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無の解説あるいは考察

 皆さんお久しぶりです。あの時助けていただいたカメです。とことこ……(荒廃した大地を、わずかばかりの歩幅で這って進んでいる。ここは太陽が消滅した世界。水も草木もなく、あるのは干上がってやせこけた土だけであった。)

 この記事において、気が向いたら書くなどと言ってから約二年が経過しました。短いようでいて、この二年間のうちにこれを書いた主体、のようなものは消滅したか、鳴りを潜めているような感じがします。ですが今はなんだかうまく説明らしきもの仮説1が書けそうな気がします。ちなみに「無」→「割れる存在」→この記事という順番で読んでいただけると一番楽しめるかなと思います!
それではいきましょう!

「生きているかどうかわからなくなる、存在しているということが存在することに圧倒される、思考の渦にのまれる」、などという表現がこの中で出てきています。これがどういった現象なのか、仮説が降ってきたので記録します。根拠は直感(!!)

 朝起きた時のことを回想してみる。目が覚める前、私は眠っている。身体は定位置にしっかり重さを持って存在している。では私の意識はどこにいるだろうと考えると、たいてい頭の中で作り出される幻想の世界に没入している。夢を見ている。

 夢っておかしくない?だって、いつ始まったのか知覚できないから。だけど続いていく。始点はわからないけど、いったん始まったらそれは続いていく。これは思考とも似ていると思う。一つ前の内容に従って次の内容が続いていく。そして次の次へ……と続く。
 例えばこの文章の思考過程も、一つ前で述べたことについて発展させ続けているだけで、いきなり最高点に飛ぶことはできない。
 ところで、無限に続く思考というのはない気がしている。どこかで「夢」が醒める。それは連想ゲームの体力が尽きてしまうような感じで、ふっと「現実」に意識が戻る。
 そのとき、思考は再び開始点から施行される。そのとき私は意識が断絶したような気がして思わず一つ前の瞬間の自分と、新たな思考の開始点にいる自分を見比べてしまう。そののち懐疑ループに陥る。懐疑すればするほど一つ前の、終了した思考は消し去られていく。そして懐疑を懐疑することで一つ前の懐疑から遠ざかって、ますます自己の連続性を疑うこととなるのだ。

はーすっきりした!!
これは過ぎ去った瞬間に書かれた文であり、また違う解釈を考えることがあるかもしれない。


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