。

 だけど日本は令和になっても変わらない。誰かに我慢を強いることで、薄氷の安寧が保たれていることを、誰も考えようとしない。ただ、無責任な大人が物事を無責任に対応するから、それを見た子供たちはさらに無責任な大人になる悪循環が発生する。

 僕はその悪循環を食い止める。復讐は社会的正義の一環であり、純然なるボランティアに過ぎない。まぁ、そういうことにしておこう。

 絶命した井上くんは成人式の時に、厚顔無恥にも熊谷にイヤらしい視線を向けていた。自分たちのやったことを忘れて……いいや、覚えていたからこそ自分たちの優位性が揺るがないと思っていたんだろうね。

 ボクハホントウニイイコトヲシタ。

 強く僕は自分の行為を脳みそに刷り込んだ。すると、怒りと共にすっとした風が頭の中に吹いて、自分の中で渦巻いていた汚いものが洗い流された心地になる。

「さてと」

 僕は井上くんの家に火を付けた。

【つづく】

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