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赤毛のアンに学ぶ幸福になる方法~読書記録92~

2008年 脳科学者・茂木健一郎先生による書き下ろしの書。

たまたま図書館で見つけたのだが、
「え?東大卒の科学者の茂木先生が赤毛のアン!?」
と言う驚きが強かった。

興味を持って借りて読むと面白い。
読むうちに、科学者だからこその物の見方、捉え方もあるのだと感心しきり。
「脳は一千億個の神経細胞からなる、単なる物質です。科学的な常識から見たら、別に我々が意識を持つ必要なんてないんです。それなのに、僕たちは、日々、喜び、怒り、悲しみ、そして笑い合う。そういった感情はどこからくるのか。これこそが人類にとっての最大の謎であり、大いなる奇蹟です」(本書より)
恥ずかしながら、脳について、このような考えを持った事は一度もなかった。私たち人間、または哺乳類が考えたり、感情を持つのは当たり前と思っていたのは私だけだろうか?
こういう捉え方が、さすが脳科学者の先生で、面白いな、と思った。

茂木先生は小学生の時に「赤毛のアン」にハマり、高校生の時に原文を読まれたという。
そして、高校時代にカナダにホームステイ。しかも、それは「懸賞論文」を書き、大人に勝利してのものであった。
茂木先生のようには、とても行かないが(いかんせん、脳味噌の作りが。。。)、誰でも小さい頃に心掴まれたもの、経験があるのではないかと思った。

ということで、本題。
茂木先生が結論づけている「幸福になる方法」は、自分の運命を受け入れることではないかと。
マシュウとマリラの兄妹は、農業の手伝いをしてくれる男の子が欲しくて、孤児院に男の子をお願いしていた。けれども、やってきたのは女の子。
全くの手違いであったが、彼らはそれを受け入れた。
そして、想像力。

アンは、プリンスエドワード島で、美しい自然に自分で名前を付けていく。茂木先生はそれを「創世記での天地創造に於ける神がそれぞれに名前を付ける」事と対比させている。

「人間は読んだ本の高さの分だけ成長できる」
茂木先生が言われている通りだと思う。

この本に於いて、西欧のキリスト教的基盤をある程度知らないと理解出来ない事が多い。
初めに日本に「赤毛のアン」を紹介した村岡花子は、東洋英和女学院というキリスト教の学校で学び、クリスチャンであった。

アンの世界から読み取れることは、
「祈りは教会や家でするものではなく。祈りたい時に祈りたい場所で。自由な形で好きなように祈る。慣習に囚われない自由な発想」
おおおお、これこそが、カトリック教会や一部のプロテスタント教会で上手く行かなかった私が望んだ事だと思った。
2020年からは、社会情勢から、礼拝、祈祷会などで教会に集まることもなく、オンライン礼拝、オンライン集会が主流になっているが、私は個人的には嬉しかった。教会の偉い役員の目を気にする事なく、礼拝に参加することを許してもらえる、と。
教会の立派な役員たちは、出来の悪い信者や求道者や障碍者を嫌うものだ。

幸福とは、個人の主観。社会の役に立つか?などで評価される事がしばしあるが、ひきこもりやワーキングプアなどは、それで苦しい思いをしている。
(茂木先生、優しいなあ。と何故か感動)
今ある現状をどう感じるか。それが幸福になる方法なのだ。
子どもがいる場合、面倒と感じるか、幸せと感じるか。などなど。
他の事でも言えるかもしれない。
仕事に関しても、「仕事があるだけで感謝」と思える仕事を私は個人的に持っている。

「赤毛のアン」の核となる思想。一言で言えば、キリスト教のヒューマニズム。それは「与えられた運命を受け入れる」思想とも言える。
奇蹟に出会う方法は「ひたむきに生きること」。

「感動することを辞めた人は、生きていないのと同じである」アインシュタイン。

マシュウ、マリラ、アンのように運命を受け入れ、自然の美しさに感動し。現状に感謝し、ひたむきに生きる。

実に答えはシンプルなのである。現代の目まぐるしい日本ではなかなか難しいのかもしれないが。

私も「赤毛のアン」のシリーズは全て持っている。断捨離にハマりながらも捨てられずにいる。


中学生の時に学校の図書館で「赤毛のアン」を読みふけった事を思い出したが、そもそも私が「赤毛のアン」を知ったのは、実に俗的だった。
小学生の時、私は天地真理の大ファンだった。 当時は、売れっ子アイドルが看板番組を持ち、歌あり、ドラマありの昔のバラエティ番組が制作されていた。その天地真理の番組では、海外の小説を舞台にしたドラマもあった。 そこで「赤毛のアン」を知ったのだった。
西城秀樹さんがギルバート、小松政夫がマシュウおじさんを演じていた。
そして、中学生の時に図書館で村岡花子さんの訳した本を読んでいくのだった。
更に付け加えると、その番組では「若草物語」などもドラマ化していた。天地真理が主役の二女を。小柳ルミ子がしっかり者の長女を演じていた。
そんな小さい頃のインパクトが村岡花子さんの訳された本に向かわせたのではないかと思うのだった。 


横浜市営墓地にて。 こちらが「赤毛のアン」の翻訳で有名な村岡花子さんのお墓だ。 (この花を供えたのは私です。) この墓地の反対側のお寺にいたのが猫のルカ。
そんな自分の下地が、すんなりキリスト教を受け入れる事となったのかな?などなど。

ちなみに・・・
アンを引き取ったマシュウおじさんは、ヘブライ語(イスラエルの言葉)ではマタイ。
綴りはmatthew

マタイ福音書、マタイ受難曲のマタイだ。

(実は、マシュウがマタイだとは、昔行っていて、破門されたカトリック教会の信者のブログで知りました)。


人は百人百様。「私は不幸だ」と誰かが言っても変わってあげることは出来ない。与えられた状況を受け入れる事が最善なのだ、と改めておもうのであった。

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