「大竹しのぶ」は褒め言葉なのか?
人間によく来る同い年の女で、フリーランスでPRを担当している小田切という友人がいます。彼女とは普段から公私隔てない話で盛り上がる仲です。
そんな小田切が少し前から髪を短髪にしていて、なかなか似合っているなと感心しています。
ここまで短くするのには女性として勇気がいる行為でしょうし、それでいてそこまで違和感なくまとまっているのは天晴れです。
今日も朝から人間に来ていた小田切が、帽子から出した前髪の形を気にしていたので、私は素直にこう言いました。
「大竹しのぶみたいやな」
すると、その場に居合わせていた弊社代表の2人、花岡さんと山根さんは口を揃えて「それはヒドい!」「ホンマにデリカシーないな!」と私を非難しました。
それを聞いていた小田切も「えー!ひどい!」とトイレに駆け込み、結局前髪を全部隠してしまいました。
再三にわたって「大竹しのぶは褒め言葉なんです」「男女7人の頃見てくださいよ」と弁解しましたが、結局は「シャニカマが何言っても馬鹿にしているようにしか思えない」という人種差別にも似た暴論で不毛な論争は強引に収められてしまいました。
あまりにも悔しい。
どうしてこの混じりっ気ない「善意」が、完全なる「悪意」として受け取られてしまうのでしょうか。
先日観た映画「JOKER」でも、心優しいアーサーの善意がことごとく悪意として受け取られ、絶望し、最後には悪のカリスマになっていく様が描かれていました。
そう、人を「悪」にするのは本人だけではなく、そう仕立て上げる周りの影響が多分にあるということです。
今回の件でもそうです。
「大竹しのぶ」を「褒め言葉」ではなく、「悪口」として捉えたのは周りにいた第三者である花岡さん、山根さんです。
私は美しい「大竹しのぶ」を脳裏に描いて髪型を称賛しましたが、それを聞いた2人は年老いた老婆としての「大竹しのぶ」を想像したのでしょう。
これは他ならぬ2人の悪意がそうさせたに違いありません。
「今の大竹しのぶは年寄りじゃないか!」
という人もいるかもしれませんが、それは関係のないことです。
例えばバッティングセンターでイチローの打法を真似する少年がいたとしましょう。その時にあなたはどの時代のイチローを思い浮かべますか?
引退した今のイチローでしょうか?
全盛期のイチローでしょう?
それと同じことです。
別に誰もが最新状態を連想するものではありません。
それに、2人が一番よく観ていたのは20年以上も前の大竹しのぶなのですから、わざわざ年老いた大竹しのぶを連想する方が不自然なことです。
「せめて『若い頃の』とかつけろよ!」
という人もいるかもしれませんね。
いや、大竹しのぶのこと、ちゃんと理解していますか?
あの方はさんまさんと結婚した40年前からほとんど髪型が変わっていませんから、わざわざ『若い頃の』と付けても蛇足でしかない。
それは「俺らが習った頃の九九は」や「戦前の地球の形は」と言ってるようなものです。変わるはずがないものに敢えて時代性を修飾する必要はどこにも無い。
にも関わらず、敢えて「老婆としての大竹しのぶ」を持ち出し、若くてオシャレな小田切に当てはめようとする2人にこそ「悪意」があるのではないでしょうか。
本当の「悪」とは何か。
どこにあるのか。
考えるきっかけにしてみてください。
サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。