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ロミオとジュリエットと恋愛と死

物語とは?

物語ってなんでしょうね?
いや、定義はいろいろあるんです。
世の中には、物語を構成する要素を学問する人たちもいますのでね。
なので、しゃみめが「何をもって物語というのか?」という持論を展開していこうというのが、今回のnote記事となります。
まあ、例によって益体もない噺でございます。
暇をもてあましているという方だけ、どうぞ。

ヘミングウェイの最高傑作

"For Sale: baby shoes, never worn."
 「売ります:赤ちゃん用の靴、未使用です」


これは、世界で最も短い物語として知られている文豪ヘミングウェイのテキストです。
僅か6語。世界最短の物語といって差し支えないでしょう。
ヘミングウェイ自身、このテキストこそ我が最高傑作だと評したそうです。

では、これは物語でしょうか?

もちろん物語だというのが、しゃみめの考えです。
では、何故、物語といえるのか?
ここからがしゃみめの持論でございます。

この6語を読んで、皆様はどう思われましたか?
「赤ちゃん用に買った靴を、どうして未使用のまま売ったんだろう?」
「もしかして、赤ちゃんはこの靴を履く前に亡くなったんじゃない?」
「いや、もしかしたら、母親も……」
「これを売り出したのは残された父親なのかも……」
などなど。
心を寄せ、心を揺らし、あなたの中に物語が生まれたのではないでしょうか?

はい。そうです。
物語は、文字や言葉や絵や音の中にはありません。
物語は、文字や言葉や絵や音に触れたあなたの中にあるのです。

物語に触れた人の中に、物語が生まれる。
これができて初めて、物語は物語足りうるのです。


畢竟、これだけが物語の要件なのです。

ロミオとジュリエット

わざわざ、しゃみめのnote記事にお立ち寄りくださる数寄者の皆様は、きっと『ロミオとジュリエット』の筋書きくらいは御承知のことでしょう。
なので、これはまあ、大いなる蛇足というものでしょう。
それでも、順を追って話すことが大切なのです。
お付き合いくださいませ。

イギリス史上最高の作家にして、今なお世界中で愛され続けている人物。
それが、ウィリアム・シェイクスピアでしょう。
彼が遺した作品は大変に多くありますが、現代においては四大悲劇に代表される『悲劇』を描いた作家として意識されていますね。
本稿では、特に『ロミオとジュリエット』についてピックアップしてまいります。

ベタなストーリー

『ロミオとジュリエット』の大筋は、現代の読者からみても、これ以上ないほど判り易くなっています。
むしろ「ベッタベタやないかい!」っと、突っ込まれそうなほどです。
一応、Wikipediaのリンクを張っておきますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9F%E3%82%AA%E3%81%A8%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88

掻い摘んで言いますと、
「うっかり出逢った男女が、一目惚れして結ばれたいと願いつつも、それぞれの実家の怨恨もあって引き裂かれ、それでも真実の愛を求めた」
とかなんとか。
そんな感じの話です。
ありきたりですね。

実は元ネタが

作品、シェイクスピアの代表作として知られていますが、実は彼の完全オリジナル作品ではありません。
そもそもシェイクスピアの作品には、ほとんど元ネタが存在するのです。
元ネタとされる作品は、アーサー・ブルックという人物が1562年に出版した『ロミウスとジュリエットの悲しい物語』です。
もう、タイトルからしてそのまんまです。
ただし! さらに興味深いのはこの『ロミウスとジュリエットの悲しい物語』という作品も、ブルックがオリジナルに考え付いたものではない、ということです。
ギリシア神話や古代の伝承からの影響がみられることから、そのルーツはもはや特定することが困難なほど古いとされています。
西洋の物語の類型を辿ると、必ずといっていいほどギリシャ神話に行き当たります。
もう、これは仕方がないのです。
何が仕方ないのか?

人が、古今を問わず、男女を問わず、慈しみ執着してきた物語、つまり心を寄せ心を揺さぶられる心象というのは、変わらないからです。

幾星霜を超えて、人が求める物語にそう変化がないというのはシェイクスピアに限ったことではありません。
ディズニーに代表されるプリンセス童話も同様です。
このあたりは、過去記事でも触れておりますので、そちらにもお立ち寄りくださいませ。

https://note.com/shamizui/n/n4c6b04fc43ea

『美女と野獣』とプリンセス童話について、フワッとした私見を述べておりますので。お暇であれば。

愛と死

いささか脱線いたしました。
戻しましょう。
『ロミオとジュリエット』の主軸とはなんでしょう?
もったいぶっても仕方ありませんので、単刀直入に申します。

愛 と 死  これだけです。

ガンダムの生みの親、富野由悠季監督が2023年11月2日に、KADOKAWA・ドワンゴによる“ネットの高校”N高等学校・S高等学校(N/S高)の生徒に向けた特別授業「学園生のための特別授業 富野講座」で以下のように語ってくださっています。引用します。

「映画」と話題になると「ここ20年ぐらい骨身にしみていることがあります。“映画の根本って何?”ということです。最近、ようやく分かってきました。それは恋愛映画です。つまり人の話でしかないのですね。結局、一般客は人の物語しか見ていません。“自分はメカものが好きだ!”とか言っているようなオタッキーな人でも、10年ぐらいすると、“あのアニメは良かったよね”“あの映画は良かったよね”と中身は恋愛話をしています。我々は男と女に分化して、成長して、文化を作ってきた人類です。 そういう生物ですから、根本的な恋愛話にスーッと入っていけるのでしょう。たとえば、アガサ・クリスティの良くできたミステリーを見ていると、強いて人間関係を描いていて、恋愛映画として作っているところがあります。そこを絶対に間違ってはいけません。今、皆さんはアニメも当たり前のように見るようになってきました。気をつけてほしいのは、絵にごまかされないで、“自分たちは一体何を見ているのか”、結局“人の物語を見ているんだよね”という部分をとても大事にしていただきたい。これだけは、千年たっても二千年たっても、人類は変わりません。オスとメスに分かれているのですから。それを覚えておいてください。

わたしたちは、様々なテーマの物語を摂取しているように思い込んでいますが、詰まるところ

愛と、そして愛の非成就としての死、このふたつのみを摂取しているのです。

死というスポットライト

富士鷹ジュビロ……、ではなくて。
藤田和日郎という大漫画家がいらっしゃいます。
『うしおととら』『からくりサーカス』『黒博物館』など、錚々たる連載作品を創出してきた偉人です。
藤田先生はとあるインタビューにおいて、以下のようなやりとりを残しています。引用します。

Q. キャラクターの死に様とか、死に際のセリフは始めから考えてるんですか?

A. 殺すキャラクターは大好きなキャラクターなの。だから、死ぬことによってスポットライトを当ててやりたい。俺の大好きなキャラクターがその他大勢のモブと一緒に戦いを見上げているのは許せない。
「死に様は生き様」だと俺は考えてる。
主人公よりも好きっていうぐらいのキャラクターが死ぬときは、そいつが一番好きなもののために死ぬようにしてる。「こいつはこの生き方しかできなかったんだ」「こいつはこういう大好きなもののために戦って死ぬんだ」ってスポットライトを当てたい。
だから、好きなキャラクターこそ殺してやりたい。そしたらみんなも覚えてくれるでしょ? そういうつもりで制作してるから、大抵の登場人物は出てくるときにもう死の影を背負ってるの(笑)。さっき話した、「好きなことを言語化したら強い」ってことなんだけど、俺の場合は「色気があって飄々とした男が死ぬのが見たい」ってことだから、そういうキャラクターは出した瞬間に死の影を背負っている。週間連載だから先のことは考えにくいけど、去っていくキャラクターは出たときには決まってる。だから着々とストーリーを進めつつ「こいつはこうやって去っていくんだなあ」と思いながら物語を考えることが楽しいですね。

殺すキャラクターはね、「大好き」なキャラクターなんだ。

トップ画像は、しゃみめのTwitterアイコンで使われているものでご覧になった方も多いかと思います。
これは、しゃみめの信念のひとつです。
堅苦しい言い方をすれば、これはつまり、

『キャラクターの死』と『物語の山場』は相関する

ということです。
勘違いしてはならないのは、キャラクターが死ねば物語が盛り上がるわけではない。
ということです。
キャラクターが死にさえすれば、悲劇的で劇的な物語になるわけではないのです。因果ではないのですね。あくまで相関なのです。

ではどうして、『キャラクターの死』と『物語の山場』は相関するのでしょうか? それは

『死によって得られた価値』があり、けれど、『死によって喪失』がある

からです。
価値があり、ただし、喪失がある。
この二律背反が、葛藤が、苦悩が、物語を盛り上げてくれるのです。

価値とは『愛』であり、喪失とは『死』です。

『ロミオとジュリエット』が時代を経ても愛され続けているのは、つまり、
『愛』と『死』を、その物語の肝を、最大限に発揮しているからです。

で、マダミスは? って話よ

マーダーミステリーでは、死者がいます。
マーダーというくらいですから、まあ大抵は死んでいるわけです。
せっかく死んでいるのです。
「どうして、彼は彼女は、死ななければならなかったのか?」
これを最大化したいわけです。
最大化できれば、その背景を、驚愕と納得の極限を、描き出すことができれば。
それでもう、物語は出来上がります。
あとは枝葉を添えれば出来上がります。

機械的に、事務的に、
まあ、マーダーミステリーだから死んでて当然では?

これでは如何にも勿体ない。
死ぬだけの背景が、物語が、そこにあれば。
その背景を求め、その物語に触れ、体験者は物語を得るのです。

体験者自身の中に物語が湧き出るのです。

こうしなくてはならない。
こうすべきです。
筋書きの押し付けであってはならないわけです。
体験者の中に物語が生まれる。
こうありたいわけです。

じゃあ、お前はできてんのかよ!

と、言われると「時と場合に因る」としか言えないのがツラいところです。
でも、いつでもココを目指しているのは間違いないのです。

ほんとです。
信じてください。


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