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藤子Fマニアが見た「花束みたいな恋をした」

とある都会の喫茶店。イヤホンを片耳ずつ付けて同じ曲を聴くカップルの微笑ましい風景がある。ところが、そのカップルに対して遠くからいちゃもんを付けている男と女がいる。男と女は別の席に座っている別々のカップルだが、二人とも全く同じことを言っている。

同じ曲を聴いているつもりでも、右耳と左耳のイヤホンからきこえてくる音は同じではない。左右片方ずつ別の音を流して、それらが両耳で合わさり、初めて完成された曲に聞こえるように緻密に設計しているのだと。

だから、片耳ずつ聴くのを、止めさせないと。

そう言って同時に立ち上がる、男と女。二人は、そこで互いの存在に気が付き、注意に行くのを止めて、気まずく元の席にそれぞれ戻る。

イヤホンのウンチクから始まるこの物語は、同じ音楽を聴いていたはずのカップルが、実は異なる音を聞いていたことを4年かけて知るという、そんな話だ。

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女の子の名前は。男の名前は。似た者同士、いや、それ以上の生き別れの双子のような同一の趣味嗜好を持った二人の、出会いと恋、そして倦怠と別れが、共感しか覚えないセリフに包まれながら、怒涛のように突き進む。

この映画を観た人は、誰もが自分語りを始めてしまう、そんな我が事にさせるパワーに満ち溢れた作品だ。とっくに青春期を終えた自分でさえも、観ていて、心の奥の方の感情が疼いた。


大学時代。僕は上京してきて、一年くらいは真面目に勉強をしたけど、でもそこからは映画だったり、小説だったり、展覧会だったりと、サブカルチャーに興味が偏った。大学は部活かゼミか友だちとの待ち合わせの時だけ通った。バイトの日数は週2くらいだったのに、いつしか週5日くらいまで増えていった。

本作の中でラインナップが神だと語られている、都内の名画座・早稲田松竹や下高井戸シネマ。僕もここへは新しいラインナップが公開されるたびに通い詰めた。名画座で友だちとばったり出くわして、そのまま飲みに行く、なんてこともあった。

同じような嗜好の二人が、偶然出くわす訳が無い、と思う人もいるだろうが、積極的に同じ方向に関心を寄せて行動する人間たちは、バッタリと出会ってしまうものなのだ。

みんな、そういうことを何となく体感しているので、本作はどうしても他人事に思えないのである。


絹ちゃんと麦くんのこだわりについての一人語りの心地よさ、そして二人が一気に惹かれて合っていく時のワクワク感。特別なドラマが用意されているわけではないのに、とにかくグッと引き込まれてしまう。

押井守、ミイラ展、ラーメンブログ、芥川賞を取る前の今村夏子、アキ・カウリスマキ、天竺鼠、ロード・オブ・ザ・リング王の帰還(ロングVer)の上映時間、JAXAのエコバッグ、ゴールデンカムイ、「私んちの本棚じゃん」…。

やたらと固有名詞が飛び交うが、思い起こせば、青春期のカップルや気の置けない友だち同士では、まるで競い合うように、固有名詞の応酬をしていた気がする。固有名詞は青春の特権だ

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中盤以降、どこかで二人の関係が変化していく。ターニングポイントが曖昧なまま、二人の会話から固有名詞が消えていく。二人を結び付けたはずのイヤホンは、別々の音楽を聴く、断絶の象徴として使われる。

社会性や協調性は才能の敵だ。
社会に出ることはお風呂に入るようなもの。入る前は面倒くさいけれど入ると温かい。

二人の蜜月の時間は、最初は就活で削られ、就職してからは、さらに失われていく。絹ちゃんは、依然とサブカルチャーの湯につかり、「遊びを仕事に、仕事を遊びに」を実践し続けようとする。

けれど、麦くんは、イラストレーターの夢をなし崩し的に忘却させてしまう。「人生を変える」などという類いの安っぽい自己啓発本を立ち読みし、空き時間をパズドラで潰すようになる。あれほど好きだった小説が、息抜きにならない。目が滑って読めなくなってしまう。

この物語では、男の側が社会に取り込まれていくが、これは女だった場合もあるだろう。本作でも圧迫面接という世間の荒波に最初に揉まれたのは絹の方だった。絹はたまたま踏みとどまったに過ぎない。


本作を観ていて、カップルが成就し続けることがなんて難しいだろうと、つくづく思った。私たちだけは違う、そう思っていた二人のカラフルな世界は、年月とともに、着実に確実に色褪せていく。

恋の破綻と同時に、夢を見続けたまま社会へと突入していくことが、なんと困難なことかも、残酷に描き出している。就職せずにイラストレイターとして働きだす麦だが、長岡の実家から毎月5万円の仕送りを貰って、何とか生活を成立させていた。その仕送りが花火の支援金に回って、彼は定職に就かざるをえなくなる。

イラストの仕事も、発注者のLINEの一行で単価を下げられて、やがて打ち切られる。ちょっとした才能の芽を貪り尽くす「発注者」=社会の嫌らしさ。

社会から切り離されたところでは、二人は二人だけの世界でいられた。しかし、社会はジワジワと二人の世界に侵食してくる。特に、仕送りの話題が出た時に、二人はモラトリアムの世界にいたのだということに気付かされて、僕は心をかき乱された。なんて残酷なんだろうって。

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藤子Fマンガで、「劇画オバQ」という短編がある。この話は、もう子供ではなくなってしまった正ちゃんと、子供のままのQ太郎が、どんどん噛み合わなくなる様を「劇画」タッチで描いた衝撃的な一作。僕は「花束」のような青春の終わりを描く作品を見ると、いつも劇画タッチのQ太郎を思い出してしまう。ご飯食べすぎで家計が苦しい、なんていうセリフとともに。

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本作は、そうした辛い現実を見せつけながらも、最後まで誠意ある二人の人柄に救われて、ラストではとても爽やかな気持ちに包まれる。二人は、浮気をしたりとか嘘をついたりとか、そういう恋愛ドラマにありがちな不誠実な姿は見せることがない。絹と麦、二人を好きなまま見終えることができる。それが何よりも素晴らしいことのように思う。


若き日々に貪り尽くしたこと、描いた夢。
モラトリアムから20年以上離れたところに来てしまったけれど、僕の日々はその頃の糧で、まだまだ満ち溢れている。
素晴らしい花束を貰ったような気がする、そんな作品でした。

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