本と言葉と巡る私の歴史

第一章 幼稚園

幼稚園の頃は幼稚園からもらえる本を読むのが好きだった。
毎月収集しては読んでいたことを今思い出した。
近所ではちっちゃいおばちゃんといわれるほど、
主婦さんたちの井戸端会議に参加していた。

第二章 小学生

小学生に上がり、あまり本を読まなくなった。
ただ教科書や授業、通信講座から知識や人の物語を聞くのは
大好きだった。
またこのころは専らアニメやドラマ、新喜劇ばかりを見ていた。

そして児童会や学年の取り組み、課外活動で人前で話す機会や
学校、友人関係、地域で演劇に携わる機会も多くあり、
言葉を創造したり、文章を書いたりするのが好きだった。
確か小学校の卒業文集を地方ラジオで読んでいただいたこともあった。

第三章 中学生 

中学生になり、入学式、卒業式の学生代表挨拶や
学年代表、生徒会役員、部活の副部長などの立場、
文化祭の劇の準備委員などで、
ここでも言葉を創造する機会を多く得た。

読書に話を戻すと、
このころは給食準備中や土曜日に学校の図書室に入り浸り、
新選組とくに土方歳三関連の書籍や、偉人達の伝記を読んだ。
マザーテレサの伝記を読んだことはとても印象に残っている。
学校外では、漫画やアニメに友人たちとはまっていた。
聖地巡礼をしたりして、この時期は一番漫画やアニメ、
またノンフィクションの物語の世界に没頭していた時期かもしれない。

特に3年の後期では、前期までに生徒会役員の任が解かれ、
1年ぶりに学級のなにかの委員を担当する必要があり、
学級委員に返り咲こうとしたら、多数決で幼馴染に負け、
それならばと図書委員を担当した。
その任期中に、図書室の本の整理や図書室の受付の仕事などがあり、
本に触れる機会が確かに多くあった。そこでよく受験勉強もした。
街の図書館にも新選組の書籍を探したり、勉強しに行ったりしていた。
そのおかげで、志望校の志望コースに入学できた。

第四章 高校生 

高校時代はそういえば漫画やアニメ、読みたい本を
読むことや演劇に携わることをやめていた時期かもしれない。

日々部活動と大学受験のための勉強に明け暮れる日々だった。
ただやはり休み時間とか、一人になりたいときは図書室に
立ち寄っていた。

また母校がとある大学の付随高校で、学校の隣に大学があって、
大学の図書館も利用できたから、テスト期間中や部活引退後は
よく同級生たちとその図書館で勉強をしていた。
ただ図書館の本を借りて読むことはしていなかった。
このころはずっと自由に氣兼ねなく本を読める環境を欲していた。

そういえば、このころは自分の言葉を人前で話す機会は
激減していたかもしれない。
しいて言うなら部活で部長していた時ぐらい。
確かみんなの前で伝える言葉に関しては、顧問によく褒められたっけ。
あとは学校と市がタイアップした、校内のビジコンのようなものは
優勝したことはあった。
ただディベート系は苦手だった。

まとめ1 日本での学生時代

ここまで書いてみて、
日本での学生時代、実は結構本を読んで、
文章を創作している自分がいたことに氣づくことができた。

実はいうと、私は国語に強い苦手意識を持っていた。
もともと漢字を覚えるのが苦手で、国語のテストも嫌いだった。
特に中高生の時は、読書感想文なるものが大嫌いだった。
なぜ貴様らに感想を伝えて、評価されないといけないのだ。
そういう風に思っていた自分は確かにいたと思う。

後は中、高の頃に、母を守るために発した自分の言葉のせいで、
親が離婚寸前まで行ったり、友達を無意識に傷つけて絶交になってしまったりなどの経験があり、自分の負の感情、本音を外に出さないってことを無意識に自分に課してしまっていた。

その結果、高校時代は心身ともに大分荒れていたし、
部活ではたまりにたまったことが大爆発し、
周りに大迷惑をかけてしまったこともあった。
今振り返ると全ての出来事に対して、全て自分が悪かったとは思わないけど、自分の言葉が大きな力を持って、使い方を間違えたら他人を傷つけてしまうと思い込んでいた節があった。

第五章 台湾留学の準備期 

台湾留学の準備期は日本の大学受験コースからは外れ、
教室でひたすら中国語の学びに触れていた。

このころ高校では日本の国立大受験組コースに所属していたから、
授業も毎日八時間受けないといけないし、
とりあえずセンター試験も受けろと言われていた。

けどそのころ中国語に取りつかれていた私は
授業では電子辞書を駆使して、授業に出てくる単語の中国語訳を
ひたすら覚えたり、中国語予備校で学んだ発音記号や、単語を覚えたり、中国語で文章をひたすら創っていた。
余談だが、英語の授業だけは真剣に受けていた。

中国語予備校では、中国語で文章を創造する機会や、生徒自らが中国語の寸劇を準備して演じる機会をたくさん得た。
このころの自分は本当に久しぶり、いや人生で一番輝き、心の底から留学仲間たちと笑っていた。
それだけ言葉に〇×を付けられず、自由に触れられることが何よりもうれしかった。
この時受けた中国語の授業は1年2か月で1200時間。
それ以外の時間も中国語に取りつかれていたから、
もっと多くの時間を中国語に費やしていた。

第六章 大学生

大学はまず日本人がほとんどいない、臺灣のパイナップル畑に囲まれた、ど田舎の国立大学を選び、学部は将来起業するために企業間理学部を選択した。

この時期は得たい知識、知りたいことを好奇心に従って學ぶことができた。

一年生の頃、とある教授に授業で
企業は人である、人を束ねていく立場にあるのなら、この世のすべてを知るつもりでいなさい。海綿体のスポンジのようにすべてを吸収しなさい。」そう言葉をいただいた。

それを聞いた瞬間、自分の目が輝いたことを覚えている。
そしてこの言葉は今も私の中で生きている。

本に関しては、知識や人類の智慧を得る機会に多く恵まれた。
特に大学で得れた知識はアメリカや中華文化でまかり通っている内容で、これらの知識を触れることは日本の現代の常識を疑ってみる位置に立たせてくれた。

その結果、これまでの人生で起きた様々な問題の根本的な原因や、
自身が捕らわれていた問題などを客観視することが出来た。
現代社会が生み出している問題は、人間が生み出している。
生きる上で大切な原理原則は、隠されており、
自ら知識や智慧を得に行く必要がある。
そのことを教えてくれる時期だった。
 
言葉に関していえば、
最初半年はあれだけ鍛えたはずの中国語がほとんど通用せず、
授業もチンプンカンプンでただただひたすら周りを頼りながら必死に生きて、一人の時に泣いていた。
 
それでも友に恵まれ、何とか一年を持ちこたえたとき、
友から学部の生徒会幹部に誘ってもらうことが出来た。
まだまだ言語はつたなし、会議もついていけないことを
伝えたが、宣伝でデザインを担当してほしい。
そう頼まれた。一番仲の良い友人も誘われていたこともあり、
留学中やりたいこと全部やろうということで、その話のった。

二年生はその傍ら、授業も受けながら、校外で就職活動のため、
日本人が運営する短期インターンシップにも参加したりもした。
この時期授業でもグループワークが増えてきていて、
常にだれかと何かを創るためになにかを話し合っていた。
このころは2歳から読んでいたワンピースすらも読まなくなった。
 
三年生のころは、授業でも相わからずグループワーク満載で、
それ以外に臺灣でも日本でもイベント運営にかかわっていた。
この頃生活費が持たなくてバイトも始めて、ずっと中国語と日本語両方を多用していた。

読書に関してはこの後期あたりに、
一度自分の脳のキャパシティーの限界にぶち当たった。
教科書や論文を読むスピードが圧倒的に間に合わない。
そこで楽読という速読のレッスンを受けて、
眼球の体操や、イメージ力を鍛えたりもした。

言葉に関してはここで、大きな原体験を得ている。
臺灣で活動をしていた時、活動のパートナーだった人に、
こう言われたことがある。
「あなたがものすごく文章力があるね。あなたの文章が好きだ。」と。
この時自分の表現力にも氣づいていなかった私は、
その言葉を聞いたときは目から鱗だった。
その時の彼女の言葉があるからこそ、私は再び言葉に力を宿すことができた。

この年はワンピースだけは読み続けないと自分が死ぬことに氣づき、週一のジャンプだけは電子で買って読むようにした。
 
4年の時は一番行動していた。
言葉を巧みに扱っていた。中国語で会議を回し、チームを率いることもあったし、日本人とチームで動くことも多かった、バイトで日本語を教えたりもしていた。
一番伝えること、みんなに考えてもらうことを意識しながら、生きていたかもしれない。
この時期は本や漫画を読む暇も、映画をみる暇もなかった。
とりあえず行動行動行動の一年だった。
ただ留学最後にコロナにぶち当たり、授業もオンラインになり、友やお世話になった人にも会えなくなり、全体での卒業式もなくなった。

ただここまで頑張った、そしてここまでいろんな人に支えてもらった留学生活をそのまま終わらせたくないと思っていた矢先、とあるチャンスが巡ってきた。
代表者だけが集まった卒業式を行い、録画するというのだ。
そしてその外国籍卒業生の代表挨拶の枠が空いているというのだ、
それを聞いたとき、真っ先に応募した。
そして選んでもらうことが出来た。
最後の最後に自分の言葉で留学生活を綴って、感謝の氣持ちを伝えることができた。

第七章 帰国後

帰国して一年半。
本の虫になった。
まず日本の大学院受験に向けて、準備していた時は、
ジャンル関係なしに、日本の教授たちの一般書を読み漁った。
みそなのが論文ではなく一般書。
これは彼らの本音が書かれているから、ものすごく興味深く面白い。またフリーターで働いていた飲食店で、現代の食に疑問をもち、色々調べていくうちに分子栄養學にであい、
その結果、体質改善に重要な知見を得れるようになった。

言葉に関しては、手紙を書くようになったり、バースデーカードを創って大切な人たちに大切な言葉を送るようになった。

第八章 第一就職後 

就職してからは、通勤中のバスや休みの日に一人で本を読むことが習慣になった。
最近は専ら、旅に関する本や、自己啓発本、エッセイを読んでいる。あとは古来から日本に伝わる考え方や自然法則の本を読んだりもした。
 
言葉に関しては、仕事場では、自分の言葉を封印され、中国語を話す機会もなく、一時は荒れに荒れた。

その反動でインスタライブで自分の考えを表現してる自分がいた。そこで無我夢中で話している自分がいていた。
ただこの経験はこんなにも自分には言葉が大切なんだ
そのことに氣づかせてくれた。

そしてpooloでの活動が始まってから、
本格的にnoteに自分の思いや考えを文章で書き始めた。
あれだけ抵抗感があった文章。
最近はやっと自信をもって綴ることが出来ている。
それも高校時代に封印した本音を出す行為を開放することが出来、
また言葉の力を知識と経験で鍛えてきたからかもしれない。
 

全体まとめ

初めて言葉と本を通して、自分の人生を綴ってみた。
実はこれまで自分の人生をいろんな形で綴ってきたが、
最後まで書ききったのは初めてである。
 
それだけ言葉と本は自分の身近にあったし、重要な要素だった。
今回改めてそのことに氣づくことが出来た。
 
これから自分はどんな言葉で、どんな文章で、
何を表現していくのかそれはわからない。
 
ただ我が人生において、
言葉、文章というのは一生を共にする大切なパートナーであるのは
揺るぎないことであると思う。

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