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数千の祝福を受けた生

私が産まれたその日、数千の人たちがその生に対して祝福を与えた。

きっと、イエスキリストですら生まれたその日から何千もの人たちに見られることはなかったと思う。
でも私の顔と名前は、この世に生を受けて24時間もしないうちに多くの人が知ることとなった。もちろん生まれたばかりの私にそんなことは知る由もないし、それを判断する意識もない。だってしょうがないでしょう?生まれたその日の記憶がある人なんてどれだけいるのだろう。

私の成長は、ほぼ毎日多くの人に見届けられた。
初めてパパとママにお風呂に入れてもらった日も、初めてママと呼んだ日も、初めて歩けた日も、なんてことのない日常も。
産まれた時代が悪かったんだと思う。できることなら、こんな時代に生まれたくなかった。パパやママが産まれたような時に生まれていれば、こんなに多くの人に毎日見られることはなかったんだと思う。

私のママは、私が産まれる何年か前までアイドルをやっていたみたい。
そんなに売れていない地下アイドルの一人だったんだけど、それでもやっぱりファンは数千人はいたと何度も聞いてきた。私は物心つく前からYouTubeにアップされたママの現役時代のライブ映像を見せられて育った。だから自然と踊ることが好きになったし、画面の前のアイドルと一緒に歌ってた。小さい頃は画面に向かって、「ママ、ママ」って言っていたみたい。今なら信じられないし、信じたくもないけれど、しっかりとその映像は残っているし証人も大勢いる。覆せない事実って言うのは自分の記憶よりも、他人の記憶やネット上に残ってしまう。

私は物心つく前からカメラに取られることは慣れていた。親にスマホを向けられれば自然とポーズをとっていたし、ママに言われた通りカメラの前でママのアイドル時代の曲を歌って踊ったりもしていた。そうするとママはすごく喜んでくれた。カメラにポーズをとれば、「かわいい」とか「やっぱりウチの子だね」と言ってくれた。夕食の時にパパに、「今日ナツキがね、カメラを向けたらね、やっぱりウチの子だなって思った。」と嬉しそうに報告してくれるのが何より好きだった。私を認めてくれるし、私がママの娘であると認めてくれるのは3歳とかそこらの子どもには一番うれしかったんだと思う。子どもにはパパとママしかいないの。それは愛情的な部分もそうだし、生活の部分もそう。もちろん当時、こうしないと私は育ててもらえないなんて考えてはいなかったけど、どうすればもっとママに褒めてもらえるかはずっと考えていた。有名な言葉に「自立とは、一人で立つのではなく支えてくれる人を増やすんだ」みたいな言葉があるでしょう?子どもって言うのはまさにその逆なの。支えは親しかいないの。だから親の機嫌を損ねるようなことはあってはならないの。

私は私の家庭が結構好きだった。パパはなかなか家に帰ってきてくれなかったけど、ママはずっと私の側にいてくれたし、いろいろなところに連れていってくれた。休日とか平日とか関係なしに綺麗なレストランだとか、大きな公園に連れていってくれた。毎日のように違う服を着せてくれて、そのどれもが子どもが着るにはもったいないくらいにはオシャレだった。今思っても本当に贅沢な生活をしていた。当時の服がなんで毎日違くてオシャレだってわかるかって?そんなの、全部載っているからよ。私の記憶よりも鮮明に記録は残っているの。

最初に驚いたのは小学3年生の時だった。私は初めてクラスの友達と一緒に渋谷に買い物に行った。パパやママが心配するだろうからって、友達のお姉ちゃんも付いてきてくれたんだけど、今思えば高校1年生のその人に何ができるんだって話よね。私は私と友達3人とそのお姉ちゃん1人の計5人で渋谷を楽しんだ。ママとは数えきれないほど来ていたけど、やっぱり子供だけで来るというのは全然気分が違った。すごくワクワクしていつもよりもずっと色が華やいで見えた。小学生のおこずかいでそんなに遊べるわけでもないから、109に入っているお店を周って、プリクラを取って、近くにあったガストに入った。初めてのファミレスだった。いつもいくようなお店とちがってすごくゴチャゴチャしているし、こんな近くの席で知らないおばあちゃんの誰かの悪口を聞くのも初めてだった。
私はとりあえず、友達のお姉ちゃんが頼んでいたのと同じハンバーグを頼んだ。そうしたらロボットが私のハンバーグを持ってきてくれた。何もかもが初めて尽くしで本当に楽しかったのを覚えている。記憶として。
ハンバーグを食べ終わって、友達のお姉ちゃんの高校の恋愛話を聞いているときだった。小学3年生にとって高校生の恋愛ってすごく大人な感じがするのよね。知らないおじさんがこっちをチラチラと見ているような気がして、そっちの方を見て見たら、おじさんはハッとしてこっちに近づいてきた。
「あれ、ナツキちゃんだよね。」
私は友達と顔を合わせた。「誰?親戚の人?」「知り合い?」などと口々に言葉があふれた。お姉ちゃんだけが引き攣った顔で私の目を見て「知ってる人?」と真剣に聞いてきた。
知らなかった。親戚はほとんど東京にはいなかったし、それ以外の知り合いの男性はほとんどいなかった。ママのアイドル時代のメンバーの旦那さんには何人か会っていたけど、そのどれもがもっと整った顔立ちをしていて、白く薄い髪型で、重力に逆らうことができずただ下に垂れるような皺を持ってはいなかった。
私はお姉ちゃんに向かって首を横に振った。知らない。知らない。と。
お姉ちゃんはさらに顔を強張らせて、おじさんに向かって
「すみません、どなたでしょうか?親戚の方ですか?」と聞いた。
おじさんは爛れたように下に落ちたほっぺたの皺を上に持ち上げて笑った。
「いやあごめんね。そうだよね。ビックリするよね。おじさんはね、ママがアイドルの時ずーっとファンでね、何度もライブに行ってたんだよ。だから、ナツキちゃんが生まれた日のことも、その後もずーっと見てきて勝手に親の気分になって話しかけちゃった。ごめんね。怪しいおじさんじゃないんだ。」
そう言っておじさんはニコニコと笑いながら手を振って去っていった。小学3年生の私の言語野では言葉を作れない奇妙な恐怖が私の脳裏によぎった。

ファミレスでのことを帰ってからママに報告したら、ママはすごく嬉しそうに「名前言ってた?どんな顔だった?」と聞いてきた。名前は聞いていなかったから、脳裏に焼き付いた記憶を頼りに「髪の毛が白くてあんまりなくて、すごい皺で、喋ったり笑ったりするたびにその皺が動くの。」と答えた。するとママは「あ~ヤジさんね。ヤジさんは本当にいい人でね、いつもママのライブに来てくれて差し入れとかしてくれたのよ。ナツキのことわかるなんて、今でも追ってくれてるのね。」と昔を懐かしむように左上を見ていた。

それから、中学生に上がるまでこんなことが何度か起こった。ある時は登校中に、またある時は部活終わりに友達とカフェに行った時に。話しかけてくる人はおじさんもおばさんもみんな悪い人ではなかった。みんなニコニコしていたし、時にはお金をくれる人もいた。みんなこぞって、「親の気分だ」と言っていた。私にはパパやママ以外に親が何人もいることをこの頃知った。

中学校に入って、スマホを買ってもらった。友達に言われて入れたLINEとInstagramとTikTokを始めた。「ナツキはかわいいしカメラ映りいいから絶対バズるよ」と言われた。でも、そんな気にはなれなかった。生まれた時から何をする時もカメラを向けられて、ママが喜ぶようにかわいい顔をしてポーズをとってダンスをしていた。ダンスは今でも好きだけど、ママのいないときぐらいママのために行ってきたことはしたくなかった。Instagramを初めて数日後、まだフォロワーも30人くらいで投稿もしていなかった時、ママからのフォローリクエストがあった。家に帰って確認したらやっぱりままだったから承認した。
すると数時間後にママからメンションされましたと通知が来た。
投稿を見ると「ついにナツキがインスタデビュー」と書いてあって、小さい頃からの私の写真が時系列ごとに並べてあった。私はゾワッとした。自分ですら私の写真をまだ載せていないのに、私の顔が何枚もそこには並んでいた。しかも何百を超えるいいねといっしょに。
もしかしてと思ってママのアカウントのホームに移動したら、そこには何枚も何枚も何枚もの私の写真が並べられていた。下にスクロールすればするほど私は幼くなっていった。そして、私は生まれたその日の姿を晒していた。投稿には約4500のいいねが付いていた。
それから、見ず知らずのひとからのフォローリクエストが止まらなくなった。自撮りアイコンのおじさん、車アイコンのおじさん。ペットアイコンのおばさん。それまで友達がいなかったフォロワーに、大量の知らない人が流れ込んでくる気がした。そうして私はInstagramを削除した。

私はママに何も言えなかった。
何かを言うと途端に怒られそうな気がして。私は独り立ちするまではママの従順な娘でなくてはならないから。でも、これからはママのカメラはできるだけ避けよう。そう心に決めた。


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