聖なるズー 読みました

動物と恋に落ちちゃった人たち。
それは、宗教体験と酷似している。

本書はとても読みやすく、ルポとしても、
論文的読み物としても、小説としても楽しめた。
とてもおもいろい。

動物をパートナーとし、性愛対象とする人たち。
動物虐待ではなく、自分は性的指向で相手がパートナーであったから
自然なことだという人たち。
主にドイツのズーと言われる動物性愛者たちのコミュニティでのルポである。

わからなくもない。
今はペットと書いてしまうが、
ペットが特別な存在になり得ることは日本だって大いにある。

ペットと意思疎通ができる。
ペットがさみしがったり、嫉妬してくる。
ペットが守ってくれたり、教えてくれる。

全部よく聞く話だ。
自分に構ってくれる存在、しかも裏切らず傍にいてくれる存在のなんと心強く愛しいものか。

その結果べろちゅーする人たちがいるのも、わぁと、思いながらそれが愛情表現の一環なので
まぁいいのではないかしら。

性愛をしない、動物と対等な関係を築いたり、群れのひとりとして存在していたい。
それはよくわかる。実行できるのかというのはまた別の問題だけれども。

しかし、こと時たま暴力が介在するえっちについては疑問が残る。

文庫本によせてが記載してあった感想に似ている。
「動物が誘ってきた」っていうけれども、それは本当か
当人(多くは加害者)は大体そういうけれども。お前が誘ってきたんだろって。
微笑んだだけ、もしくは前を歩いていただけとかでも。
要は都合よく解釈しているだけじゃないの?好奇心に負けただけじゃないの?

とにかく同意がとれている状況なのか?ということが私も大きい

同意さえとれており、法律に違反しなきゃやってもいい?
っていうのは、自らの意見や好みの話になってしまうので、それはもう許された自由。
同意、その同意って本当?というのがある意味人間や動物に共通した本書のテーマでもあるけども。

自分とえっちできる体躯の動物の性交渉のお誘い
これだけ聞くとなんてファンタジー

しかし動物だから性欲はあるわけでこれがファンタジーではないんだな!
そしてそれが自分にはわかります。パートナーとして認めているからです。

という話をあげられている。

1 ペットとされる動物だって性欲があること
2 動物だってだれかれ構わずえっちするわけではないこと
3 動物が自分としたいと思ってくれていること

これがわかればさもありなんと受入れられる。
でもこれはファンタジーではないのかしら、というのが疑問だ。
それを払しょくするのが、種も仕掛けもない、動物と、その人にだけの発情と、の瞬間である。
筆者は目撃し、さもありなんと思ったことでしょう。

そしてその快感をみな愛のつながりでもたらされたものと信じて疑わず、
こちらも愛を与えながら、動物たちと無理のない範囲でのえっちをしている。

あったかいもふもふ犬がへっへしてくれたらそらかわいいし、嬉しいし、
できるもんならいいよ、って気持ちになるかもしれない。

でもそれが、愛からもたらされたと考えるものだろうか、と不思議に思う。

当初筆者が期待していたであろう、もっと本能的なものなんじゃないかと考えてしまう。
だって、バターさえ塗ればなめてくれるらしいしっ知らんけどって。

その愛とは、当人同士が培ってきた信頼と関係性と見出したパーソナリティで補強される、
ズーの人々はそう話す。美しい世界だと思う。
その体験を得れているか、そうでないかでこの話ができる深度が変わってくる。

それは何事かの宗教の神秘体験をしたかどうかに近い。
経験した人にしかわからない世界、それはもう外からどうこう言うものではない。
その人が神を見たというなら見たんだし、信仰のチカラでくじがあたったというならそれはそう。

だからズーもある意味宗教のようなもので、その人たちがそうというなら
それはそうなのだ。

これは、異性愛者が同性愛者に同じ感覚を寄せれないことに似ている。
その逆もしかり。エクスペリエンスがないから、わからないのだ。

その経験がもたらされたのは、自分の頭や植え付けられた因果関係なのか、
本当のことなのか、それはわからない。

ただ、好きな相手が人間じゃなかった、なんてことは全然受け入れられる。
全体的な新しい種を作成しようとしている繁栄方法の模索のひとつかもしれないし。

ドイツでは聖なるズーの活動はある意味合法だし。
お幸せにね! に尽きる。
それは、筆者がみんなのパートナーと自由で幸せそうで愛があると伝わったから。
そしてそれを信じたから、お幸せにねって言える。

読了後人に話をしたくなる本だった。

聖なるズー (集英社文庫) | 濱野 ちひろ |本 | 通販 | Amazon

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