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仏教の冷たさキリスト教の危うさ~読書記録283~

2016年、ドイツ人曹洞宗の僧侶によって書かれた本だ。


一神教はなぜ争うのか?
「悟り」「執着」とは何か?
ドイツ人禅僧が教える、日本人のための宗教原論。
「家族を捨て、悟りを開いたブッダは、実は冷たい人だったのではないか?」
「愛を説くキリスト教徒は、なぜ戦争ばかりしているのか?」
この、多くの日本人が持つ“疑問"に対して、ドイツ人禅僧である著者が「仏教」と「キリスト教」を対比させながらひとつの答えを出す―。
「仏教」と「キリスト」教の違いが一読でわかる!
現・曹洞宗の住職で、元・キリスト教徒(プロテスタント)による、異色の比較宗教学。(本の紹介より)

ネルケ 無方(ネルケ むほう、1968年3月1日 - )は、ドイツ生まれの曹洞宗の僧侶である。2002年から2020年まで曹洞宗・安泰寺の住職を務めた。俗名はイェンス・オラフ・クリスティアン・ネルケ。
ドイツの牧師を祖父に持つ家庭に生まれる。7歳で母を亡くす。キリスト教主義学校の高校在学時に坐禅と出合い、将来は日本で禅僧になろうと夢を抱く。

この本は、図書館で宗教の棚にあったものを見つけたのだが、実に私にとっては素晴らしい出会いの本だったと感じてしまう。

余談だが、↑に挙げた2冊も同じ棚に並んでおり、一緒の日に借りている。
横浜市の図書館は、一度に10冊借りられるので、同じような分野の本を比較したい場合には有難い。

少し前の状況から述べると、私自身は、ネルケ無方さんのように積極的に仏教を学ぶつもりはなく、キリスト教に疑問を持ち破門され、その足で元々の実家の宗教である真言宗の寺院で1人黙想をして落ち着いたという、それだけなのだ。
恥ずかしいことに、仏教についても神社の正しい参拝についても全くわかっていない。日本人ではないのかもしれない。

ネルケ無方僧侶による仏教の解説はもとより、キリスト教の話は分かりやすかった。日本人の神父、牧師とは違う視線で説かれているからかもしれないが。
若い頃からかなり聖書を読んできたと自負する私ですら、え?そうなの?と思うものであった。例えば、イエスの死と復活についてなどだ。
本当に復活があったわけではなく、使徒たちがそう思い込みたいのだ。
パウロという使徒についても新たな見方が出来た気がする。
キリスト教、ユダヤ教は一神教である。これが、当たり前のような先入観のように感じているが、モーセが十戒を授けられる時に神の名前を尋ねている。実は、ユダヤ教でも元々は、多数の神々がいたのだそうだ。その中でも、YHWHの神が一番力強いという事に気づいたらしい。
「私は妬む神」とイスラエルの人びとに告げているのは、それでか。と納得もしたのだ。

キリスト教をはじめとした一神教には、強烈な「ニオイ」を感じます。ところが、仏教をはじめ日本の宗教には、あまりニオイを感じません。ニオイのない宗教に慣れ親しんできた日本人にとって、一神教の強烈なニオイが「理解しよう」という気持ちの妨げになっているようです。(本書より)

著者は、ご自身が牧師の孫と言う立場でもあるので、キリスト教に関しての知識が深い。そこで、キリスト教と仏教とを比較させながら、読者自らが考えるようにさせていくのだ。

「無宗教のすすめ」です。無宗教と言っても、「宗教は持たない」「宗教を捨てろ」という意味の無宗教ではなく、日本的な無宗教です。
ここで言う無宗教の「無」とは、有無の無ではなく、天地いっぱいを受け入れる器のことです。無心と言う言葉も「心が無い」という意味ではありません。「すべてを受け入れることが出来る心」それが「無心」です。
(本書より)

先日、読んだ千葉県成田市の長寿院の篠原住職の著書と被るな、と思う個所がいくつかあった。
釈迦は「わからないことはわからない」と言っているという事がその1つだ。人は死んだらどうなるのか?など、釈迦は「わからない」とハッキリと告げているのだ。
もしかしたら、曹洞宗の僧侶として立つ者が学ぶ姿勢なのだろうか。

ネルケ無方僧侶が、何故にキリスト教徒から仏教に回向したか。それは、この本ではわからなかった。
モームは、クリスチャンが嫌いだった故にキリスト教からも遠ざかっている。
仁木悦子さんは、キリスト教の説く事に疑問を感じ、自ら棄教している。

実は、多くの仏教関係者から非難されるかもしれないが、私自身は、仏教の教えがよくわかっていない。何しろ、還暦間近になっての回向なので、念佛も般若心経も覚えられない。脳が溶けているからメモを取らないと、すぐに忘れてしまうから新しい事が覚えられないのだ。

ただ、五木寛之先生やネルケ無方僧侶の言うように、「自由に生きる」。これでいいのではないか、と最近は思っている。


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