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旅のヒント~読書記録169~

2004年 五木寛之先生のエッセイ。

五木寛之先生は大好きな先生だが、更に好きになった。
外国、並びに国内を旅した時の現地の風景が情景として観えるのだ。
さすがだ、と言わざるを得ない。

そもそも私が、日本各地、或いは、県内の寺院を廻り、「自分なりの百寺巡礼」などと適当な事を言っているのは、五木寛之先生に感化されてだ。
旅は健康であること!その通りだ。膝が痛い、お腹が弱い、などと言っていたら、どこにも行けない。私は、旅をするようになり、風邪もひかなくなったような気がするのだ。少しはひくのかもしれないが、寝込む事はない。
そして、荷物についても。旅を続けていくうちにわかる事も多い。

五木寛之先生は、「千所千泊」と題して、各地に行きたい!と言われ、実際、忙しく飛び回られている。
こういうのも本当に感化されてしまうのだ。
但し、私は飛行機は以前、発作が起きた事から外国は行かない。以前ほど興味もないというのもあるのだが。北海道も函館まで新幹線という旅だ。

教えられたのは、新幹線や飛行機の指定席を取る時に通路を挟んで右、左とあるが、その時間帯により、ずっと陽が当たり眩しくてたまらないという席もあるので、計画を立てて、との話であった。
昔は窓口に行き、係の人の言うままに、何も考えずに切符を購入していた。しかし、今では、ネットで自分自身で席を決められ購入できる時代であるから、今後の旅におおいに役立った。
実は、先日、修善寺に行く時の踊り子号は失敗したのだ。ずっとカーテンを閉めていた。

五木寛之先生の各地の寺の紹介が素晴らしかったので、絶対にそこに行こう!普段の生活は節約して、色々あっても我慢して、と思うのであった。


女人高野。奈良の山中にひっそりとたたずむ室生寺を、人々は「女人高野」と呼んだ。室生寺はシャクナゲで有名だ。また、日本一小さいと言われる優美な五重塔があることでも、よく知られている。
この寺が女人高野と呼ばれたのは、高野山が、かつて女性を拒む女人禁制の聖地であったころ、女性の入山、参篭(さんろう)を許した真言の寺であったことによる。
伝承によれば。はじめ奈良の興福寺の賢憬(賢璟)もよって創建され、やがて密教の流れをくむ寺となり、空海との縁も伝えられている。
戦後は真言宗室生寺派の大本山として知られるようになった寺だ。


しかし、先日、和歌山でのステージのあと、もう一つの「女人高野」のことを、地元の人から聞いた。
和歌山で「女人高野」」と言えば、そちらと思う人も少なくないと言う。
慈尊院というのが、その寺である。



野田山は金沢市街の南にあたる丘のような台地である。そこは昔から墓地として知られていた。公営墓地として日本一の規模とも聞いた。
大乗寺は、その野田山墓地にすぐ近く、したたるような新緑の中にひっそりとあった。
俗に黒門と呼ばれる総門をくぐって、赤門の二層の屋根を過ぎると、仏殿が堂々たる姿を見せてくる。曹洞宗の名刹として長い歴史を持つ寺だけに、すこぶる格講のあるたたずまいあ。仏殿を正面に、右手に庫裡、左手が僧堂である。法堂と呼ばれる講堂は、仏殿の背後にあった。


今日は小松の那谷寺である。
那谷寺と書いて、ナタデラと読むのは、どんな意味があるのだろう。北陸では、つとに有名な寺である。
「見て知りそ 知りて な見そ」
とは、有名な柳宗悦の「心うた」の中に出て来る文句だが、今度もそのことをしみじみ感じさせる那谷寺行だった。
もともと白山の周辺は、異様な文化混合のアジール(アジールとは、犯罪人や奴隷などが過酷な侵害や報復から免れるために逃げ込んで保護を受ける場所のこと。 ギリシア語のasylos(害されない、神聖不可侵の意)に由来する。)である。
また、白山信仰についても入り組んだ諸説があった。かつて十五世紀に蓮如が吉崎に進出した際には、在地の先住教団との間に、様々な対立や問題が多発しやことも記録に残っている。
那谷寺は予想していたよりも、はるかに複雑で、興味深い寺だった。そこには白山と重なる「白」への信仰が息づいている。
火山岩にうがたれた洞穴を生と死の転生する胎内と考え、そこから死を仲立ちとした再生をはかる信仰の背後には、半島からインドに及ぶ「白」崇拝の系譜があるのかもしれない。「白」を「浄」とみなす思想の根は「黒」を「穢」(え)とする感性と、どこでつながっているのだろうか。
この寺を訪れた芭蕉の有名な俳句「岩より白し秋の風」には、感性としての白だけでなく、白山とつらなる「白」信仰への目配りが込められているのだろう。


こちらに、五木寛之先生の訪れた百寺が一覧となっている。
足腰を鍛えて、是非行ってみたいと思うのだった。



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