【シェア街住民インタビュー】元プロサッカー選手がザンビアで教えてもらった大切なこと・野口亜弥さん(前編)
今回は、元プロサッカー選手で、スポーツを通じた社会課題の解決を目指す活動をされている大学教員の野口亜弥(のぐあや)さんに話をうかがいました。盛りだくさんの内容を、前後編の2回に分けて掲載。前編は、のぐあやさんの人となりに迫ります。聞き手、ライターは元アスリート同士ということで、競泳の元パラリンピック選手でもある森下友紀(もりしー)さんが務めました。
「一人一人が自分らしく生きていける社会を目指す」
現在の活動内容について教えてください。
のぐあやさん:
仕事は順天堂大学スポーツ健康科学部で助教をしています。
ジェンダーとセクシュアリティーとスポーツ、社会の課題解決におけるスポーツの役割、みたいなところが専門分野ですね。
大学教員だけでなく、一般社団法人S.C.P. Japanという団体を立ち上げていて、その共同代表もしています。
それは、「一人一人が自分らしく生きていける社会を目指す」という、共生社会づくりを目標にしていて、そのコンテンツとしてスポーツをやっていけたらいいね、という形で動いている団体です。
他にも、国際基督教大学の博士後期課程で勉強もしているので、「三足のわらじ」という感じです。
博士課程では、国際協力の中のジェンダー課題、セクシュアリティーの課題に対してスポーツがどのような役割を担っていけるのか、について研究テーマとしています。
対象地域は東南アジア、タイやマレーシアなどになります。
なぜ東南アジアが対象なのですか?
国際協力でザンビアに行ったのですが、アフリカは遠いという現実がある。
また、アフリカに関するプロジェクトは、距離的に近いヨーロッパがやっていることが多いので、日本人の私が関わりやすいのはアジア圏だなと考えました。
ちなみに、自分の名前が「亜弥」で、両親が「アジアの中で活躍できる人間に」とアジア(亜細亜)の「亜」の字をつけてくれたので、せっかくだからアジアかな、というのもありましたね。
「最後のチャンス」を活かしてスウェーデンでプロに
次に、これまでの経歴について教えてください。3歳からサッカーをされているとのことですが、どういった経緯で始められたのでしょうか。
兄がサッカーをやっていたのと、幼稚園の体操の先生が幼稚園でサッカー教室をやっていたことがきっかけです。
私もやりたい、と3歳からサッカーを始めました。
プロになるまでの道のりは、どのようなものだったのでしょうか。
小学校は男の子と一緒にやっていたのですが、日本では元々、中学からは女子サッカーをやれるところが少なくなってしまう問題があり、私もそんな感じでした。
なのでその時期は、家から1時間かかる大人のチームに行ったり、小学校時代のチームにお世話になったりと、6個くらいのサッカークラブをかけもちをしていましたね。
高校では、一つのところで勉強とサッカーを集中してやりたいと思って、東京・巣鴨の十文字高校を選びました。
中学生のころから筑波大学の先輩とサッカーをする機会があって、「十文字からなら筑波大に入れるかも」とも思っていたので。
高校卒業後は筑波大の体育専門学群に入って、4年間、女子サッカー部で活動しました。
4年生ではキャプテンも務めましたね。
大学の時から留学にも興味があったので、卒業後にはアメリカのニューハンプシャー州に行きました。
アメリカはアスリート奨学金が充実していて、部活である程度活躍できる選手には、大学側が奨学金をくれるんです。
そこではスポーツビジネスの勉強で大学に2年、大学院に2年間通い、MBAを取得しました。
最初は英語ができなかったので、学部に入りました。
サッカーは夏休みの期間、大学のサッカー部で活動できなくなるので、ニューヨークのセミプロチームに所属して活動していました。
23、24歳のころです。
当時は日本代表に入りたかったのですが入れず、最後のチャンスだと思ってプロテストを受けて、スウェーデンでプロになりました。
ニューヨークの監督のつながりで紹介してもらったり、たまたま会ったりしたエージェントがドイツ、スウェーデンなどヨーロッパにつながりがあって、決まったのがスウェーデンでした。
スウェーデンは前期4ヶ月、後期4ヶ月のシーズンごとに契約をします。
私は前期に入れてもらい、活躍したら後期も契約できる、ということで試合に出させてもらいました。
でも、元々怪我をした選手の代わりに入っていたことや、EU圏外から来ている選手は最低賃金が高いことなどから、結果的に前期4カ月のみの契約になりました。
「プロで活躍していることが伝われば、日本代表に選ばれるのでは?」とも思ったのですが、「プロでした」と言えるところで辞めた方が良いかと思い、サッカーを辞めました。
スウェーデンでの活動はどうでしたか?
スウェーデンでの4ヶ月は、大変だったせいなのかもしれないのですが、あまり記憶にないんです。
特に言語がわからない、ということはストレスだったのかもしれません。
英語でのコミュニケーションは問題ありませんでしたが、スウェーデンのチームなので、監督の指示はスウェーデン語でした。
試合の時のハーフタイムの指示も理解できず、控えで試合に出ていない人にも聞けず……。
他にも、「契約延長をもらわないと」という気持ちや、自分がちゃんとできていない葛藤、もやもやもあってつらかったですね。
スウェーデンでの経験は大変だったのですね。その中でも、良かったことや学んだことなどはありますか?
プロサッカー選手になれたという経歴は、間違いなくセカンドキャリアにつながりました。
当時のスウェーデンはヨーロッパリーグの中ではレベルが高かったので、「スウェーデンでプロ選手でした」と言うと、それだけで会ってくれる人がたくさんいました。
それは日本でも一緒でしたね。
日本に帰ってきて、最初はスポーツ庁に勤めたのですが、その時もその経歴は活きました。
経歴の下駄を履かせてもらったかな、と思いますね。
「このタイミングしかない!」とザンビアへ
経歴がある、というのは武器になりますよね。ザンビアには、どういった経緯で行かれたのですか?
米国に行った当初は、教育に携わりながら指導をするのは教員しか思いつきませんでした。
ただ、ハーレムの貧困地帯に放課後のアクティビティーとして参加して、考え方が変わりました。
そこでは、サッカーをするために集まった子たちに、物書きやリーダーシップ、コミュニケーションスキルを教えたり、栄養教育をしていたりしました。
これまで私がやっていたサッカーは、上手くなりましょう、勝ちましょう、サッカーを通して自分を高めましょう、といったものでした。
でも、米国のアプローチは違っていて、楽しんでやりましょう、せっかく集まったからそれ以外のこともやりましょう、という感じで。
それを体験して、面白いな、新しいサッカーと教育の活用の仕方だな、と感じたんです。
他にも、米国ではジェンダーに興味を持ちました。
国際教育もしたいと思っていたのですが、米国では女性の指導者も多くて、「どうしてだろう」と疑問を持っていました。
そこでFIFAのサイトを見たら、アフリカなどの開発途上国では、サッカーを使った女の子の教育をしているプログラムをみつけて、いつか行きたいな、と考えるようになりました。
でもその時は、サッカーの練習をしないといけなかったので、スウェーデンのチームとの契約が切れた時、「このタイミングしかない!」とアフリカに行きました。
信頼できるNGOに連絡を取り、それで決まったところがザンビアだった、という感じですね。
ザンビアではどのような活動をされていたのですか?
ザンビアでお世話になったNGOは、スポーツを通じてジェンダー課題に取り組みましょう、リーダーシップを発揮できるような場所に女性を増やしましょう、など、スポーツを使って女子教育や男女平等を進める活動をしていました。
私も、コンパウンドと呼ばれる低所得地域で生きている女の子たちに、スポーツを通じてHIV/エイズの予防教育や、性と生殖に関する知識、妊娠出産に関すること、就労スキルなどの教育プログラムをしました。
その頃、ザンビアで人気だった「ネットボール」(バスケットボールの女の子バージョンのようなもの)をする活動を開くと、ザンビアには娯楽が少ないので、たくさんの女の子たちが集まるんですよね。
ザンビアでは保健教育が導入されていない時期もあり、そこで月経の話や、子供が生まれるまでの過程、コンドームの使い方などを話しました。
コミュニティーが小さい世界では、性暴力、レイプ事件なども結構多くて、望まない妊娠やエイズが蔓延していて。
そのアプローチとして、女性の権利などの教育や、「嫌なことは嫌と言って良い」などのコミュニケーション方法を動きながら学ぶ、というのをやっていましたね。
その活動はいかがでしたか?
実際にザンビアへ行ったら、「辛い」と思うかもしれないと感じていました。
でも、とりあえず行ってみようと行ったら面白かったですね。
それまでは米国、スウェーデンと先進国の世界を見ていたのですが、開発途上国から見る世界は全然違っていました。
行った当初は、開発途上国の人たちに対して、知らず知らずのうちに上から目線になっていた部分もありました。
何かできると思ったら、何もできず、教えてもらうばかり。「世の中、偏っているんだな」と分かり、同じ目線で何かをやっていける仕事をしたい、スポーツを通じた国際協力、ジェンダー課題の解決に向けた活動をしたい、と日本に帰国しました。
2015年に日本に戻ったのですが、ちょうど2014年にはスポーツ庁がスポーツを通じた国際協力を始めていて、それをやれたら面白いと思い、スポーツ庁で2年半働くことになりました。
2018年3月までスポーツ庁国際課というところで、スポーツと国際協力に関する大きなイベントや携わらせていただき、女性スポーツやASEANに関わる政策についていろんな経験をさせてもらいました。
開発途上国のことがもっとメインストリームになれば、と思って働いていたのですが、どうしても「日本のプレゼンスのために」といった国際協力になる傾向があり、確かにそのアプローチも必要で、政策を進めるためには大切なのですが、私がやりたいものではなかったんですよね。
自分自身として、開発途上国と一緒に何かできたら、と思うし、一方、「スポーツは良いものですよ」と言いながらも、どれだけ良いものか研究しないままでいて、やりたいことができるのか、と考える部分もあり、スポーツ庁を辞めました。
それで、Ph.D.を持っていないので、国際基督教大の博士課程に行きながら、今の順天堂大で働いている、という話に戻ります。
後編に続く。
【クレジット】
編集:Atsushi Nagata Twitter / Note / Youtube
執筆:森下友紀
写真:提供写真
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