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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_34_閑話 02

 1969年。中学に入って早々、親元から離れて学生寮で同級生と生活することを選択した福田は、早くも後悔していた。

 カルチャーギャップ。そんな言葉が脳裡によぎり、図書館で借りた三島由紀夫の書籍をお守り代わりに、麗しい美貌のルームメイトに視線をむける。杉藤 貴子は興味深そうに福田が読んでいる本を見て、そして神がその手で形作かたちづくった二重の瞳を瞬かせた。

 男子寮は個室だと聞いていたが、女子寮は二人で一部屋。狭いベランダに狭い部屋。二段ベッドとタンス、小さな丸いテーブルに窓側には机が一つ置かれている。福田がテーブルで本を読んでいて、その横を貴子がまじまじと見つめる様子は、心臓に悪く、そして妙な心地よさがあった。

「ねぇ。この人、たぶん来年あたりに死ぬわ」

 トンッ。と、貴子の指が本の表紙をつついた。おそらく、著作者の名前が印字されている部分だろう。なにげなく、だけど心の奥底に際限なく潜っていきそうな彼女の声。

「この人、って、三島由紀夫が?」

「えぇ。そうよ」

 確信を持った物言い。彼女は時折、予言者めいたことを言って、周囲を苦笑させていた。普通の人間だったら、頭のおかしい人間として周囲から排斥されるが、彼女は違う。B県B市に近接している山中崎の杉藤家だ。

 恐ろしく醜い顔を持ち、神がかった力を持つ杉藤家の噂は、入学して早々、県外から来た新入生たちをカルチャーギャップの谷底に突き落とした。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 1970年。杉藤 貴子とはそこそこ仲良くなったが、未だ福田は彼女の美貌になれることはなかった。美人は三日で飽きるどころか、彼女の美しさには脳をとろかせる中毒性があり、魔性という単語がしっくりくる。

 福田は美しさに憧れているが、貴子の美しさを羨ましいとは思えない。彼女の美貌に心奪われた男共は、彼女の関心を引くためにあの手この手と、貴子の心を傷つけたり、持ち上げたりした。顔面の美しさだけで、これだけ態度がころころ変わる様は、見ていて不快であり滑稽。福田の中で、男に対する尊敬と信頼は、貴子と過ごすごとにごりごりと削られていく。

「ねぇ、どうにかしてくれないかしら? 杉藤家だから、そのくらいできるでしょう?」

 ある日、寮の玄関で先輩らしき女生徒が貴子にキツイ言葉を浴びせていた。要は、杉藤貴子の美貌に目がくらんだバカが、女子寮へと押しかけようとしたらしい。

「ちょっと、先輩! 悪いのは分別のない男です! 貴子は悪くありません」

「!」

 福田は思わず助けに入った。この時ばかりは、杉藤貴子はどこにでもいる、14歳の普通の少女に見えたから。貴子はものすごく驚いた顔で福田を見て、キラキラした視線を彼女に向けるようになったが、福田は気づかない振りをする。

「ねぇ、エミコ。どうしよう、利信としのぶが告白してきた」

 突然のことで福田は驚いた。利信とは三年の先輩――園生 利信そのう としのぶのことだ。貴子のことを「ブス」「キケイ」と、口汚く罵ってはやし立てている男子の一人だ。

 信じられない。好きだというのなら、なぜ、あんなひどいことを言うのだろうか。同じ杉藤家につかえている五代家の子が止めない限り、利信は時と場所を問わずに貴子に暴言を吐き続けた。

「信じられない。アイツ、自分の顔を見て欲しいわね」

 友人がきっぱりとした口調で言うと、貴子の顔がぱあっと明るくなる。心底救われた顔で、美貌を笑顔で華やかに彩っていく。

 この時、中学の福田は知らなかった。杉藤家から施設管理や土地を運営していた園生家の勢いは、高度経済成長の好景気も背景に、杉藤家をしのぐ勢いがあったのだ。

 もしも、園生家が本気で貴子を欲しがっていたら、彼女に断る権利はない。杉藤本家の血筋であるが、杉藤顔ではないどころか絶世の美貌という――杉藤家にとっては醜悪極まりない顔をもつ彼女の立場は、ものすごく低いものだった。

 だれも、彼女を助けないどころか、貴子自身も助けられるという発想を持ち合わせていない。

 福田を通じて、貴子は世の常識を己の中ですり合わせて、貴子自身もカルチャーギャップに悩んでいたのだ。

 その年の11月。杉藤貴子が予言した通り、三島由紀夫が割腹自殺して果てた。発作的な自殺ではなく、後の三島事件を起こした末の自殺だった。憲法改正をめぐってクーデターを呼びかけて、そして失敗した。

 福田はの死を惜しんだ。三島由紀夫特有の、生真面目さを感じさせる、整っていて品の良い文章が好きだった。

 ただ、彼の愛国論にはついていけなかった。

 特に、唯一の被爆国だからこそ、日本は核武装をするべきという。

 彼の考え方は極端すぎて、ありえないと思考停止してしまう。

 ただその当時は、終わりの見えないベトナム戦争やソ連、中国の毛沢東もうたくとう存在が、世界に大きな影を落としていたことは確かだ。

 そんなことを貴子に話した時、彼女はこう言った。

「山中崎のどこかに、核爆弾が眠っているって噂があるんだけど」

――信じる?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 1971年。夏の日――福田と貴子は病院に入院していた。野球部が女子寮を襲撃して、難を逃れた二人は警察に保護されて、大人たちの厚意で同じ部屋で療養することになった。

 福田はショックや恐怖よりも、貴子の心が壊れないか心配になった。誰かが言ったのだ。こんなに美しいなんて、襲ってくださいと言っているようなものだと。

 なんて、心無い言葉だ。

 だが、福田が思っている以上に周囲の反応は貴子に関して冷ややかで、自衛しない彼女を糾弾するのだ。

 お前美しい顔をしているのが悪い。男たちはお前の関心を引きたくて、暴走したのだ。だから、悪くもない。罪もない。と。

 暴走した男たちの性欲のはけ口にされて、寮から逃げようとした女生徒たちの何人かは、ベランダから落ちて重傷を負った。貴子や福田がしたように、避難はしごを使う余裕なんてなかった。

 男たちに蹂躙された被害者たち。ベランダから落ちた重症者たち。彼女たちの扱いが、男子よりも軽く、正義よりも世間を気にする大人たちに、福田は強い失望を感じた。

「ねぇ。本来の歴史だと、エミコはベランダから落ちて死んでいるの」

 隣のベッドで、貴子が言う。

「私、エミコ以外の寮の女子が嫌いだった。だから、エミコを助けたのは後悔していない。だけど」

「大丈夫。私もみんな嫌いだから、助けてくれてありがとう」

「……っ。あなたは、いつも、私を喜ばせる。私は、どうすればいいの?」

「どうもしなくてもいいよ。友達じゃない」

「友達……、たぶん、私の友達は生涯であなただけね」

「それは、おおげさよ」

 この事件のせいで、福田は転校を余儀なくされた。

 見送りで貴子と貴子の弟の杉藤 和樹すぎとう かずきがついてくる。いまにも泣きそうな姉の横で、ニヤニヤ笑う和樹を見ていると、つくづく貴子が不憫でしょうがない。

「私、私、なにも出来なかった。私、杉藤なのに、あなたを守れなかった」

「そんなに、自分の無力さを嘆くなら、当主を目指せばいいよ。貴子、頭が良いんだし、未来を見れるなら鬼に金棒でしょう」

 それは、彼女の両親が教員で共働きだからこその発想だった。まだ70年代、女は結婚して子供を産み、家庭を守ることが主流。女が働くこと自体の発想がないに等しく、福田の発言が貴子に大きな影響を与えた。

「私が当主に」

 信じられないような顔で、貴子は美しい顔を希望で輝かせて、隣にいるブサイクな弟の顔が見る見るうちに曇っていく。

「私、杉藤家の当主になるわ! そして、エミコと結婚する!」

「はははは。冗談だけど嬉しいよ」

「冗談じゃないのに」

 本当は貴子の気持ちに気付いていた。こっそり寝たいる時に、福田の唇にキスをしていることも、寝ている間にパジャマが乱されていることも。貴子も福田も、男に対して嫌悪と不信感が強く、もう普通に恋愛対象として見られない。

「またね」

「うん」

――またねって言ったのに……。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

1973。

 それから、福田と貴子は文通と電話で交流した。

 目に見える現実や肉体が、そこに介在しないからこそ、寮で生活していた時よりも饒舌に感情的に、二人はお互いの心をいたわり合った。

 福田の家には誰もいない。父も母も必要最低限のことをして、仕事に励み、我が子を腫れもののように扱って放置する。

 だが、そのおかげで存分に二人は二人の世界を構築して堪能した。

 他人の不幸なんて必要のない、お互いの不幸を花蜜のように吸い合って自己完結する。

 とても満ち足りていて、幸せな世界。

 いつまでも続かない、少女たちの儚い夢。

『どうしよう、エミコ。私、私、顔を崩れちゃった、杉藤顔になっちゃった……。どうしよう、いやだ。イヤだよ。これじゃあ、エミコを迎えに行けない。エミコと友達でいられないよ』

 高校二年の秋ぐらいだった。お互いに修学旅行の時期で、旅行先が違うから、帰ってきたらお土産を送り合おうと話していた。

 だが、福田を待っていたのは、貴子が男たちに襲われたこと、そして彼女の美しい顔が崩れたことだった。

 電話口で事の成り行きをぶちまける貴子に、不思議と福田は奇妙な安らぎを覚えていた。

「よかった」

『え?』

「あなたが無事で本当に良かった」

『――』

 これで貴子は解放される。だから、生きていてよかったと思った。それが、杉藤貴子にとって、新しい地獄の始まりだとしても。

『エミコはっ! なんで、いつも、こうなのっ! 本当のこと言ってよ! きれいじゃない私なんて、意味ないでしょう!!!』

 かわいい。かわいそう。大好き。福田は自分の抱いている感情が歪んでいることを気づいている。貴子の苦悩を感じられて嬉しい。彼女が激情をぶつけてくれて、感動している。あなたの美しい顔が歪んでいることを喜んでいることを、世界で一番祝福しているのは自分自身だと。

――愛している。

『いやっ、いやっ、違う。嫌わないで! 貴子! あなただけは、あなただけは、私を嫌わないで!』

 大丈夫よ、貴子。私はずっとあなたの友達だから。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 1974年――高校三年の冬。

『お前、もう、杉藤 貴子に関わるな』

――ガチャン!

「……なんなの?」

 最近変な電話が多い。ヘリウムガスでも吸っているのか、不自然に甲高い声で『杉藤 貴子に関わるな』と脅してくる。山中崎向こうでは、なにが起こっているのだろう。

 貴子は無事だろうか。顔が崩れて一時期かなり凹んでしまったが、男たちに性欲の対象として見られなくなったことに気付いて、最近はこの顔でもいいかもしれないと立ち直っていたところだ。強がっているのかもしれないが、彼女が前を向いてがんばっているのがひしひし伝わってきたというのに。

『――おう、福田。久しぶり、オレだよ、オレ』

「園生先輩ですか? 久しぶりです」

『いや、兄貴の方じゃねぇよ。クラスメイトの方の園生だよ』

 そういえば、いた。兄の方が悪目立ちして、覚えていないのが本音だが。

 というよりも、どうやって私の家の電話番号を知っているんだ。

『お前、いま。どうしてこの電話番号知っているかって、思ったろ?』

「うん、最近、変な電話が多くてね」

『あぁ、やっぱりか。実は貴子さんの弟いただろ? アイツの仕業なんだ。学校行かずに何やっているのか、ウチが調べることになってな。あっちこっちの電話BOXでお前んとこに電話かけまくっているんだ』

「…………なんで?」

 時期的に考えて、大学の受験を妨害しているのだろうか。

 それともまた、べつのことがおきているのか。

『なぁ。唐突だけど、今度こっち行っていいか? ちょっと確認してぇことがあるんだ?』

 福田の問いに答えず、一方的にまくしたてる、かつての顔も覚えていないレベルのクラスメイト。

「……」

 彼の申し出に、福田は少しイラっとした。女子寮を襲撃されて以来、男性に対して強い嫌悪感を感じるものの、なんとか折り合いをつけて生活し、共学の学校でもなんとか通えていたのだ。

 こんな状態で、同年代の男子と一対一なんて拷問だ。福田に対して無神経この上ない。

「条件があるわ。貴子か貴子以外の女の子を連れてきて」

『はあっ! なんで!』

 声が裏がって、元同級生を詰る利喜に福田も声を荒げる。

「こっちは、野球部に女子寮を襲撃されて以来、男が怖くて仕方がないの!   男と二人っきりになりたくない! こうして、電話で会話しているのも結構苦痛なのよ! わかってよ!」

『……』

 感情のままに怒鳴り散らすと、受話器の通話口から沈黙が返された。このまま、電話を切ってしまおうか考えていると「ごめん」と、心底すまなさそうな声で詫びてくる。

『内々で済ませたいから、ちょっと女子は連れていけないし、貴子さんはちょっと難しいんだ』

「どういうことよ?」

『なぁ、福田は呪いを信じているか? 貴子さんの顔が崩れて以来、かなりうちの周りで人が死んでいるんだ。一部の人間では、杉藤貴子の呪いだって言われている』

「……その根拠は?」

『ない! だけど、みんな噂している。うちの周りのたくさん死んで、このままじゃ、宮藤みやふじ家やかさね家、降矢ふるや家も断絶だ」

 利喜の出した名前は、確か貴子が話してくれた杉藤家を支える家の名前だ。

「その家も、確か平安時代から続いているんでしょう。いままで家系が途絶えなかった方が不思議じゃない。これは自然現象よ。寿命が擦り切れた大きな老木が一気に倒れたに過ぎないわ」

『お前はここにいないから、そう言えるんだ』

「そうかもしれない。だって、私は貴子が大丈夫ならそれでいいんだもの。それじゃあ、切るわね」

『ちょっと待ってくれ、どうやれば呪いは解けると思う?』

「呪いって言うけど、それじゃあ貴方のお兄さんは死んでいるの?」

『いや。ピンピンしているけど』

「じゃあ、呪いじゃないわよ。あんなに貴子をイジメておいて、ずうずうしく告白する最低野郎を、呪いが使えるなら貴子が生かしておくわけないじゃない」

『いや、貴子さんもじつはまんざらでもなかったって、可能性があるじゃないか。いやよいやよも好きの内って』

「はぁ~っ!」

 たまに思うのだが、男はどうしてこうも都合よく脳内補完するんだろう。そして周りも、女子の痛みを無視して、相手はあなたのことを好きなんだから大目に見ろよと、ガマンを強いるのだろう。

「ばっか! じゃない! おまえたちなんか、全員死んじゃえばいいんだ!」

 福田は受話器を置いた。

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 1975年。

『貴子、ごめんね。和樹が迷惑をかけたわ。半殺しにしてやったから、もう安心よ』

 利喜から話を聞いたのだろう、電話で貴子が謝ってきた。福田は安心する、文通もしているが、やはりこうして声を聴いていると、声の中に含まれている相手の感情が伝わってくるからだ。

『ねぇ、来年の成人式。山中埼に来て欲しいの。こんな顔の私になっちゃったけど、私、エリコに会いたい』

「いいわよ。だけど、ここから遠いからちょっとした小旅行になっちゃうから、泊まるところおさえないとね」

『ありがとう』

 なんで、もっとあの時、話せなかったのだろう。

 この関係がずっと続くと思い込んで後悔する。

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 1976年。

『ごめん! 貴子、こっちに来ちゃダメ! 和樹のヤツ、バカなことしようとしている。エリコが来たら、きっと、あなたは殺される』

 突然の電話だった。まだ宿を探している途中だったから、彼女のストップのタイミングはとても絶妙だった。

「あなたは大丈夫なの? 貴子」

『大丈夫』

 と、言いつつも、貴子の声は疲労で沈んでいる。そんな状態の彼女に、向こうでなにが起こっているのかは聞くのは、酷な話だろう。

「1999年が来るよりも早く、いま、この瞬間に、世界が滅んでしまえばいいのに」

 自分の無力さがもどかしい。

『え?』

「あ、ごめん。貴子がよく、言っていたことを思い出しちゃって」

『……そうなの』

『『…………』』

 そう、だれかこの下らない世界を終わらせてほしい。

『じつはね、私、山中崎のどこかに、核が眠ってるかわかっちゃったかも』

 なにかの覚悟を決めた、意志を感じさせる声。貴子の声はすっきりしたような、透き通った響きを帯びていた。

 いつか話してくれた、杉藤家が密かに所有している、存在してはいけない核爆弾。もしかしてそれを。

『私があの核を爆発させたら、戦争が起きるかしら?』

「そうね。確実にソ連が反応するわね」

――けど、結局、なにも起きずに、なにも変わらず。

 貴子とはこの電話を境に手紙も途絶えて、二度と会うことはなかった。

 後に、貴子が園生家の連中を、杉藤の屋敷に住まわせていると聞いて、分かったのが一つ。

 杉藤貴子は勝負に出て、そして負けたのだ。

 彼女の瞳にどんな未来が映っていたのか、結局はわからないまま、福田は大人になり、世界が滅ぶとされていた1999年すら過ぎて行った。

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 1989年 2月。

 仕事から帰ると、部屋の空気感に違和感があった。

 まるでたくさんの人が出入りしたような、埃っぽい匂いと部屋の温度。

 懐かしくも忌まわしい気配に、心臓がバクバクと音を立てて血液を巡らせる。

「やられた――ッ」

 本棚に並べられた本が、乱雑に、ここぞとばかりに並び替えられている。福田は作者の順で本を並べているのに、福田の神経を逆なでするかのようにランダムに並べ替えられた上に、アルバムが一冊抜かれていることに気付いた。

 盗人は、わざと気づかせたのだ。

 彼女の大切なものが奪われたことを。

「あ、い、つ」

 わかっている。証拠なんてないけど、福田に対して、こんなことをする人間は、ただ一人杉藤 和樹しかいない。

 まさか、こんな蛮行におよぶなんて。

 考えを巡らせて、ふと心配になった。

「貴子、貴子になにかあったの?」

 他者から思い出を奪う蛮行。そこまでするに至った原因と過程を想像して、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。

 そこまでするほどの出来事なんて。

「うそ、うそよ」

 人はいずれ死ぬ。分かっているはずなのに、体中に無数の穴が穿たれたような、痛みを伴う虚ろな感覚に全身から力が抜ける。

「あぁ……」

 悲しいけど、涙が出ない。

 数ヶ月後、杉藤貴子の訃報を風の噂でり、福田は杉藤 和樹をゆるすことにした。彼は福田から思い出を奪おうとしたけど、杉藤 貴子が救った命がこの身に宿っている。

 だとするなら、私と貴子の絆はこの程度で途切れない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 1996年、某日。

 女子寮の事務所で仕事をして、女の子たちが全員就寝したことを確認して家に帰る。そんな生活が続いていた。

……のに。

「だからー、やばいことなんてしてないわよ。ちょっと小遣いもらっただけだし。反省しているから」

 女生徒はめんどくさそうに、福田の追及を逃れて自室に籠城する。

 福田はため息をつき、このことを誰に相談すればいいのか頭を悩ませた。

 若いからと、若い頃の自分と重ねて門限を大目に見たのがいけなかったのだろう。

 朝帰りはしないが門限を破り、堂々と男に送り迎えをしてもらう。

 寮のカメラにはばっちりと、女生徒と成人男性がキスするシーンが記録されていて頭が痛い。

「理解できないわ」

 帰り支度をしながら福田は呟いた。

 レイプされそうになった過去の痛みが、じわりと胸の奥で血を流している。

 売春。と、テレビでよくある、バカなこと。

 若い体と引き換えに、大人の男性から金品をもらう。

 生活に困っているわけでは決してない。足りない自己肯定感を男に抱かれて補充する行為に吐き気がこみあげてくる。

 こんな女の子たちのせいで、男は女性を軽んじていいと勘違いして、性犯罪に走り、関係ない女性が被害に遭う。

 最低なスパイラルの完成だ。

 福田は家に帰り、パソコンをインターネットにつないだ。

 よくあるコミュニティサイトにアクセスして、日常では吐けないグチを吐く。

 意味のない日々、意味のない生活、意味のない自分。

 両親が今年で四十になる、娘に関心が薄いのが幸いだ。

 世間一般の当たり前を押し付けてきたら、辛うじて保っていた自分自身が一気に崩壊してしまう。

 貴子が死んで、自分が生きている居た堪れなさ。

 この命は、自分だけのものではないと分かっているのに。

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「ねぇ、福田さん。福田さんはどんなサイトを覗いているの? ハンドルネームとか教えてよ」

 なれなれしい。と、思いつつも相手にしているのは、女子寮の子が売春している事実を直視したくなかったのだろう。

 かつての同級生の甥。杉藤和樹の息子も同じ学校に通っているが、福田はなるべく関りを持とうと思わない。

「ねぇ、エリコさんー」

 園生緑は黒い瞳を潤ませて、自分が恐らくかわいく見えるであろう角度に首をかしげる。甘える時には福田を下の名で呼び、相手の快と不快をちょうどいい塩梅で引き出してコントロールする。

 はっきり言って、かなり危ない相手だ。そんな危ない相手とお茶をするのがマシな現実に、福田は自嘲がこみあげてくる。

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 園生緑は、貴子と暮らしていたと利喜から聞いている。

 だけど福田は彼から、貴子のことを聞くことはない。

 聞いたら最後、自身の破滅に直結すると分かっていたら。

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 1997年。

「福田さん。どうしよう、友達が野球部の顧問に狙われているんだ」

「そうなの」

 どこでそんな情報を仕入れたのか、福田は訊かないことにする。

 園生 緑は器用だった。鍵をかけていたにもかかわらず、事務所に入り込んで福田に構ってもらおうとしたことがある。

 確か、その生徒の名前は早瀬 樹はやせ いつきといったっけ?

 噂ではイジメの主導をおこなったり、自殺を教唆したり、不自然な行方不明や恐喝や放火等、行く先々で騒動を起こしている問題児。質が悪いことに決定的な証拠を残さず、未成年ということもあって、被害者は泣き寝入りをするしかない――と、聞いている。

 当初では、早瀬は男子寮の四階か五階に入寮させて、杉藤 俊雄と接触させない方針だったのだが。

『四階は縁起が悪ぅ、五階は上り下りがしんどうてイヤや』

 という経緯で、彼は三階に入寮した。

 大人たちは彼が杉藤 俊雄を陥れるかと思ってヒヤヒヤしていたのだが、結果は予想以上に仲良くなり、問題行動を起こさず、模範的に学校生活を過ごしている。

 そんな早瀬が、野球部の顧問を監督不行き届きで謝罪させたのは、学校関係者に大きな衝撃を与えた。悪い意味ではなく、良い意味で。

 友人のために動く早瀬の、あまりにもまともな行動は彼の悪評に一石を投じ、同時に野球部の問題を浮き彫りにした。

 顧問である真田は二軍であったがプロだった。だから周囲は彼の手腕に期待していたのだが、結果は部員たちの傍若無人ぶりが証明している。

 中学生男子の自尊心をうまくくすぐって、部活のやる気を出させているらしいが、集団で窃盗や万引き、イジメまがいなことまでして大人たちの頭痛の種になっていた。何度か全国に行った実績がなければ、野球部はとっくに廃部になっていただろ。

 人間が集団になると一気にバカになる。夏休みがそれが顕著に出て、男子寮の庭にあるミニヒマワリを全部引っこ抜くという、幼稚且つ悪質な行動に出た。

 話を聞いた時、福田は眩暈を感じた。

 なぜならそこは、かつて女子寮があった場所だから。

 自分の過去が踏み荒らされたような理不尽に、震えが止まらなかった。

 それがどうだ。早瀬 樹によって事態は解決した。

 衆目の中、頭を下げる真田に溜飲が下がったのを覚えている。

 自分より格下の少年へ謝罪した。

 これを機に、大人としての責任と態度を改めて欲しかったのに、真田は荒れる一方で、女生徒に手を出している噂まで出始め、今年の夏の大会は散々な結果に終わった。

 全部、アイツのせいだ。そう思ったにちがいない。

 あの男にとっては、その年の一年を受け入れるために、三階のフロアまるごと汚い手を使って、在学生から奪い取ったのだ。恩をあだで返されたと思ったのだろう。

――あぁ。ついていけないわ、どいつもこいつも。

 だから福田は思いついてしまった。

「ねぇ、緑君。良い考えがあるんだけど」

 売春している女生徒の個人情報を彼に教えて、仕事で使っているのとは別の、予備のパソコンを貸し与えた。

 やることは単純。複数の別垢を使って書き込みを行い、顧問の真田と女生徒を引き合わせる。そこに、性格に問題がある男子寮の寮長が絡めば、問題は坂を転がる雪玉のように大きくなり、目障りな奴らは一掃される。

……そうなればいい。

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 1997年 某日。いつもの喫茶店。

「顧問のヤツ、ぼくの嘘にまんまと引っかかってチューを殺しちゃって、焼身自殺。本当にバカだよね」

 ネタバラシを披露する園生 緑は心底楽しそうに笑った。

「おかげで、売春していた子《《たち》》も実家に逃げ帰ることになったわ。ありがとう」

「うんうん。エリコさんが喜んでくれて、ぼく嬉しい」

 これは誰にも知られてはいけない黒い過去。

 死んだら、貴子親友のいる天国に行けずに、地獄に堕ちるしかないのだろう。

 私は復讐したかった。

 因果応報を下したかった。

 女子寮を襲った男子生徒たちは、大人になった途端に周囲から梯子を外されて、見事に落ちぶれたと聞いていく。プロでもない、野球しか取り柄がない上に、自分より弱い者をイジメるのが好き――そんな人間を受け入れられるほど、社会は優しくない。

 最初に寮を放火した男も、なんの因果か貴子を襲った人間の一人だ。ホームレスに落ちぶれて、放火を行った彼は今、刑務所で規則正しい生活と三食のご飯という、罪人らしからぬ人間らしい生活を送っている。

 許せないわ。絶対に許せない。

 自分が動かなければ、望んだ因果応報は下されない。

 福田は壊れた。過去、現在、未来をごちゃまぜにして、自分の人生を狂わせた奴らを罰したかった。無関係な人間を野球部つながりでくくって、人生を狂わせて、気に入らない女の子たちに、一生残る傷を負わせた。

 自分は悪魔そのものだ。

「ちなみに、顧問になんて吹きこんだの?」

「えっとね。……チューは裏切るつもりだよ。男子寮の事務所にあるパソコンに、真田が関わっていた売春の証拠やデータがあって警察に提出する予定だって。ね。警察に絞られて、精神がおかしくなっていたからあっさり信じちゃったんだ。おかしいよねー。そんなのがあったらとっくに押収されているのに」

「そう。じゃあ二回目の放火は、証拠隠滅のつもりだったのね」

 ふふふふふ。

 ははははは。

 笑え笑え笑え。もう、自分自身の不幸に酔うしか、生きる悦びと実感がわかない。人としての福田 エリコはもう終わっている。

 杉藤 貴子が自分の命を救わなければ、こんな恐ろしいことは起こらなかった。

 もう後戻りが出来ない。

 どうしようもないのだ。

 だから、許してほしい。

「そういえば、神戸から来た転校生って、寮や学校でうまくやってる?」

「うん。中身空っぽな従順バカで、案の定、杉藤君のお気に入りになったよ」

「そうなの。なんの問題がないなら、それでいいわ」

「ちょっと、その言いまわし気になる。あのチューも物部君に気を使っていたし、なんなのさアイツ」

「詳しくは知らないんだけど、家庭にちょっと問題があってね」

――実のお兄さんに命令されて、お兄さんの子供を殺しちゃったのよ。

 まだ赤ちゃんだったのに……。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 2000年某日。

「お前がっ、お前がっ、姉さんの骨壺をに盗んだんだろう! 姉さんを返せ!」

 運命は再び巡る。

【つづく】

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