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折坂悠太「さびしさ」について#番外

折坂悠太が2018年にリリースしたアルバム『平成』。そこに収録された「さびしさ」という曲について、思いを巡らせ、書き綴っていくシリーズですが、毎回どうにも硬くなってしまって、ちょっと疲れたので、今回はちょっと外してみます。番外編です。

この曲を聴き込むうちに、ふと、昔読んだある漫画のことがちらついて、「あれ、なんかリンクしてる?」と思い始めたが最後、どうにも気になってしまって、昨日ついに本棚の奥から引っ張り出してきました。これです。

かわぐちかいじ著「沈黙の艦隊」。その31巻です。

いやいや、おっさん、沈黙の艦隊て、「さびしさ」とリンクとかこじつけもいいところでしょ、と自分の中の別人格のぼやきが聞こえてきますが、残念ながらまったくそのとおりですね。

わかってはいるんですけど、読み返してみるとやはりグッとくるシーンの連続で、折坂悠太に乗っかってちょっと語りたくなってしまいました。

「沈黙の艦隊」は、海江田という天才軍人にして圧倒的なカリスマが、最新鋭の原子力潜水艦を盗んで独立国家「やまと」を宣言し、たった1隻でロシアやアメリカの軍事力を打ち破りながら、最終的には国連総会で核兵器の廃絶、戦争の根絶を提唱するというストーリー。この雑なあらすじではまったく意味がわからないと思いますが、要は、主人公海江田はある種のテロリストでありながら、人類社会の痛いところをついて青臭い理想を語り、だけれども天才ゆえにそれを実現し、支持を得てしまうわけです。この海江田に立ちはだかるのがアメリカ合衆国大統領のベネット。この31巻では、ベネットは、個人としては海江田に惹かれながらも、「やまと」をミサイルで海に沈めたうえで責任ある大統領として現実ベースな選択をし、だけど戦争根絶という理想に向かうことになります。その間に海江田とベネットが2人で交わすわずかな会話、まったく立場を異にする2人が互いに共有できる「不完全なYES」を見い出し、喝采の中で握手するシーンがこちらです。

かわぐちかいじ「沈黙の艦隊」31巻(講談社モーニングKC)、P208-209(上)、P212−213(下)

久しぶりに読んで、海江田よりもベネットに感情移入してしまうことに気づき、自分も大人になったなあとしみじみしてしまうわけですが、そんなことよりも、この「不完全なYES」ですよ。ここには「さびしさ」が含まれていると僕は考えてしまうのです。国家、人種、宗教、思想、性別、業界、企業、自治体、学校、団体、サークル、家族。人間社会には様々なくくりがありますが、これ以上細分化できないという最小単位が個人。「さびしさ」は個人にのみ属するために、いかなるくくりからも独立し、純粋です。だからこそいついかなるときも共有できる。

もう1つ。

この海江田の演説シーン。

かわぐちかいじ「沈黙の艦隊」31巻(講談社モーニングKC)、P140-141

「人類の名においてのみ”われわれ”という言葉は存在します!」というセリフ、第2回で取りあげたCINRA.NETのインタビューで折坂悠太が語っていた

何かの思想のもとに集まるものって僕はあまり信用してないんです。みんないろんな立場があるだろうし、「私たち」っていう言葉で括れることってあまりないと思うんですね。「俺たち同じ人間じゃん」といってもやっぱり壁はある。でも、ただ1つだけ、生まれ落ちた1人の人間としてのさびしさをみんなが抱えているという意味では、「私たち」と言っていいんじゃないかなと思っているんですよ。

とまさにリンクしてる。結局、「われわれ」とか「俺たち」なんて現実としては言えないんですよね。だけど、折坂悠太は「さびしさ」を発見し、そこにかすかな希望を見ているからこそ「やがておれたちは〜」と歌っているわけです。

「沈黙の艦隊」は、人類というとてつもなく大きなくくりの話になってしまったので、フィクションというよりもファンタジーとして扱わざるを得ないこともしばしばです。けれど人類とまで言わずとも、自分たちが属している小さな社会がすでに不条理であふれている現実。だからたとえファンタジーと言われようが、理想を掲げてほんの少しでも進んでいきたいじゃないですか。そのとき「さびしさ」という小さくとも堅固な地盤に軸足を置くことで、その第一歩を踏み出すことがきっとできるのだと思うのです。


(なんかまたポエムっぽくなってしまった。。まあいい。)


ついでですが、「沈黙の艦隊」の32巻(最終巻)では、海江田の心臓の音がクローズアップされるシーンがあって、おっ、「手持ち無沙汰な心臓」じゃないか、と思ってしまいました。

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