見出し画像

母へのヒーリング・ シャスタ山での祈り1

シャスタ山での祈り

「お母ちゃんが倒れた」
妹からラインに、突然そんなメッセージが送られてきた。
その時僕は、シャスタ山にいた。
何人かの友人を連れて、シャスタ山にツアーに行っていた時だった。

母は脳出血が起きて倒れたそうで、気丈にも自分で電話して救急車を呼んだという。そんなふうに自分で動けるということは、思うに病状はそれ程悪くはなさそうだった。
すぐにでも帰りたい気持ちを抑えながらも、「そんなに悪い状況じゃないから、急いで帰ってこなくてもいい」という妹からの言葉を信じて、そのままツアーを続けた。

シャスタ山に行くと、いつもそんなふうに、普段なら起きないような事が起きる。
普段から見ようとしてない事が、心の中から現実の世界へと浮かび上がらせられるのか、思いもかけないような事が起きる。

それはまるで、あたり一面の真っ白な霧で何も見えないのが、突然霧が晴れて、目の前に大きな山が見える時のようだ。
本当は其処に山があるという事は知っていたのに、考えないようにしていた。それが突然山が現れて、現実を見せつけられて、自分がその現実にどう対処すればいいのか問いかけられて、驚いて固まっているのに似ている。

25歳の時に日本を離れてアメリカに行って、それから其処へ、主にカリフォルニア州に長く住むようになって、もう日本には帰らないだろうと思っていた。
それが日本に帰る決心をしたのは、年老いて日本の田舎で一人暮らししていた母がいたというのが大きな理由のひとつだった。
アメリカに住んでいた頃は、ビザの関係でなかなか帰れなくて、ひどい時は5年間も日本に帰れない時もあった。母には数年に一度ぐらいしか会えなかった。

「日本に帰ってくるなら、何処に住んでもいいから、帰ってきて」
そう母に言われては、日本に帰るという選択肢を考えないわけにはいかなかった。もし子どもがいたり家族がいたりしたら考えも鈍っただろうけど、独り身だった僕は日本へ帰るという事を拒む理由はさほど無かった。

母のことを、長い間考えてなかったような気がしていた。自分のことばかり考えていて、日々の生活に起きることに悩んで、それだけで精一杯だった。

それでも25歳の時に日本を離れる時、最後に会った母が流した涙を忘れたことは無かった。

「1日だって、お前のことを思わない日はなかったよ」
それから一年後に日本に帰って母に会った時、彼女は言葉少なく涙を流した。

渡米して20年程経って、日本に帰ると決めたあの時、仕事や生活の全てを投げ捨てて、何も決まっていない日本へ、新しい世界に飛び込もうとした時は、正直怖い気持ちでいっぱいだった。
でももしあの時、自分が帰国していなかったら、絶対に後悔していたと思う。

シャスタ山で、母の入院を知って、瞑想をすると、それはいつの間にか祈りのようになっていた。

「僕にとって、本当に、一番大切なものはいったい何なのか」
自分が本当に望んでいる事を、今は思い浮かべたい。
自分に嘘をついて、望んでいない事をするというのはもう嫌なんだ。

そんなふうに自分自身に「何が望みなのか?」を問いかけていく。
ただ目を瞑って、心の中で一人静かに瞑想を通して、祈るように思う。

起きるべくして起きる、この流れを止める事なく、自分がこの全てを穏やかに受け入れられるように。
そして同じように、世界で心を乱している全ての人に、平安な時が訪れるように。
そんなふうに、こころの中で思いを紡いだ。


【お知らせ・おすすめの拙書】

何かとお得な無料メルマガ情報の申し込み
オンライン瞑想会の詳細
「整え親方の整え部屋」(コミュニティFM番組)の放送予定
・『パワースポットのつくりかた』購入
・『いのちのやくそく』購入

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせて頂きます。