メンズメイクと新時代の男性性
僕はもう2ヶ月近く、外を出る前には1時間程度メイクとヘアセット(大部分はメイクに)使っているのだけれど
それはジェンダレスな世界の男性による女性性の獲得というよりもむしろ、日本における高度経済成長期、西海岸におけるカーボイ的なマッチョイズムに起因しているような気がする。
つまり僕は、昭和の男性が車によって身体拡張を行い男性性を獲得したように、
メイクによって男性たろうとし、開拓時代のカーボーイたちが馬とカーボーイハットで強い男性たろうとしたように、目の周りの色を変え、鼻筋にハイライトを入れることによって男性たろうとしているのだ。
少し飛躍した考え方にはなるだろうが、現代の男性性はきっとここにある。
そこまで大きなことを言わずとも、少なくとも僕の男性性はこれによって強化される。
自己否定によって塗り固められた顔面の上に、上書きをするように自分以外の否定されざるものを上書きすることによって自身の否定の及ばないものへと身体を拡張する。
それによって自己否定によって捨てられた男性性を回復し、社会性を保つ。
過去、男性性の大きなコンセプトの一つが自立であった。ドライブ・マイ・カーの家福が誰にも頼らぬように車という個人の空間に身を置き、アルミやカーボンの外装にのみ社会へ触れることを許していたように、男性性的自立と社会性の喪失はある種ひとつのセットであった。しかし、メイクは他者に容易に触れられるものとなっている。
車の中に籠るのではなく、家の外に出るための手法的意味がそこにはある。それ故に、古典的男性性と孤立、無頼は切り離されて現代の男性性としての社会性を持った男性性を獲得する。
かつての社会には男性が、家庭には女性がいるという環境は終わった。
男性がそれぞれのマッチョイズムで高めあうのではなく、性別が関係なく互いに融和して手を取り合うのが今の時代なのだ。
その中で、男性が男性たろうとするマッチョイズムもまた変容することはおかしな話ではないだろう。
僕の考える新時代の男性性はここにある。
メイクという新たな身体拡張によって、ジェンダーを越えた融和と協調を図る。これこそが新時代の男性性であるような気がする。
そんないいわけを考えてみれば
僕の朝の1時間にはそんな意味があるような気がする。
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