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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_15_小学生編 04

 神が宿る――それはどういうことなのか、大人の僕は分析する。

 初代の杉藤は、自らを『山神の使い』と称した。そして、納得できる実績を見せつけることで、周囲を納得させてきた。
 言い伝えによれば、荒れ狂う河川を鎮め、伝染病をたちどころに収束させた。

 それは具体的になにをした?
 対処できる知識があったとしても、人間一人の力では、出来ることは微々たるものだ。
 どうやって周囲を納得させてきた?
 しかし、現実離れした光景を見せつけた場合、話が違ってくる。現代では重みが違う【神】という単語を使い、超常的な力を衆目の前で行使したとしたら。
 
 定かではないが、杉藤 貴子は未来を視ることが出来たという。

 もしも、その未来視が本物だとするのなら、能力が覚醒したタイミングは男たちに攫われた修学旅行の時だ。命の危機に瀕したことで、未来視の能力を得た彼女は生き残った。

……そして、顔が徐々に崩れて杉藤顔になった。

 僕の場合は能力が【記憶力】と【嗅覚】の二つ。
 どれも窮地に陥った時に目覚めた力だ。始めは母に殺されかけて、嗅覚は大川くんの閉じ込められた……ではなく、どちらかというと、周囲に与えられ続けたストレスからだろう。

 なんていうことだ。
 母さん。あなたが、僕の首を絞めなければ、僕の顔は少なくとも杉藤顔にならなかった。
 僕が思うに、杉藤顔はなんかしらの能力を持ったことで、処理する頭が通常ではできない動きをする。だから、顔が歪んで醜くなっていくんだ。

 その証拠に、成人式を迎えた時の僕の顔は、お世辞でも人間の顔ではなかった。

 深く考えずに、その能力を当たり前のように使った代償。大人の僕は子供の僕を眺めて、なぜもっとうまく立ち回れなかったのかと頭を抱える。
 相手の感情を匂いを介して読み、過去を覗き見ることが出来る力なんて、神に等しい力だ。
 顔の美醜が代償なのだとすれば、絶大な地位と権力を確立すれば、居場所も尊厳も補うことができる。

 杉藤家は、そうやって、平安時代から栄えてきたのだ。

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「父さん、僕、友達のところにいくね」

 幼い僕が父に呼びかけて、線香の匂いがこもった部屋からでる。思わず見てしまった父の過去のせいで、頭がぼうっとしてくらくらした。まるで濃密な夢を見た後だ。
 無理やり起きた朝のように体がふらふらして、歩くための力がうまく入らない。

 行かないと。

 僕は自分のやるべきことに意識を集中させて、転ばないように、慎重に、二階にある杉藤 貴子の部屋に入る。
 大川くん、五代くん、園生くんは無事に骨壺を盗むことが出来ただろうか。
 順調なら、そろそろ三人が帰ってくるころだ。
 僕との合流場所は決まっていないが、集まるのだとするならば、この部屋だと三人は分かっているはずだ。

 ヒマワリ畑のカーテンを開いて裏庭を見おろすと、山に沈む太陽が赤い西日で世界を照らしていた。池の水面が赤い日の光を浴びて、ルビーのようにキラキラ光っている。剪定《せんてい》されて整えられた緑の松葉に、小さな鳥たちが戯れて、白い砂利が敷き詰め垂れた裏庭は、こうして上から見下ろすと池を中心に渦巻いている模様が描かれていた。
 あとで聞いたが、枯山水というものらしい。
 砂利で作った凹凸の模様が、赤と黒の陰影によって、くっきりと渦の模様を浮きだたせている。

 ぐるぐるぐるぐる……。
 渦の収束先にある池は、まるで赤い瞳のように僕を見ている。

 僕は魅入られたように渦の軌道を視線でなぞった。ところどころ渦模様が乱れているのは、僕たち四人が無遠慮に歩き回った結果だろう。
 なんだか少し申し訳なくなった。模様が描かれているのだとするなら、もっと慎重にできた。

「俊雄、やっぱりここにいた」

 背後から声がして振り返ると、大川くんがいる。
 そういえば、大川くんから名前を呼ばれたのは、この時が初めてだった気がする。
 幼い僕は、この感動的ともいえる貴重な瞬間に気付かなかった。
 大人の僕が意識的に、思い出のアルバムを眺めなければ一生気付くことなんてなかった。なんで僕は、いつも気付くのが遅いのだろう。気付いたときには、いつも手遅れなんだろう。
 大川くんの後ろに、五代くんと園生くんが続き、彼らは得意げな表情で部屋に入る。

「首尾は?」
「上々」

 幼い僕が訊ねて、五代くんが特徴的な取っ手の骨壺を掲げた。貴子さんの骨壺だった。広げられた取っ手の白い翼が、西日のせいで血のように赤く染まって輝いていた。

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「この骨壺は、僕が家に持ち帰って、いつか、ここだって思う場所にこの骨壺を埋めるよ」

 そう言って骨壺を抱きしめる五代くんは、とても穏やかに笑っている。
 大切に胸に抱き、愛おし気に取っ手の翼を撫でる手は優しく、つやつやとした壺の表面に丸い頬をあてる顔は、母に相対した子供そのものだ。
 もしかしたら、五代くんは骨壺を二度と手放さないのかもしれない。ずっと手元に置いておいて、死にまで放さないのかもしれない。
 その予感が当たったのは、二十年以上の時間《とき》が経過したあとだった。

「園生くん、ありがとう。君がいなかったら、うまくいかなかったよ」
「う、うん、へう」

 僕が礼を言うと、園生くんは喜べばいいのか、悲しめばいいのか分からない顔をした。笑い声を出そうとして失敗した顔は、中途半端に顔がひきつっている。
 うん、本当にごめんね。君はいつでも逃げ出せたのに、律儀に何度も僕たちに付き合ってくれたよね。本当に感謝しているんだ。本当に。

「大川くんも無茶につきあってくれてありがとう。道路の場所、大川くんがいなかったら、確実に迷っていたよ」
「それはどうかな。ソノのヤツも手伝いで、あの道路の場所知ってたんじゃないの? ゴーだってあの道路のバス使って、ここに来たんじゃなぇの?」

 素直じゃないな。そこがいいんだけど。
 照れ隠しをして強がる大川くんに、五代くんと園生くんが慌てる。

「いや。私はきのう、親に車にのせてもらって歩いてきたんだ。卒園式でともだちと話していたところを、いきなり車にのせられたんだよ。手術で忙しいからって信じられるかい。緑の家が泊めてくれなかったら、どうなっていたか分からない」
「あ、うん。ぼくも公博が来て驚いた。えぇっと、ぼく、あんまり外に出ないし、霊園の近くしか行ったことないから、この家から道路まで行ったことないし、それに手伝いだって何回かだし」

 たじたじと説明する二入に、大川くんはばつの悪い顔をする。丸い顔を赤くして、眉間にしわを寄せて、ちょっと今にも泣きそうな幼い顔。つまらない意地を張って、君はいつも自分を大きく見せていたね。
 その虚勢に甘えたツケが、君が居なくなった後の僕たちを苦しめたんだ。
 人が死ぬのは当たり前のことなのに、僕はいまでも君が死んだことが信じられない。

「悪かった、悪かった。今のはナシ。本当にナシっ!」
「うん。今日は、本当に朝からありがとう。つきあわせちゃってごめんね」
「いやいやいや、俊雄と遊ぶ約束がなかったら、どーせ、夕方まで家の手伝いだったぜ。せっかくの日曜日が台無しだし」

 ともだちも増えたしなーと、ケタケタ笑う大川くんに、幼い僕は身体の力が抜けていくのを感じた。

 終わった。
 そして、成功した。

 それが熱い実感を伴って、体中をくすぐった。

 こうして、僕たち四人は友達になった。


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 幼い僕は、この成り行きともいえる貴子さんの救出――骨壺の窃盗を、なんの疑問もなく、ただ当然の善行として受け止めていた。

 それが、もしかしたら「仕組まれていたこと」ではないかと、疑問を持ち始めたのは高校あたりだ。

 修学旅行の準備をしている時に、ふと、伯母の話を思い出した。もし、男に連れ去られている未来を視たら、修学旅行にはいかなかった。だから、未来を視る能力に目覚めたのは、男たちに連れ去られた後なのだろう。

 そして気になった。伯母は自分の死を、どのように考えて受け止めていたのだろうかと。
 運命を受け入れて静かに死んでいったのか、それとも死を回避しようと行動を起こしたのだろうか。さらに自分の死後、父が伯母の望みを無視して、自分の骨が杉藤の霊園に入れられるのを見たのではないか。

 そう、もしも、伯母の人となりを知っていたら、僕は骨壺を盗まなかった可能性がある。

 もしかしたら、杉藤 貴子は僕たちに骨壺を盗ませるために、僕たちの出会いを仕組ませたのではないか。

 本来なら、もっと早い段階で、幼稚園のころから五代くんと園生くんに、出会っていたのではないか。
 卒園式を終えた夜に、父は確かに言った。

『二人とも良い子だ。杉藤家の主治医の家と、杉藤家の施設管理を任せている家の子だ。本来なら、もっと早く合わせるべきだった。本来なら、本来なら、そう、本来なら幼稚園の出来事なんて起こる前に終わっていたんだ。そう――』

 思い出して、背筋に気持ち悪い悪寒が走った。
 僕はずっと自分の意志で歩いていた。そう思っていた。
 用意された暗い道しか歩くことしか許されないのなら、自分の意志で歩きたい。僕たちはすべからく、生まれた先の環境を選べないのなら、せめて生き方だけは、自分の意志で決めて歩いていきたい。

 だけど、それすらも歪められて、本来の道とは別の一本道を歩かされた。

 気づいてしまい、様々な疑問が脳内に赤黒い渦を形成して膨らんだ。
 杉藤 貴子は園生家と同じ屋根の下で暮らしていた。なぜ、彼女は園生家の台所事情に気付かなかった? もしかして、自分の骨壺を盗ませるために、わざと放置した? むしろ、自分の優位に傾くように悪化させたのではないか。

 他にも、五代くんに対しても、自分の骨壺を盗ませるために、ひと際優しく接していたのではないか。それに大川くんがいなかったら、僕たちは道路に出ることも出来ずに道に迷っていた。父に対しも、すんなりと僕の言葉に従ったのは、生前になにかしらを言い含めていたからではないか。例えば、墓でいつまでも泣いてないで、仏壇で手を合わせるだけで充分だから……と言われたら。

 考えれば考えるほど、辻褄があうのだ。まだ幼稚園を出たばかりの僕たちが、運よく骨壺を盗めたのは、はじめから杉藤 貴子が舞台と配役をキャスティングして用意したからなのだ。と。

 すべては彼女の手のひらで踊らされて、本来とは異なる出会いを果たした僕たちは、骨壺を盗んだことで結果的に友情を深めたけど、杉藤 貴子の目的が果たされたことで中途半端に放り出された。
……そんな気がしてきた。

 ぐるぐるぐるぐると、赤と黒の思考が渦を巻く。
 脳裡に広がる、幼い頃に見た光景。杉藤 貴子の部屋から見た、西日によって赤黒く浮かび上がる枯山水の裏庭。渦の中心にある池が、赤い瞳にみえたのは、それが彼岸へと旅立った杉藤 貴子の目だったから――。

「あーっ。やめやめやめ! 考えたって仕方ないっ! 修学旅行! 修学両行! 京都! 八つ橋! 金閣寺! 舞妓さん!」

 高校生の僕は大声を出して、泥沼に入り込んでいく思考を中断させた。
 今考えるべきことは、修学旅行の準備をすることであり、大切な友達と楽しい思い出を作ること。
 出会いは歪められたことかもしれないけど、僕たちの友情は本物だ。
 だから、問題なんてない。
 僕は輝くような幸せな想像で、黒くて不吉な不安を上書きして平気な顔をする。

 友達のほとんどがいなくなった、絶望的な未来なんて知る由もなく。


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「んで、お前はずっとマスクをつけることにきめたワケ?」
「うん」

 幼い僕は顔半分を覆うマスクをして、この醜い顔を隠すことにした。残念ながら、形の違う左右の瞳は隠すことが出来ないので、瞳は前髪を伸ばして隠す予定だ。
 小学校は幼稚園よりも子供たちの数が多いから、幼稚園の時よりも用心したほうが良いと考えたのだ。 

 杉藤家を信奉する大人たちが起こした粛清劇が、どれほど僕を守ってくれるのか、僕自身が分からない。僕だったら、ちょっとしたことで、怒られるどころか殺されるかもしれない、取扱注意な人間になんか関わりたくない。
 だけど、大川くんもふくめて彼らは僕ではないのだ。関わりたくないと考えるのは、実際は僕だけで、周囲はそう感じないのかもしれない。

 幼稚園の先生が、いじめっ子の園児によく「その子の気持ちになって考えなさい。イヤでしょう」って、注意するけど、僕にはピンと来なかったし、いじめっ子の方もピンとこなかったとも思う。とりあえず、こうすると怒られるという学習だけで、いじめられた子の気持ちなんて汲み取ることはない。だって、僕たちは結局ちがう人間だから。
 怒られても、うまくなるのは反省のポーズだけだ。じつはなんの解決にもなっていない。

 マスクについては、父は良い顔をしなかった。母はマスクをして走るのはキツイから、ほどほどにという忠告にとどめた。

「まぁ、いいんじゃないの? 遊ぶとき邪魔そうだけど」
「だいじょうぶ、たぶん」
「いや、たぶんって時点でだめだろ」

 そう言いながら、僕と大川くんは入学前を控えた数日間を遊ぶ。広場に公園に土手に。

 途中で、学校に行くために叔父の家に住むことになった園生くんが加わり、五代くんも加わった。僕たち四人はこれから同じ小学校にいくのだ。
 私立 宮ノ川《みやのがわ》小学校――受験の煩わしさがない、お金次第で大学まで行けるエレベーター校だ。大川くん、五代くん、園生くんの学費は父が出して、僕たちがバラバラにならないように、これから十六年、白い学び舎へ閉じ込められる。
 大人たちの独善的な配慮によって、僕たち四人の絆は確かに強くなった。ただ、大人たちが望む、正しい方向に成長したかは別の問題だった。

 山中埼を幼い僕たちは走る。その地名の通り、坂が多くて山に囲まれた町を。
 一人だと感じないことが、大勢だと走るだけでも楽しい。みんなの輪にいるだけで、体中から無限に力が沸き上がってきて、どんどんどんどん足が前へと進む。感じ方が多方向に広がって、世界がどんどんどんどん広がっていく。

「ごめん、ちょっとまって」

 膝に手をついて、ぜーはーと、僕はマスクを外して呼吸を整えた。もっとみんなと走り続けたいのに、心臓がギュッとなって目の前がクラってなる。

「だいじょうぶ? 杉藤君」
「うん、だいじょうぶ。園生くん」
「すげえな、前より走れてねぇか。ほれ、ポカリ」

 僕にスポーツ飲料の青い缶を渡す大川くんは、背中にリュックを背負って、いつもポカリを常備している。なんでも、配送の手伝いをしている大川くんからすれば、こまめに水を飲まないと、人間はもたないのだそうだ。ドラマでいう根性は嘘で、学校の体育は致命的な嘘を教える場所なのだと、大川くんの両親は言っているらしい。

 僕は大川くんからもらったポカリを飲むと、ぬるいポカリが体中にしみわたってきて、悲鳴を上げていた体がゆるやかに鎮まっていくのを感じた。

「一気に飲むんじゃねぇぞ。ゆっくりと呑み込んでいくんだぞ」

 そういう大川くんは、とても甲斐甲斐しい。
 大川くんがポカリを持ってくるようになったのは、僕がマスクをつけ始めてからだ。彼は僕を弟のように、親身にかまってくれる。

「杉藤だけずるいぞ。大川、私にもポカリ」
「じゃあ、千円」
「なぐるぞ」
「じゃあ、ぶんなぐるぞ」
「じゃあ、ぶんぶんなぐる」
「じゃあ、ぶんぶんぶんぶんなぐるぞ」
「じゃあ、ぶんぶんぶんぶん……」
「「ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん」」

 横でぶんぶん言い始めた、大川くんと五代くん。置いてきぼりになって、僕と園生くんは顔を見合わせて、困ったように笑う。

「公博が、こんなにムキなるの初めて見た」
「こういうのって、相性がいいっていうのかな」

 もしかしたら、と。
 幼い僕は生まれて初めて、明るい未来を想像した。
 このまま、みんなで大人になってもずっと仲良く、ずっと楽しく、ずっとずっと一緒にいられるんじゃないかって。

 醜い僕の顔も大人になったら、そこそこの普通の顔になって、過去のことを笑い飛ばせることが出来るんじゃないかって……そんなたわいもない想像。

 土手のベンチにみんなで腰かけて、咲きはじめた桜の花の枝を、「どうやって大人に気付かれることなく折って、持って帰ることが出来るのか」というロクでもないイタズラの相談をしながら、ぎゃあぎゃあわいわい騒いでいる。

 そして、結局桜の枝を折らないことにして、家路につく僕はマスクをかけ直しながら、幸せそうな笑うんだ。

 明日はどんな日になるんだろう。明日はどこに行こう。明日はみんなでこんな遊びをしたいな。

 光輝く雨のように、僕に降り注ぐ明日。明日。明日。
 地面に落ちた、桜の花弁の匂いを嗅ぎながら、僕は胸のおくから湧き上がる幸せな希望を、豚のように愚かに、無自覚にむさぼっていた。

 大人になって分かるんだ。どうして、もっと大切にできなかったんだろうって。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

『緑を殺した理由? それは、彼が私を裏切ったからだよ。なぜなんだって理由をきいたら、アイツ、なんて言ったと思う?』

 暗闇の中で、大人になった五代くんが僕を嘲笑う。

『緑は言ったんだ。バレなければ、私が傷つかないと思ったからってーーそう。全部、よく君が言ってきた言葉だ』

 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして……。

 止められない。止まらない。
 気づいたら僕は一人になってしまった。
 僕は大人になってしまった。
 両手に抱えきれない、背中に背負いこめない、口の中に納まりきらない僕の罪罪罪罪罪……。

 お願いだれか、僕を過去に戻して。みんなに会わせて。みんなに会いたい。

 分かっている。僕の体はタイにいる。どうせ、取り調べと言う体で、拷問と自白剤にまみれて、惨めに残酷に殺されるのだろう。それが、僕にふさわしい因果応報だ。
 だけど目が覚めて起きてしまえば、罪悪感も羞恥も、死にたいという感情すらも、希望と言う絶対的な光の前では霞んで消える。まるで、真昼の月だ。本当はずっと傍にいるのに、夜にならなければ姿が見えない僕の心。

 アーモンド形の瞳に、形の良い輪郭、コーカソイド系がベースの絶世的な美貌。僕の心と体が一致している、男でもあり女でもある優美な曲線を描く体。
 もしうまく逃げ切れたら、ばっちりとメイクをしてドレスで着飾って、マスクなんてせずに街を歩いて、はるか遠くの異国の地から核爆発でキノコ雲を上げる日本《我が祖国》を見てみたい。
 
 プチプチ弾けるロゼのワインを片手に、僕は僕の手で作った地獄を観賞するんだ。人々が阿鼻叫喚に喘ぐ映像を嘲笑いながら、なにも知らない人々の欲望と羨望の眼差しを独り占めにして、僕は世界の中心に君臨する。

 そこには孤独なんてない。寂しいなんて些末な感情すら発生しない。周囲から発散される、単純な感情のうねりに意識が同化して、僕が彼らになり、彼らが僕になる。

 なのに、もうどうしようもない、最果てまで来てしまった。

 闇の中で意識を漂わせながら、僕は幼い僕の意識をすくいあげてだきしめる。幼い僕が幸せだった時の香り――春風の中で揺れるタンポポの香りを。

 その匂いを吸い込んで、僕は深く深く、過去に戻る。
 避けて通れない過去を。変えることのできない過去は、一方通行の道路に似ている。狭くて、大切な標識が見え辛いところが特に。

 場面は入学式で、小学校の体育館であいうえお順に並んだ僕は、隣の女子の列が騒がしいことに気が付いた。

 この時、僕は知らなかった。もし、伯母のように未来を視る能力があったら、別の小学校に行きたいと駄々をこねていた。
【彼女】と出会わなければ、僕はまだ、人に対して優しい、かなりまともな部類の人間になれたはずなんだ。

 壇上にいる校長の長い話を無視して、一部の子供たちが騒いでいる。宥める先生の声と、耳障りな泣き叫ぶ女の声。

「う”え”ん”っん”っん”っ! え”っ! え”っ! え”っ! え”っ!」

 なに、この声?

 なき声だとしても、鼻が詰まっているのか、かなり濁っている声だ。動物の唸り声に近く、そして虫の鳴き声のように甲高い。そこにたしなめる教師の声と共に、くすくすと小ばかにする子供たちの声が聞こえてくる。

 聞いているだけで、かなり最低な気分になる音の洪水だった。
 小学生の僕はよせばいいのに、列をすこし離れて音源をさがした。
 幼稚園の頃の僕はかなり慎重だったのに、小学生になった僕は友達が出来たことで気が大きくなっていた。
 好奇心に簡単に負けて、僕は自分で自分の首を絞めた。

 そこには彼女――熊谷 満子《くまがい まんこ》がいた。

 彼女はブスだった。着ている服も所々にシミがあり、風呂が入っていないことが分かる脂ぎった髪と、垢の黒い塊がついた茶色の肌。顔の産毛は黒い針金のように剛毛なヒゲが顔中に生えて、体が毛むくじゃらなうえに、ムダ毛に垢の塊が絡みついている。
 生ごみそのものの臭さに加えて、見た目も最低で、顔の造作も、豚を連想させるほどに醜い。

「あだじは、わるぐないい”っいぃぃいいぃ”っ!」

 泣け叫ぶ声が体育館に響いた。
 さすがに校長も話を中断させて、担任の教師に指示を送るが、子供たちは止まらない。

「ブスブスドブスぅ。もりにかえれ、ぶたどぶす~」

 手を叩きながら妙な節回しで煽る男子。
 そして。

「じね”っ! お”ま”え”、じね”っ! あ”だじば、ぶずじゃな”い”っ!!!」

 まるでヘドロ色の濁った池の水みたいに、くぐもった甲高い声を上げながら地団太を踏む女子。ヒゲだらけの顔を真っ赤にして、だんだんと地団太を踏む太い脚には茶色く変色した靴下と、翻るスカートからは白いパンツが見えていた。

「あたじはぶすじゃない~、あたじはぶすじゃない~、あたじはぶすじゃない~、にんげんでもな~い」

 パチパチパチパチ。

 女子の反応がよほど面白かったのか、男子の方は増々ヒートアップして、女子の言葉をオウムがえししながら手を鳴らす。あまりにも楽しそうな雰囲気にのまれて、周囲の男子の女子も手を叩いて囃し立て始めた。

「あ」

 うっかり、僕も手を叩きそうになって愕然とした。
 マスク越しに、自分の顔に触れて、自分がどんな存在なのかを思い出す。

 ブスブスドブス。みにくいお前が学校なんて来るな。

 吐き出しそうになった言葉を無理やり呑み込み、苦くて苦痛の伴う味が口の中に広がって行くのを感じた。だってこれは、僕にも向けられる言葉だったから。

 醜い僕には、誰かの容姿を嘲笑う資格なんて、初めからないのだから。

【つづく】


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