見出し画像

自意識はどこに宿るのか

お父さんとお母さんが出会ってなかったら、あなたは生まれなかったのよ

どうもこの言葉に、昔から首肯できなかった。
自分が自分であるという意識を、血統やロマンチズムに求めることができなかった。
家族を軽んじたのでも、両親の出会いという事実にロマンを感じなかったのでもない。
ただ、漠然と「自分は自分だ」と思っていたのだ。

自分とは、これまで何を経験しどのように考え、どんな人と関わってきたかによって作られる自己の「物語」ではないかと感じていたのだ。

物語が紡ぐ自己

この感覚は大人になってから、更に強くなった。
若い頃に考えていたことが、歳を重ねて言語化できるようになったからかもしれない。
さらに言えば、父と母の遺伝子を引き継いだことに自己を見出すのならば、精子ひとつの違いで左右される(性別でさえ!)曖昧さに、自己の根源を求めたくなかったのかもしれない。

物語に自己を求めると、生きるのがとても楽である。だって、どう生きたってそれは自分の物語であり、自己であると認められるからだ。

「大きな物語」の崩壊は

価値観の多様化は、皆が一つの物語を共有する「大きな物語」時代の終焉である。そういわれて久しい。
だからこそ、自分の物語をしっかりと持たなくては、自己を見失ってしまうのだ。

血や家族に、自己を求めるのも結構。
だがそれは、家文化や血統を重んじる、昔からの、私から見たら古臭くて意味のない価値観=物語のコピーではないか。

「伝統」「風習」「慣行」は、ある一定の物語を作り、その共同体をまとめるのに役立つこともある。
それによって生み出された文化も多い。
大きな物語が崩壊したいま、そこにどれだけ頼り、自分に取り入れていくか。付き合い方が重要になってくる。

話は戻りますが

タイトルの言葉について、他の人はどう思っているのだろうか?
うまく説明できないし、なかなか話題にのぼることもない事柄だから、聞いたことがない。
誰かの考えを聞いてみたいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?