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先生としてではなく患者に接する場所のこと

精神科医の仕事は病室であったり、診察室で患者と対峙することから始まる。初診であればこの方の症状は何か、病名は何か、適切な治療方針は何かを考える。再診や入院であれば今の治療で間違っていないか、今困っていることは何かを尋ねてどうすべきかを考える。これが私の仕事だ。

患者からは自然と“先生”と呼ばれる。初めて診察室で患者を診た日からずっとそうである。気づかぬ内に“先生”という導く側に置かれてしまうと、必然的に目の前の患者は導かなければならない存在だと考えるようになったわけだが、ここ最近それは大きな思い込みだと思い直すようになった。


4月から働いている病院ではデイケアに医師がスタッフとして参加しており、私も毎週1回はデイケアに参加している。デイケアとは主に退院した患者が利用するプログラムで、利用者同士の交流やレクレーションを通して生活リズムを整えたり、社会との接点を持続的に作る”場“である。


この場所では白衣を着ない。アリクイのワッペンを貼ったポロシャツをよく着る。そうなると“先生”という呼称は導く者という意味からただのニックネームになる。完全に立場を引き剥がされた状態でその場に参加する。患者に対して「導かねば」と思うことはなく、絵しりとりやモルックをやりながら一緒にその”場“を作る時間を共にするのだ。


立場を問わずに会話を交わせば、普段の診療がいかに“病気”にフォーカスしすぎているかが分かる。利用者たちはこうしてデイケアに参加できるまでに回復しているが今でも通院が必要な患者であるが、時間を共にしている間は“病気”について認識しづらい。その人としてそこにいるのだ。


身体疾患とは異なり、精神疾患はその人の心に存在しているわけだから病気だけを取り出して考えるのはそもそも無理がある。“病気”という要素が引き剥がされた場で医者と患者がラフに共にあれる時間にこそ、心を見つめるという意味では重要なヒントが隠れているかもしれないと思うのだ。

統合失調症を扱った映画『僕の頭の中の落書きたち』で、主人公の少年が放つ台詞に「僕は病気を抱えているけれど、病気そのものじゃない。」という言葉がある。私の仕事は、病気だけを見つめるだけでは成立しない。立場も、導きもない場所で、目の前の人物そのものを見つめることで初めて意味を成す。デイケアのゆったりと流れる時間は私の仕事を間違いなく磨いてくれているのだ。


#私の仕事 #メンタルヘルス #精神科医

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