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ケアも寄り添いも無いとして/『私のトナカイちゃん』【ドラマの感想】

イギリス・スコットランドのコメディアン/劇作家であるリチャード・ガッドが主演・脚本・製作総指揮を担ったNetflixドラマ『私のトナカイちゃん』が凄まじかった。売れないお笑い芸人ドニー・ダン(リチャード・ガッド)がバイト先の酒場で、金が無くて泣き出しそうになっていた女性マーサ(ジェシカ・ガニング)に紅茶を奢る。その日を境にマーサはドニーのストーカーになり、次第にエスカレートしていく、というのが本作の導入部のあらすじだ。

マーサのストーカー行為はホラーサスペンス、またはブラックコメディ風に描かれているが、非常にリアルな描写であると臨床上の経験から思う。対象に強く執着し、気に食わない態度を取られれば相手をこき下ろし、突き放されそうになると懇願する、教科書通りの行動だ。ただこの記事ではマーサの行動については大きく扱わない。本作はリチャード・ガッド自身の実話に基づく1人芝居が原作であり、必然的にドニーの物語になっていくからだ。

※本作は性暴行のシーンを含む作品です。視聴にはご注意ください。


“お笑い”であること

ドニーはお笑い芸人として、自らの"面白さ"で他者からの承認を得ようと足掻いている人物だ。何者かであらねば自分は承認されない、という観念を抱えてしまっているとも言える。面白がられる、ということが最大の賛辞であるため、マーサのその馴れ馴れしさや笑い声にも応えてしまう。それどころか丁々発止のやり取りを行い、彼女との関係性を堅く結ぶことになる。

全てを冗談として返していかなければならないというお笑い芸人の業、ないしその役割の押しつけは本作のそこかしこにある。酒場の同僚たちとのホモソーシャルにおける悪ノリがひどい事態を招いたり、ステージ上でマーサからの明らかに場違いかつ悪意ある絡まれ方をされているにも関わらず誰もドニーを助けなかったり。"そういうことをしてもいい"空気が蔓延っている。

例えば本邦のようにお笑い文化が強大な国にいるとその暴力性に無自覚になりやすい。「水曜日のダウンタウン」のドッキリで不審者に絡まれた時にうまく笑いで対処した芸人が絶賛されたり、明らかに普段と異なる状態の中で混乱した行動をSNS上で行った芸人が所属事務所を即日解雇されたり。笑いに変換できなければ闇へ葬られる、そんな苦しみを本作は克明に映し出す。

無視されがちな苦しみを可視化する本作の意義は確かに凄まじい。しかしこの物語は主演俳優本人が身を切って差し出した実体験だ。このドラマもまた全てを何かに昇華しなければならないという観念の延長にあるのではないか?と不安になる。そういった構造的な面も含め、この作品の起点が"お笑い"であることの根深さを感じてしまう。承認の無間地獄に我々もいるのだ。




”倒錯“であること

上に述べたような理由があるとは言え、ドニーのマーサへの関わり方は序盤から煮え切らず、明らかに一線を越えてもなお完全には拒絶をしきれないでいる。それは彼の負った精神的な傷が理由である。芸人として成功したいという願いを搾取された出来事によって彼の心は分裂し、恋人との関係は絶たれ、性的活動は混乱した。そして彼はマーサとの倒錯した関係に至る。

倒錯とは例えば異常とされる性行動を行う「多形倒錯」や、異性装や露出狂などを意味する「性的倒錯」に旧来的には用いられてきたが、「真の倒錯」はそうではない。アメリカの精神科医・R.ケイパーによれば「真の倒錯」とは破壊的なものであり、現実の対象との関係や現実の性的関係を破壊するものだ。マーサとの関わりはまさにその二者間以外の関係性を破壊していく。

しかしマーサとの二者間であれば、ドニーは自分を保つことができた。自分のことを男として賞賛してくれるというのは彼にとっての拠り所だ。そして倒錯した性衝動をマーサに向けることで、男性的なを取り戻す希望にもなった。かつての自分も、現在の自分も、マーサと関わることで一時的に救われる。そこで芽生えるのはドニーのマーサに対する一種の執着だと言える。

「他人を愛することよりも自分を憎むことを選んだ」とドニーが語る場面がある。他者との安定ではなくマーサへの執着を選ぶことを象徴する台詞だ。自分と同じような混乱した自己を抱えていると思しきマーサの中に自分の姿を見ては自分と同じように憎む。しかし自分を完全には捨てきることができず、マーサも同様に拒みきれない。壮絶に混乱した自傷的自己愛の姿だ。


最終話まで辿り着くと、その是非はあるにせよこうしてドラマとしてリチャードが精神的な傷を昇華できたことは1つの救いと言えるだろう。マーサという常識的な目で見れば到底容認できない行動を取る相手を通し、いや、通すのみならず、徹底的に知ろうとするアプローチによって自らの傷と向き合ったのだ。誰もができることではないし、禁断の手段なのかもしれない。

こうした傷を題材にした作品でありながら、安易にケアや寄り添いでまとめようとしない。真摯なコミュニケーションなんぞ成立しない相手もいるし、分かっていても抜け出せない業があることをまざまざと伝えてくる。このドラマは複雑に折り重なった感情をそこに在るものとして描き切る。その先に待つあのラストカット。地獄の入り口か、可能性の光か。貴方は何を見る?


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