屁家物語タイトル

【短編】500円玉で買える贅沢

ひどく体が疲れていた。

よく昼間からごろごろしていると、背中から肩にかけての筋肉が聞き分け悪くなり、ひいては脚までが重くため息をつくことがある。怠惰な「疲れ」だ。
でも僕の疲れはそういう類ではなかった。3週間ほど休日出勤が続いていて休んでいない、れっきとした労働対価としての「疲労」だ。

「師走」とは坊主が走り回る姿が由来になっているはずだが、僕はそんじゃそこらの坊主より駆け回っている自信があった。
僕は都内の会社でゲームを作っている。配信が年始に迫っているせいで、あたふたと追い込まれるのは予想通りこの年末だった。

だが、それも今日で一区切りがついた。そして今日は500円で贅沢をすると、朝出勤した時から決めていた。1食追加するぐらいの贅沢だけど、バチは当たらないはず。そう思って最寄駅の改札を出る。かなり寒い。
尾崎豊は100円で買える缶コーヒーの温もりを歌にしていたが、その5倍もの贅沢をするんだ、と理由もなく故人にマウントをとってみる、今はそれぐらい気分がいい。

帰宅すると手際よくタオルと洗面器、洗顔、シャンプーを集めてビニール袋に入れる。あと下着だ。
外に出るとさっきにも増して辛辣な風が通り過ぎる。寒い。

でも、この寒さがいい。
そう思えるほど僕は余裕があった。ほんの些細な「全能感」に浸っていた。

真冬にサンダルで闊歩すること2分。東京にもこんな「味」のある建物があるのかと最初は驚いたものだが、もう何度目かの来訪なので驚かない。そして何度目かは数えていない。
番台で小さな爺さんが小さく小さくなってテレビを見ている。本当に内容を理解しているのか、惰性で電波を浴び続けているのか定かではないので、敢えて「観る」とは言わない。

「いくらですか」
「460円です」

爺さんは故・歌丸師匠が10歳若返って、きちんと一日3食食べた感じ。頭は禿げ上がっていて、左右から後ろにかけては綺麗な白髪だ。不快ではない。

「ごゆっくり」

おそらく誰が来ても淡々と接客しているのだろう、感情のメトロノームが1mmでも動いたのを見たことがない。本当にその数十秒は無かったことになるほど無機質な会話のまま会計をすませることになる。一度勇気を出して「シャンプーありますか?」と聞いたが「ボディソープもあります」とすんなり返してくれた。過不足なく、最短で事実を伝えてくる芸術点の高いコミュニケーション。でもメトロノームは微動だにしなかった。

脱衣所に入ると平日の深夜ということもあってガランとしている。
すぐさま浴室をガラス戸越しに確認するも、湯船に1人入っているだけだ。

圧勝だった。

僕は他人が嫌いだ。友達とか彼女とは違う、全然知らない「他人」が嫌い。
服を選んでいても「他人」が僕を見ていて、手に取る服のセンスを小馬鹿にしたり、値札を見て愕然とする様を笑っているように思えてしまう。だからこそ堂々と値札をまさぐって、おもむろに翻し、すぐさま退店するようにしている。でもそんな小芝居をする自分が嫌いになる。小賢しい、と。

銭湯なんて特に「他人嫌い」が出る。そもそも風呂での作法はひとそれぞれ違うはずで、頭から洗う人も、顔からの人も、一番汚いモノから洗う人もいるだろう。それゆえに各々が自分の「常識」に照らし合わせて互いの作法を見張っている、そんな気がする。そして少しでも違ったりすれば、あいつは汚い、あいつは潔癖だ、なんて思われるかもしれない。
もしくはモノを比較して優劣を付けられることもあるだろう。小学校高学年から誕生したあのヒエラルキーだ。もし親子連れにでも見られたら、家に帰って「パパ、あの人のやつ小さかったね」なんて言われるかもしれない。

だから一切人目に触れないところで洗いたい。でも家のシャワーより贅沢がしたいから、この時間の銭湯を選んだ。大正解じゃないか。

いそいそと服を脱いで、生まれたての状態に戻った。
もちろんタオルで隠したりはしない。隠す裏にある卑しい心理を見透かされて笑われ、それを弁明できないのが嫌だから。

浴室には洗い場が4列あり、入ってすぐのところに桶と椅子が積み上げられている。
綺麗に積み上げられた焦げ茶色の桶が作るアーチを見てなぜか「サグラダファミリア」を思い浮かべ、壊さぬよう一番上の桶を手に取った。

奥に湯船が3つあり、前述の通りそのうちの1つに男が1人入っている。そして洗い場には1人もいなかった。
すると後ろから1人、また40過ぎの男が入ってきた。

計3人。

どう考えても、1人1風呂の構図だ。
どの男が風呂を移動しても、ローテーションでどこかが空く。常に1人で風呂に入ることができる。足をめいいっぱい伸ばし、しとどに汗をかき、キツく締まった細胞たちを一度解き放って、あとは丁寧に陣形を立て直すまで眠って待つ。

完璧なプランだ。

僕は安堵し、洗い場で持ってきたアメニティを広げる。慣れている風に、あくまで常連を装って。
シャワーを勢いよく出し、暖かいことを注意深く確認してから頭にかけ始める。

すると、後から入ってきた男が、僕のすぐ後ろに座った。
僕はあまりの衝撃に、振り返ってしまった。そしてすぐ前を向きなおす。

なぜだ。洗い場は4列あって、誰も他に使っていない。奥にもたくさんの洗い場はあったはずだろう。なぜそこを選んだ。
詰問に近い形で問いただしたかった。純粋に思考回路が知りたいのと、いかに愚かな行為かを知らしめたかった。

男は勢いよくシャワーを出し頭を洗い始めた。
男の肌に弾かれた飛沫は何も悪びれることなく僕の背中に勢いよく当たってきた。

最悪だ。

男が髪をかきあげる度に頭皮を経由して飛来する雫は、瞬間的に僕を不快にしていく。汚い汚い汚い。
500円の贅沢がいとも簡単に崩された。

こっちが移動しようか、とも思ったが、それは男を刺激する行為かもしれないし、僕に移動する合理的な理由は見つけられなかった。
とにかく怒りが抑えられない。とりあえず手短に報復をすることにした。男と同じようにシャワーの出力を上げ、応戦する。予想通り、男から反応は無かった。正直当たっているかどうかも判断つかなかった。

こうなると部が悪い、勝ち目はない。男は僕みたいなタイプではない、ガサツなやつだ。
僕が千原ジュニアなら、あいつは千原せいじだ。せいじのことは好きだったが、今はハッキリと嫌いだ、と言えた。せいじが嫌い。

とにかく自分もせいじよろしく、気にしていないフリをすることにした。目には目を、歯には歯を、せいじにはせいじを、だ。

僕はただ頭を洗っている。熱心に、ご機嫌に、そこに誰もいないかのように頭を洗う。今日はちょっとした贅沢をしに来たんだ。よし、いい調子だ。
鏡には無表情な自分。そして、男の後ろ姿も映っていた。いやでも視界に入った。もう逃れようが無い。男を忘れようとすればするほど意識してしまい、どんどんイラつかされる。

僕が何をしたっていうんだ。
あんなに働いて、やっときた束の間の休息が、なんでこんな風に壊されるんだ。

いとも簡単に僕は絶望していた。
完璧に作り上げていたイメージだったからこそ、崩れるときも簡単だった。

空虚なまま、最後の抵抗として桶を元の位置より少しずらして返した。
サグラダファミリアは、それはそれとしてアリに見えた。形は崩れても美しさは変わらない。もはやガウディにもうっすらと憤りを覚える。なに作っとんねん。

手際よく着替え、番台の横を通るとき、爺さんは少し、はっ、としたように見えた。とても不思議そうに僕を見て、すぐにテレビへ視線を戻す。

そうだ、僕はお風呂に一度も浸かっていなかった。

サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。