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人生をゲームにする方法(13):コミュニティをつくる

ゲームにおいて、コミュニティの存在は偉大である。

そう聞くと、「ちょっと待った」と言いたくなる人もいるかもしれない。特にデジタルゲームの場合、1人でプレーできることに良さはあると思うし、実際コミュニティを作らずとも、ゲームを楽しむことはできる。

それでもゲームに「のめり込む」とき、往々にしてそこにコミュニティがあるという事例はよくあることだ。

それが一人用のゲームであっても、「どういうふうにプレーしたか」「こういうプレーができた」「高得点のスコアが取れた」と、私たちの(少なくとも一部は)つぶやかずにいられない。匿名掲示板なのか、Twitterなのか、あるいは別のプラットフォームなのか、それがどこなのかは人によって違うだろう。でもゲームをプレーしていくその先には、間違いなく他の人の存在、すなわちコミュニティの萌芽がある。

自分自身の思い出話を少ししたい。

私は学生時代、いたくポケモンというゲームにハマっていた。最初はあまりのめり込みすぎないように、あくまでそれぞれの世代のポケモンをクリアするだけにとどめていた。しかしいつの間にかレートバトルというものに手を出してしまい、勝つためにさまざまな攻略サイトや動画を見て回った。この時点で、私はポケモンというコミュニティに多かれ少なかれ巻き込まれていたことになる。

さらにポケモンへの埋没が悪化(?)したのは、自分で発信するようになってからだ。今でも覚えているが、最初はランクルスというポケモンが好きだったので、「ランクルスでがんばってレートを潜る!」という体でTwitterのアカウントを設置した。

ランクルスさん

最初はフォローした他のポケ垢(ポケモンのアカウント)を眺めるぐらいだったが、「どういう改善をしたら勝てるようになった」「最近のメタゲームはこうなっている」という自分なりの発見を書き込むようになり、少しずつ大きな意味でのポケモンコミュニティへの関与度が高くなっていた。

人は、「自分から行動した」と認識すると、めちゃくちゃ対象に愛着を持つようになる生物である。オタクの中にクリエイティブな人が目立つのはある意味当然で、彼らは自分から何かしらのかたちで発信するからこそ、よりその対象にハマっていき、無事コンテンツのオタクと化すわけである。

さらに決定的だったのは、当時あまり注目されていないあるポケモンたちを使って、それなりにレート戦で結果を残せてしまったことだ。ドヤ顔で書き綴った対戦ブログは、あの当時の界隈としてはそれなりに注目を集め、私は「○○の人」というアイデンティティを獲得するにいたった。

こうやって、他者にアイデンティティを保証されると、その空間・環境がますます居やすいものになる。こうして私はポケモンマスターとなり、大学院に行かなくなったのだが、まあそれはいつかの話にとっておこう。

ともかく、ここで重要なのは、「○○の人」というアイデンティティを得るためには、他者の承認が必要ということである。そしてそのためにはコミュニティの存在が欠かせないということだ。

一方通行の発信というかたちでも、他者の承認は得られるが(攻略ブログやYouTuberがこれにあたる)、コミュニティは双方向性に承認を得られることから敷居が低く、かつ声がダイレクトに届く。この双方向性の承認を得られるということが、現代のコミュニケーションプラットフォームの隆盛を決定づけているのではないかと私は思う。

ゲームにおいても、ただプレーしてクリアするだけだと、そこで話は終わってしまうし、自分のアイデンティティに結びつくことはないだろう。しかしゲームについて語り合い、コミュニケーションを取っていくことで、そのゲームは閉じたものではなく、開いたものになる。そして物理的なゲームを土台にして、コミュニケーションという新たな「ゲーム」が始まり、そのコンテンツはプレーするだけでは終わらないものになる。

現代において、ゲームをそれ単品だけの存在としてみなすのは、あまりにももったいない。学習についての研究家であるジェームス・ポール・ジーは、こうしたコミュニティのことを「アフィニティスペース」と呼んだ。

日本語だとジーと紹介されるがアメリカ人の友人はギーと呼んでいた

アフィニティスペースは、共通の関心や共通の活動への取り組みを理由に人々のグループが集まる場所であり、特定の分野での知識の共有と関与を促進し、非公式の学習を生み出す。ジーからすれば、そこで起きているのは単なる「文化」のレベルを超えた「コミュニティ」なのだ(参照:https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/affinity-space)。

強いゲームというのは、多かれ少なかれアフィニティスペース、つまりコミュニティを抱えている。そこでは自発的な学習が絶え間なく起きており、内発的動機にあふれているからこそ、主体性が高くて「強い」。

自分の人生をゲーム化するうえでも、このコミュニティという要素は強く意識すべきだ。そもそも、ゲーム化するということは外部への発信性というものを多かれ少なかれはらんでいるのだから。

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