【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_37_高校生編 03
1999年 8月1日。僕たちは山中崎の山にある、自動車免許の教習所で簡単なオリエンテーションを受けていた。
座学のスケジュールと寄宿舎での過ごし方、必要最低限のルールなんて寮生活が長い僕たちにとっては当たり前のこと。
初老の教官がホワイトボードに簡単な地図を描いて、変な気を起こさないようにとしわがれた声で念を押す。変な気というのは、この近くには肝試しにちょうどいい廃墟があるそうなのだ。
僕が小学校の頃にいた療養所と同じ、大人たちが知らんぷりを決め込んだバブルの置き土産、いわくつきの物件。しかも誰も管理していないから、長い風雪にさらされて崩壊の危機にあるらしい。
「だから、絶対に近づかないように」
あぁ、なんてわかりやすい誘いだ。そんなことを聞かされたら、必ず誰かが好奇心を抑えきれずに、夜の山に踏み入る。そこがどんなに恐ろしい場所なのか分からずに。
教官はツラツラとホワイトボードに、教習所とはやや離れた場所に寄宿舎の位置を描き、寄宿舎の横に川を描く。Y字の川にぐるりと山に囲まれた山中崎。描かれた川はレジャー施設が連なる三渡川ではなく、北西から南へ流れえる絹衣川だ。
「道に迷ったら川に沿って歩くこと。もし寄宿舎とは、反対に逆走しても安心して欲しい。ガソリンスタンドに辿り着くからだ」
ちょっと待ってよ、せんせーい。山に深く入り込んだら、川を探すどころじゃないと思うんですけどー。
僕が思い出すのは、方向感覚が狂うほどの同じ風景の連なり。濃密に枝が重なり、風が吹くと梢が立てる音はまるで人の笑い声のよう。声を潜ませてこちらを伺う動物の世界に虫の鳴き声。人が人であるために決別した向こう側の世界。
そんな世界に遠足の延長線で、小学校の僕はバカみたいな望みを託した。
「……」
いやな記憶に全身から汗が噴き出てくる。なにが修行だ。なにが強くなりたいだ。バカみたいに重たい荷物を背負って、結局何が出来た? 友達にささやかな飲食をふるまうことしかできなかったじゃないか。
僕の先祖は修験者で山神の使者だと自称していたが、直系の末裔らしき僕は、暗闇を愛するけど山だけはだめだ。どうしようもなく、怒りと嫌悪が沸き上がってくる。
過去のでき事とは違う、自己嫌悪とは違う、なにか。
山に入ると感じる目には見えない圧倒的な存在感。濃密な湿った土と蒸れた草の香り。踏みしめる時の茶色く変色した朽ち葉感触。僕の五感が訴えてくるのだ、自然はそんなに優しい存在じゃない。人間は自然から離れた異分子であり、もう二度と自然に還れない存在なのだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
数時間後
教習所から寄宿舎まで、少し距離があった。着替えを詰め込んだ荷物を片手に、小さな案内の看板をたよって、整備されたアスファルトの山道を下っていくと、冷たい風が半袖から伸びた腕をいやらしく撫でる。
「上着、持ってくればよかった」
後悔を口にした僕は二の腕をさすり、僕のまわりにいる友達も、思った以上の風の冷たさに後悔しているようだ。
油断した。今年の夏は比較的涼しくて、天気が崩れる日が多い。なんとも過ごしやすい夏の日だ。だけど、山中崎では勝手がちがってくる。
いや、山中崎の気候と言えばいいのだろうか、それをすっかり忘れていた。
意識すると胸の奥底にのしかかる息苦しさに、僕は山中崎に帰ってきたのだと実感する。とても嫌な感覚だ。なのに懐かしく感じてしまう。複雑怪奇な感情の乱れに、マスクで隠している顔が歪み、眉間にシワがよるのを止められない。
みんなに見せる事なんてできない、醜い僕の顔。さらに醜くするなんて、僕は順調に自分に自分の首をしめている。
「あ、やっとついたか?」
誰かの呟きが聞こえてきて、僕の意識が現実に戻った。
僕たちが進む道の先に、大きな鉄の門が見えて、門の先には白くて大きな四角い建物が見えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「なんだか、おかしい」
僕たちを受け入れるために、あらかじめ開錠されていたのだろう門をくぐって大川くんが呟いた。
門から寄宿舎の玄関まで伸びる道には、赤いレンガで舗装されて、道の脇には柔らかな芝生が茂っている。道の先には寄宿舎の玄関が、玄関の両脇を挟んだ壁はガラス張りで、オシャレなカフェテリアが東に、西には丸いソファーが置かれた談話室が見えている。なんだか、とても都会的だ。
ん? どこがおかしいの?
僕以外に教習をうける生徒たち、とくに女性たちはオシャレで洗練された外装にはしゃいだ声をあげた。僕もパンフレットで見たとはいえ、現実で目にすると気持ちが高揚して顔の辺りが熱くなる。
「どこがおかしいの?」
僕はなるべく声量を落として大川くんに尋ねると、大川くんの体からは辛子の匂いが漂いだした。不安で緊張をみなぎらせているのだ。
「俺の考えすぎなのかもしれないけど」
どうか杞憂であって欲しい、と。前置きを置く大川くんは振り返って門を一瞥し、門の先にある山道に鋭い視線を向ける。
「……教習所からここまで距離があったよな」
「うん」
「山道はアスファルトで、横幅とか車で行き来できる広さだよな?」
「うん、そうだね」
「なんで、教習所の人間がだれもついてこないんだ? 監督するヤツいないなんて、おかしいじゃねぇか?」
「それは僕たちが、そこまで子供じゃないからじゃない」
「うーん。こんなに道が整っているんだし、距離もあるし、送迎するバスがあっても良いと思うんだが」
大川くんは納得できない顔で、最近伸ばし始めた髪をガシガシかき回した。言語化できない不安にもどかしさを覚えて、なんとか言葉をひねり出そうとするけど、うまくいかない様子だ。
「大川くん、一度や休も。ゆっくり休んだら、不安の理由も分かるだろうし、もしかしたら気のせいの可能性もあるじゃない」
生徒たちと距離が開きそうになって、僕は慌てて大川くんを促した。バンバンと背中をたたくと、シャツ越しに盛り上がった、たくましい肩甲骨にある種の羨望を覚える。胸板もあって、ラグビーとかやってそうな筋肉バキバキのマッチョボディーに、精悍さを増した引き締まった顔と半眼で鋭い瞳。太い眉とか、なにからなにまで男らしい。
それで、勉強もできるんだもんな。羨ましい。
一学期の期末テストで、ほぼ満点。僕も成績上位をキープしているけど、なにからなにまで大川くんには敵わない。
かっこいいよね。本当に。
僕は早瀬くんと一緒にいる時は、女の子になりたいと思うけど、大川くんといる時は男になりたいと痛切に願う。
おかしいかな。男にも女にもなりたいって。
僕の顔は性別を超えて醜くなっている。引き締まったというよりも顔全体が縦に引き延ばされて、マスクを飛び出した尖った顎に、不自然に横に広がった鼻が犬の口吻のように飛び出してきた。
しかも完全に二つに分かれた瞳孔は、多瞳孔症という病気らしく杉藤家の方針で治療をさせてもらえなかった。左右の瞳の形が違う上に、瞳が四つ。
はたしてこれは、人間の顔なのか?
「父さん、なんで?」
電話口の向こうで父が言うのだ。
――顔が醜くなってくることこそが、神が宿る杉藤顔の特徴であり、宿命。
それに多瞳孔症の症状である二重に物が視えたり、視力の低下が僕には起こらなかったことで、諦めさせざるを得なかった。
――問題ない。生活に支障が出ないのなら、手術するまでもない。
……こんな時、僕自身が無力な学生で、権力がないのがもどかしい。
杉藤家屋敷に飾られた、歴代当主たちの写真。
彼らが、僕の行きつく先をしめしている。
「…………」
無意識に僕は前髪をつまんで、そして戻した。
前髪を伸ばして目を隠している状態だけど、今度からサングラスをかけて隠した方がいいのかもしれない。
『あんな、恥ずかしいツラで、カッコいいからバイクの免許を取りたいんだって、笑える』
思い出して頭の中が、真っ赤に染まりそうになる。
恥ずかしいから隠すんじゃない。身を守るために顔を隠すんだ。だけど、なによりもこの顔を気にしているのは僕自身だ。
顔はどうしようもないから、他をどうにかしたかった。筋トレしたり、独学だけどマナー本とか読んで鏡を見ながら見苦しくない立ち振る舞いを覚えて、ボイストレーナーの本を読んで、なんとかマシな声になったと思う。
背が伸びない代わりに、腹筋がさらに割れて、華奢な身体はすらりと引き締まっている。
僕はとりあえず、片っ端から努力できることは努力したんだ。
少しでもみんなの輪に入れてもらえるように。
だから、たまに許せなくなるんだ。
目の前で、ぐらりと揺れる体があった。短いスカートから伸びる足が、雲が多いせいで淡い夏日に照らされて、白く光ってみえている。
――だっ。
と、僕の隣にいるはずの大川くんが駆け出して、今にも崩れ落ちそうな女の人の身体を支えた。
彼女の足の下。道が整えてあるけど、長い距離を歩くのが不向きな踵の高いサンダルと、紫陽花の花のように涼やかな青のディキュアが目に入る。そして、サンダルの足首に巻かれた茶色いバンドの周囲が、痛々しく赤く腫れていることも。
「きゃ、朋子。大丈夫?」
近くにいた友人らしき女性が、驚いたように振り向いた。友人女性の方はパーカーにジーンズと運動靴――動きやすさを重視した格好だ。顔も自分の身の丈に合ったナチュラルメイクで好感が持てる。
対して、と。僕は自分の顔が険しくなるのを止められない。
朋子と呼ばれた女性は不自然に露出の多い格好で、茶色に染めた長い髪が、体全体を貧相に見せていた。顔の方も眉毛がダメだ。不自然に細く整えられて、無様に長く描き足されている。そのせいで、大したことのない下地で必死にケバケバしいメイクをしているのに、視線が顔全体ではなく顔の上の方に行ってしまう。ばっちりとまつ毛で覆われた瞳ではなくて、眉毛とか額とかそのあたりだ。あまりにもお粗末なメイクなのに、大川くんの顔がデレっと崩れるのを、僕の四つの瞳は見逃さない。
アムラーだっけ? こういうファッション。
なんだか、嫌な気分になった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
許せない。苦しい。死ねばいいのに。
僕が努力している数値を百とするなら、朋子の努力レベルなんて二十程度だ。母の化粧技術を考えたら、こんなの子供だましに過ぎない。それなのに、いっちょまえに可愛くなるんだ。無条件で助けられるんだ。大川くんの顔、こんな風にデレデレするんだ。
朋子の体からバナナを数倍甘くした匂いが漂いだして、ピンク色の甘い靄になって大川くんの体を包んだ時、僕は小さい頃に母の匂いと繋がった時を思い出した。
母の体から漂いだした香りがへその緒みたいで、肉の紐みたいなソレに捕まると、思考が低下してなにもかもがどうでもよくなる。
頭の中がガランドウになって、脳みその代りにおがくずが詰まっているような、ぼわぼわした感覚を思い出して、真綿で首を締め上げるような優しい支配感に、僕は思わず悲鳴を上げそうになった。
今の大川くんもそんな状況なんだろう。
良い匂いに捕まって、このまま放っておいたら頭の中を空っぽにされて、なにもかもを支配されてしまう。
「ありがとうございます」
「いや、なに。大したことしてないですよ」
大川くんの慣れていない敬語が可愛らしい。
そして、そんな大川くんの初心な一面を朋子も見逃さず、甘い声を上げる。
「いえいえ、助かりました。ですけど、心細いのでできれば」
「ち、ちょっと朋子、悪いわよ」
なんて図々しい女狐だ。まるで手慣れた手つきで、大川くんの腕に触れて自然に互いの腕同士を絡ませて、貧相な体全体で枝垂れかかる。
ぷんぷんといやらしい雌の香りを漂わせて、ピンク色の繭に大川くんを閉じ込めようとする光景に、胃の辺りがぐじゅぐじゅと嫌な音を立てる。
「……」
女がまるで恋人がするように、赤い唇を大川くんの耳に寄せる光景。
見ているだけしかできない僕は、現実と友情を守るために必死に耐えた。
大丈夫だよ、大川くん。僕がお母さんのへその緒から逃れたのは、大川くんのおかげだから、今度は僕が助けてあげるからね。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「とっしー、怒ってるやろ?」
そう言って、早瀬くんが僕の肩に手を置いて話しかけてきた。マスクしているから、僕の顔が分からないのにすごいね。
「すごいね、早瀬くん。僕のこと分かるんだ」
「とっしーの背中、緊張しているんか、背中の筋肉が盛り上がっているんや。ナオっちのことは機嫌直しぃ、女子を守るんわ男の役目や」
「……男女平等だよ」
僕が不満そうに言うと、早瀬くんは垂れ目の瞳を少し思案気に上へと移動させる。高校に入ってからの彼は、ちょっと背が伸びた程度だけど、真面目になろうと考えていたのか、髪を金髪から黒髪に戻して、服装もきっちりした感じのを意識して着るようになっていた。
僕はそれを咎めないし、自分自身の手で良い方向に変わろうとする意思は尊重すべきだと思っている。ただ、ストレスが溜まっているのか、彼から漂いだす土の匂いからは、最近、腐臭に似た甘くて饐えた香りが漂いだすようになった。これはいけない傾向だと思うけど、僕にはどうすることもできない。
「男女平等だとしても、や。女がおるから、男は男として証明されるんや。女がいなくなったら地獄やで。ワテが早瀬樹っちゅうキャラを単体でがんばっていかなあかん。女、男って大きなくくりがあるから、ワテらはまだ存在が許されているんや」
「うーん」
早瀬くんの説明は、たまによくわからない。
女がいなくなったら、男という大きな塊が崩れてバラバラになるのは分かったけど、価値観がその人単体に留まるとは僕には思えない。
人はどんなことがあろうと、群れるよ。絶対に。
そして、その群れが多数派か少数派かにわかれるにすぎない。
そこでまた、新しい価値観に基づいて男の証明が行われると僕は考える。
女が居なくなっても、男は男でありたいんだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
高校の僕は険しい顔のまま、大川くんと女の人たちのやりとりを眺めている。早瀬くんは僕を宥めて、園生くんがわざとらしく「大川君やるじゃん」と言い、五代くんは「確かに長い距離を歩かされたな」と冷静に分析しだして、物部くんに至ってはなにも考えてなさそうに見えて、本当になにも考えていないのがわかった。だけど、なにも言わないのが彼の美点だろう。口が災いの元だということが分かっているからだ。
ややあって、僕たちの元に戻った大川くんが言う。
「ちょっと具合も悪いらしいから、彼女を医務室に連れていく。お昼に合流しようぜ」
と。息をハキハキ、目がキラキラ、頬を高揚させている顔が少年みたいで可愛らしいのに、大川くんに助けられた女の方は、べったりと媚びを含んだ目で大川くんを見て、友人らしき女性は諦めたような笑みを浮かべる。
「…………」
僕はわかっている。こんな状態の大川くんは、誰の言葉も受け付けない。だから、僕は余計なことを言わずにわらって快諾し、女の人を丁寧に支えて寄宿舎の玄関に入っていく大川くんを見守った。
ふと、頬にぽつりと濡れた感覚があった。
雨が降り始めたのだ。
【つづく】
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