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【1/2エッセイ】つまらない、と感じた時の救世主。この思考法に私は帰る2️⃣

✍️1/2エッセイ とは
✒︎日常の隠れた視点探し
✒︎思考のリフレッシュに
✒︎実体験と少々のリサーチ
をふまえた独自解釈です😌(どうか悪しからず)
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自分の考え方につまらなさを感じた時、私はこの三つの思考法に帰ります、と前回の投稿より書かせていただいております。

三つの思考法

その三つの思考法にはこんな秘めたるパワーがあります。

【一の思考法】
見えていないものが見えるチカラ

【二の思考法】
自分なりの答えを出すチカラ

【三の思考法】
新しいアイデアを生むチカラ

【一の思考法】見えていないものが見えるチカラは前回に書かせて頂きましたので良かったらこちらを↓


そして今回は、
【二の思考法】自分なりの答えを出すチカラ

言うなれば、「脱構築」的思考、

当たり前を疑おう!

です。

なんでこうなんのー?
その動機ってなんだろ?
その前提って合ってる?

と固定化、定義化されたものを
解体してもっかい建て直そう!

ということでもあります。

脱構築と言えば、哲学者のジャック・デリダが有名ですが、他にもジル・ドュルーズ、ミシェルフーコーなどの現代思想家があげられます。

この御三方に関する詳しい脱構築思想は📚千葉雅也氏の「現代思想入門」に分かりやすく書かれてあるので、もっと細かく知りたい方はそちらを手に取られると良いかと思います^ ^

難解な哲学を現代風に、かつオリジナルの意味は崩さず、説明してくれている良書です。

さて、この脱構築ですが、私は「違和感」に触れた時、に行います。

うまく言葉にはできないけど、
なんかズレを感じるなぁ、
しっくりこないなぁ、

そう感じた時に脱構築を活用しています。

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例えば…
学校のルール

以前、学校規則での髪の色が話題に上がった時、中学生の頃のある経験を思い出したんです。

中学一年生になりたての頃、同級生の男の子が
「髪の毛を染めるな」と先生に言われ続けていました。

その子は「染めていません」と何度も言い返していました。 

彼のお母さんも何度も染めていないことを先生に説明していましたが通じず、辟易されていたのを覚えています。

だって彼の髪の毛は生まれながらに茶色だったんですから。

その事実をもってしても、校則違反を咎められたままでした。

私はどこか理不尽さを感じながらも、
そこから先に思考を進められたわけでもなく、

先生に逆らうと面倒だし、キレられるし、納得はいかないけど、私に何かを言える勇気もなくて、

ただ、学校という施設に不自由さを感じていました。

先生の言うことはどこか絶対で、たとえ白いものを黒と言われたら黒と思わなきゃいけない。

でも、それって今考えてもすごく不自然で、
先生の顔色をうかがって校則に抵触しないように学校生活を送っていたあの頃は

誤解を恐れず言うと、監視下にある囚人と変わらない、あのパノプティコンの刑務所(一望監視施設)とみたいだなと思うのです。

学校ってそもそも何のため、
誰のための施設なの?

学校を脱構築的思考で考え直す。

なんで学校ができたの? 
きっかけは? 前提は?

と、とても気になりました。

孫泰造氏の「冒険の書」は学校教育が出来上がった経緯をそんな脱構築的思考をもって説明してくれていて、何度も読み返してしまいます。

本書を読んで校則とは何かと考えたところ、これは尖った言い方に聞こえたら申し訳ないのですが、

言うことを聞く社会人を育てるための監視施設

のようにも聞こえるのです。
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それって本当にそうなの?
考え方の脱構築

学校教育に関して一個人の私が何か変えることはできませんし、変えることが正しくて、且つみんなのプラスになるとは限りません。

定義化、固定化されたルールがあるから守られてきた社会秩序は多いにありますから。

ただ、その中で受け身で言いなりになり続けるのもなんか違う。

ゆえに違和感を感じたら、せめて自分の思考の中ではその違和感の正体を突き止めるために、

なんでこうなんのー?
その動機ってなんだろ?
その前提って合ってる?

と脱構築を始めるのです。

たとえば、

「大人だからしっかりするべきだ。子供じゃないんだから。人の前では弱さを見せてはならない」

と誰かが言ったとしましょう。

先述のデリダは脱構築の際、二項対立を意識したそうです。

二項対立ってなんでしょうか。

簡単に言うと対極なもの。

善と悪
生と死
陰と陽
優と劣

などもっと他にもあります。

そして千葉氏いわく、人の思考や発言を敢えて両極に分けると、プラスとマイナスに分けられるそうです。

先述した、
「大人だからしっかりするべきだ。子供じゃないんだから。人の前では弱さを見せてはならない」

にプラスマイナスといった二項対立を用いると

プラス: 大人、しっかりする、強さ
マイナス:子ども、優柔不断、弱さ、

になります。

実は脱構築的思考ではまず、マイナスの方に目を向けましょ、なんて言われています。

なぜならマイナス側は、
それ以上考えられることもなく、
スルーされがちで、
一方のプラス側はそれ以上考えられることもなく簡単に受け入れられがち

だからです。

そして、

マイナスと捉えられているものは、
果たして絶対にそうなのだろうか?

と問うのです。

なんでみんなそれをマイナスに思うのだろうか?その動機は?その前提は?

そう問うていくうちに、マイナスの正体の本質が分かり、第三案が見えてきたりします。

プラス: 大人、しっかりする、強さ
マイナス:子ども、優柔不断、弱さ、

をもう一度見返すと、
弱くて優柔不断だからこそ、人に寄り添えたり、多様な視点をもてたりします。

また子どもだからこそ、無邪気さから物事に対する偏見が少なくて済みますし、創造力やエネルギーだってあるものです。

このようにマイナスだからといって負の局面しかないわけがない!・・・・・・のです

だったら、何でも物事のマイナスの方に目を向けた良いのかー🙌

と思っちゃいそうなんですけど、そうではないんですよね✋

マイナスばかり見る!

だとまた考え方が固定化、定義化されてしまいますからね。

あくまで仮としてプラスとマイナスを決めて、一旦批判されがちなマイナス面に疑いをもつ。

そして、どちらが優劣ではなくて互いに支え合っている状態を想像する、というのがちょっと進んだ脱構築です。

脱構築はあくまで「介入」で他者や一方を批判をすることでもないのです

いきなりどちらかをぶっ壊すんじゃなくて、

ちょっとすいませーん、

と間に割り込む感覚。

それが視座を変えるコツなんですよね。
そして脱構築につながって行くのです。◌𓈒𓂂𓏸◌𓈒𓂂𓏸◌𓈒𓂂𓏸◌𓈒𓂂𓏸◌𓈒𓂂𓏸◌𓈒𓂂𓏸◌𓈒𓂂𓏸◌𓈒𓂂𓏸◌𓈒𓂂𓏸

もっと身近に脱構築

なんかうまくいかない、つまんない、

私は結構あるんです。

そんな時、自分は何のためにこれをしているんだろうか、を中心にしてマインドマップにしていきます。

脱構築的に言うと、「分解作業」です。

すると、

目的と手段の見直しが目で可能になります。

例えば、
本を読むことがつまんない、
と感じてしまったことがあるんですが、

真ん中に読書と書いて、その周りにメリットやデメリット、目的などを枝葉のように書いていったんです。

もしかして手段が目的化しているのではないか?なんて思い抱きながら。

しかしながらそこで分かったのは
読書は手段にもになり得るし、目的にもなり得る、ということ。

手段としての読書では知識を得たり学習ができる、

目的としての読書では色んな言葉に触れられる楽しさがある、

こうして、手段の目的化は良くないと思って脱構築したつもりが、

読書の場合、手段が目的になる時があっても良い、と気づくことができたのです。

脱構築は何も白黒つけるものではありません(と思っています)

自分の考えに迷いが生じたり、つまらなくなったりした時に新しい視点や、折衷案をだしてくれるメソッドでもあると、私は思うのです😊

ここで【二の思考法】自分なりの答えを出すチカラ、の説明は終わりとなります。

いよいよ次は、このテーマのラスト【三の思考法】新しいアイデアを生むチカラ、を書かせて頂きます。

投稿までしばしお待ちくださいませ。

本日も最後まで読んで下さいましてありがとうございました。

しゃろん;


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