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折坂悠太「さびしさ」について#02

この名曲を自分なりに受け止め、何が歌われているのかを言葉で書き綴っていく(という全く慣れないことに挑んでみる)シリーズ。
色々と悩みましたが、まず「さびしさ」ってそもそも一体何なのか。それを探るために既存のインタビュー記事を読み直してみます。


まずはCINRA.NETの記事から。インタビュー・テキストは大石始さん。2018年10月2日公開。

折坂:“さびしさ”は今回のアルバムのなかでも思いのレンジが一番幅広いと思いますし、アルバムの構成として全曲がこの曲に向かっている感じがするんですよ。
何かの思想のもとに集まるものって僕はあまり信用してないんです。みんないろんな立場があるだろうし、「私たち」っていう言葉で括れることってあまりないと思うんですね。「俺たち同じ人間じゃん」といってもやっぱり壁はある。でも、ただ1つだけ、生まれ落ちた1人の人間としてのさびしさをみんなが抱えているという意味では、「私たち」と言っていいんじゃないかなと思っているんですよ。

—そこでいう「さびしさ」とは、孤独感とは違うわけですよね。

折坂:そうですね。僕も家に帰れば家族がいるけど、「さびしいな」と思うことはあるわけで。さびしいから人間は寄り合って生きるということもあると思うし、同じ人間にはなれないという、どうしようもないさびしさもあると思うんですね。誰もが自分の居場所を見つけようとしている途中にあると思うんですよ。誰もそれを邪魔してはいけない。
折坂:たとえば、相模原の障害者殺傷事件。あの犯人は「障害者は生きる意味がない」ということを言うわけですよね。あの事件が起きて以降、僕はずっとそのことを考えていて……。こういうことを言って曲が色づけされるのはよくないことかもしれないけど、僕は彼が言ったことに対しては全身全霊をかけて否定し、反論していきたい。上辺の言葉だけじゃなくて、具体的に心を動かす表現によって否定していきたいんです。


次にReal Soundの記事。内田正樹さんによるもの。2018年10月3日公開。

ーー〈やがておれたちは 砂浜の文字を高波に読ませて言うだろう 「長くかかったね 覚えてる」〉という歌詞からは、「揺れる」と同様に震災が想起されます。

折坂:そうですね。あとこの曲には、自分がフリースクールに通っていた頃から知っている人たちの顔があって。その中には障害を持った人もいて。相模原の施設で殺傷事件が起こった後、あの事件をどう捉えたらいいのかと、フリースクールのみんなが考えたと思います。あの事件の被害者の方々は、「生きていても意味がない」みたく言われて殺された。その完全に間違った考えかたを、自分はどういう言葉で「間違っているぞ」と打ち負かすことができるかと考えた。でも、僕には敵う言葉が浮かばなかった。だから、それに対する答えを、自分の全部の表現をかけて歌にしてみようという思いがまずあって。


ポップソングで「さびしい」と歌われるとき、それはほとんどの場合「あなたがここにいなくてさびしい」ですよね。これは言い換えると「あなたがいればさびしくない」ということ。

でも折坂悠太の「さびしさ」はそれとは違って、「あなたがいてくれてもさびしい」という、なんというか、本当にどうしようもないものです。手をつないでも、体を重ねても、あなたの心臓はわたしの心臓ではない。意気投合しても、どれだけ思いを寄せ合っても、あなたの心はわたしの心ではない。あなたはわたしではない。

ナイーブ過ぎるのかもしれませんが、生きている限り、この「さびしさ」はなくならない。だけど、「わたしはさびしい」のであれば「あなたもさびしい」のだから、その点においては「わたしたちは同じ」なんですよね。まずはその気づきが大事。

誰もが「さびしさ」を抱えながら生きている、誰もがそのことに気づいたなら。個々の「さびしさ」に対して、社会全体で折り合いをつけていける。


この「さびしさ」の歌詞にはこんなフレーズがあります。

やがておれたちは 砂浜の文字を
高波に読ませて言うだろう
やがておれたちは 新聞の隅で
目を凝らす誰かに言うだろう

この『おれたち』って誰たちなのか、それを考えるだけで、この曲に込められたイメージが少し掴めたような気がするのです。


言葉足らずかもしれませんが、今回はこのへんにしておきます。今日、久しぶりに辞書を手にとって「さびしい」を引いてみたので、そこに書いてあった最初の項目を置いておきます。

さびし・い 寂しい (形)
一 自分と心の通い合うものが無くて、満足できない状態だ。

三省堂 新明解国語辞典 第五版


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