ブスの刻印は一生消えない

なんかさあ、わたしって本当に息をするように自虐してしまうんだよなあって、人と話す度に自覚する。


「あなたは素敵なのよ、私は駄目だから」
「私みたいな奴を好きになる人いないから」
「いやわたしほんとカスだからさ」
「鏡見たらブスすぎてびっくりした」
「まあ私が見た目気にしたところで誰が見んねんって話なんだけどさ」


こういう台詞をなんの意識もせずにぽろぽろ零してしまう。その度に相手を困らせて、そんなことないよ以外に返す言葉がない状況に陥らせてしまう。良くない。本当に良くない。いい加減に直したい。そんな空気にしたいわけじゃないのに。どうしてわたしの口は嫌味ったらしい卑屈な言葉しか出てこないの。ギリ躊躇ったとしても頭の中は自分を罵る文字でいっぱいになる。もーーやだ。


その中でも一際デカいのが「ブス」の2文字。大体のことが「まあ私ブスだからな」で済んでしまう。そう、私はブスなのです。見た目も中身も。どっちが先かなんてのをはっきりさせようとすると鶏が先か卵が先かの水掛け論になりそうな気がするのでここでは控えますが、個人的にはぶっちゃけ見た目が先だと思ってる。見た目がブスで、それについて言及されたことによって中身が歪んでいき、世にも見事な卑屈ブスが完成した。そりゃまあ美人にだって美人だからこその苦労は沢山あることでしょうけど、どうせ苦労するなら美人側の苦労の方がまだ……とか思ってしまうんですよ歪んでるからね。でも私だって物心ついたときから自虐ばっか言ってたわけじゃないんだ。そもそもブスという言葉だって実はめちゃくちゃ大勢の人に言われたことがある訳じゃなくて、直接わたしに言ってきたのは記憶上だと何と2人だけなんですよ。



そう、たった2人。
その2人に浴びせられた何十回もの「ブス」
が、私の心に深く深く刻印されている。



中学時代、私は彼女たちに会う度ブスと言われていた。帰り道では当時流行っていたチャンカパーナのメロディに乗せて合いの手でブスブス♪と歌われ、ブスッという効果音と共に何かを刺す動作をしながら、笑いながら言葉を刺され、「目が粒みたいに小さいから」という理由で「めつぶ」とあだ名を付けられ、「視界の範囲ここまでしか見えてないでしょwww」と、両手で目の横に壁を作られ、「見える?ここ見える?これはギリ??」と視界の端で手を動かされる。


嫌だった。本っ当に嫌だった。
でも家が近いから、高確率で帰り道に鉢合ってしまう。だから帰り道のルートを変えたり敢えてゆっくり歩いたり逆に走ったりして、会話するのを懸命に避けた。


でも逆に言うと、私に面と向かってブスと言ってきたのはこれまでの人生でその2人だけ。それ以外は目が小さい弄りとか癖毛弄りとかそれくらいで、後は異性からの接され方だったり、世間一般のいう「可愛い」と「ブス」の違いを知って自分が後者の特徴に多く当てはまることをジワジワと理解していったり、という程度。まるで大袈裟なことのように書いたけど、これでもはっきりとしたイジメとは言えないだろう。だからこそ私はその耐えられない苦行を誰かに言うことも出来なかった。彼女たちからしたらその言動はただの遊びの延長で、向こうは仲良くしてるつもりなんだろうという感覚は私にも分かった。普通にテレビの話で盛り上がれてるときなんかもあったから。もしかしてアレっていくらなんでも辛すぎたんじゃないのと初めて分かったのは数年後で、むしろ当時の私は2人を避けている自分の方に罪悪感が芽生えていた。イジメでもないのに、ただの冗談だよ、でも結局一緒に話してるんだから仲良いんでしょ。そんな風に思われるのが怖かった。


だから、笑いに変えて流すことでなんとか自分を守っていたんだと思う。どうせブスと言われるなら先に自分から言った。そしたら笑いが起きた。ブスと言われるよりウケると言われた方がまだよかった。だからまた私はブスだからという。ウケる。そのうちブスに留まらずありとあらゆる言葉を駆使して自分を罵る。ウケる。よかった。そしてまた自虐。はい、隙あらば自虐人間の出来上がり。


あの子たちは多分こんな些細な会話を覚えてない。実際、高校生のとき彼女たちにそれぞればったり会ったときは、まるで人にブスなんて台詞を吐いたことがないような顔をして久しぶり〜!と笑って話しかけられたので、私も普通に応えた。私は犬の散歩コースが彼女たちの家の前になってしまってるせいで、そこを通る度に記憶が蘇るから忘れることなんてできないけど、彼女たちは今後関わる可能性が低い人間のことは忘れて、しっかり今を楽しんでいる。彼女らのインスタを見ると、友達とライブに言ってグッズのタオルを掲げてる写真とか、友達とのプリクラに「○○のおかげで大学がんばれたよ、ありがとう!」という文章を添えた投稿とか、意味深な写真と共に失恋ソングの歌詞を書いてる投稿とかが載っている。なんの躊躇いもなく自撮りをストーリーに載せている。


そんな彼女たちと、小中学生の頃に言われた嫌な思い出を毎日思い出してはこうして文字に書き起こしているわたし、どっちの方がヤバくてキモいでしょうか?せーの、わたし。



自虐は相手に失礼だからやめよう、過去を引きずってても意味無い、相手は忘れてるんだからあなたも忘れよう、とか言われたとしても、いやうるせえよって感じ。自虐は私を守る鎧なんだよ。そうするしかなかったんだよ。


だけど結局は卑下することで自分を傷つけてるよね。最強の盾は最強の矛にもなり得るってか?自分を傷つける矛になってるね。やかましいわ。


でもさ、どんだけ励まされても慰められても世界からルッキズムが無くなったとしても、「私はブスである」ということは、もう自分の中で揺らがない確定事項なんだよねー。この先何をしたらこれを覆すことができるのか分からない。『ルッキズムを無くしたいんじゃなくてルッキズムの中で認められたい』どっかで誰かが言ってた。たぶん私もそう。ルッキズムの中で認められたら、きっと私は私の顔を少しは許せるんだと思う。整形はそのうちするけど、その後の自分の顔を受け入れられるかどうかは分からないし。




何気ない冗談の「ブス」がこんなキモいクリーチャーを生み出すんだから、人の外見に言及するの本当にやめておいた方がいいよ。これ以上この世に私みたいな可哀想な生き物を生み出さないでくれ。

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