見出し画像

文章は平易で適切であるべし

本日も時間がないため、簡単ノートでお届けします。(と言っても1600文字超)

文章遍歴について。

自分が書く文章って、まずは人真似から始まるんだと思います。
僕で言えば、小学4年くらいに3ヶ月だけ続けていた日記が見つかって、それを読むと、安孫子先生の「まんが道」に出てくる日記とほぼ同じ文体でした。

その後やたらと作文が上手かった友だちに刺激を受けて、自分も上手くなりたいと思って、その友人が読んでる本とか雑誌などを読んだりしました。

次に多くの人が通る道ですが、高校生の時、村上春樹に出会ってしまい、彼のシティ派な文体に大きく影響を受けます。

「1973年のピンボール」の断片的な語りのような文体に触れてからは、自分の脳内の言葉も村上文体になりました。当然、創作めいた文章もまんま村上春樹。もちろん、相当劣化したものですが。・・・やれやれ。


影響を受けたと言えば、大学時代に塾講師のバイトしてたんですが、そこで少しだけの期間教えていた妙にしっかりした女子中学生がいて、その子のことは強く印象に残っています。

学校で賞を取ったという詩を見せて貰ったのですが、これが秀逸。心象風景と実景が巧みに混ざり合い、文章の一行目と最後の行を比べた時に書き手の気持ちがほんの少しだけ上向く作りになっていました。そしてとにかく美しい文体でした。

これは負けてられない。なぜか中学生と勝手に張り合い、本格的に文章を書き始めます。自分も人に刺激を与えられるような文章を書いてみたい、と思いつつ。

今となっては思い出話ですが、HPを作って映画批評を数百本は書きましたし、ヘンテコな創作もしましたし、シナリオスクールに通って短い脚本を書きまくったこともあります。

でも今思ならわかりますが、それらの文章は、全部独りよがりだったのです。流れにそぐわない形容詞を付けたり、その事象と合致しない単語を使ったり。一言で言えば、読み手に苦労させる文章です。

僕が村上春樹だったら、意味が通らない一文が出てきても、それはどういう意味だろうと読者が考えてくれるでしょう。けれど、どこの誰か分からないヤツの文章に対して、深読みなど誰もしてくれません。

これは僕の妻が勇気を出して指摘してくれましたが、読み手がつっかえてしまったら、その後の文章は、内容の良し悪しに関係なく読みたくなくなる。僕の文章はそういう傾向がある、という耳の痛いご指摘でした。

僕としては、少しだけ違和感を覚えてもらう文章が、自分らしい文体だと決めつけていたので、そのような指摘を受けて、すぐに反発しました。読みやすい方向だけで校正していくと、没個性の文体ができてしまうのではないかと、そんな風に思ったのです。

マニュアル通りに文章を書くと、書き手の個性が失われるのではないか。そう思いつつも、ますば基本を学んで、それを発展させれば良いのではないかと考えました。そこで、手当たり次第に文書についての本を読み漁りました。

色々読んで辿り着いたのが、この「伝わる!文章力が身につく本」です。

極めてシンプルな語り口で、相手に伝えることを最重要視せよとレクチャーした本です。これを読むと分かるのは、伝えるには、言葉が平易であること、それを適切に使うこと、といった基本姿勢です。

かといって稚拙な文章を書く人は賢い人に見えないという考え方があって、そこを気に入りました。

例えば、「将棋を指す」「囲碁を打つ」というふうに、動詞を適切に使いわけることなどです。「将棋をする」とか「囲碁をやる」では稚拙、ということですね。

平易で適切。このキーワードで考えていくと、ユーミンの曲の歌詞が思い浮かびます。彼女は時代の一過性に捉われない、普遍的な言葉で詞を紡ぎたいというようなことを言っていて、なるほど、と思ったことがあります。

僕自身、このキーワードを意識してからは、ビジネス文章だったり、このnoteだったりの文章が、少しだけ読みやすく書けるようになったと感じています。

まあ、青春期のクセで、時々変な修飾語をつけてしまうのは、相変わらずですが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?