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生かされているという言葉の罠

皆さんこんばんは、サリーです。

最近も生きる中で、いろんな葛藤を抱えております。

その中の一つのトピックは、「生かされている」という言葉。

最近よくわたしは生かされているという言葉を使っていた。

わたしはいろんな物事、生命によって生かされているんだと。

いっけん、すごく悟りをひらいて、達観しているように感じる言葉。

しかし、この言葉を多用することで、だんだんと生きづらさを感じ始めていた。

どこか自分を生きていないような感じだ。

すごくモヤモヤしながら、過ごす中で
この「生かされている」と言う言葉は
とても受け身であり、受容的な、人生の舵を他人に委ねているそう感じたのだ。

言わば自分で自分を生きることを諦めている。
自分の生死を他人に委ねてしまっている。

自分の人生は自分のものであるのに、
誰かに捧げている、誰かのおかげで生かされている。

わたしはそうしたくないのに、そういきたくたいのにただ生かされている。

ただの道具にすぎない。

そんな思いが「生かされている」という言葉の奥底に潜んでいるのではないか、そう感じたのだ。

今の自分は果たして、自分を生きているだろうか?

自分のこの命を生きているだろうか?

自分で人生の舵取りをできているだろうか?

自分で自分の人生に責任を持てているだろうか?

自分で自分の人生を生きる上で
本当に生きたい、みたい世界を見れているだろうか?

日々修行。
生かされているのではなく、生きる。 

自分を生きる。
久保田紗生、サリーという人間を生きる。
全ては自分次第。

改めてそう自分の胸に刻み込むこととする。

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